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論理とモノ

Sur La Logique Et La Theorie De La Science (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)思うところあって、ジャン・カヴァイエスの『論理学と学知の理論について』をヴラン社のポッシュ版(Jean Cavaillès, Sur la logique et la théorie de la science (Bibliothèque des textes philosophiques), J. Vrin, 2008)でざっと読んでみた(ざっと読んだ程度でわかるようなものではないのだけれど……)。すでに邦訳もあるけれど(構造と生成〈2〉論理学と学知の理論について (シリーズ・古典転生)、近藤和敬訳、月曜社、2013)、今回は原書のほうで見てみた。これは数学者としてのカヴァイエスによる、学知の根底としての論理学への批判の書、あるいは批判の史的展開と思想的展開をからめたマニフェストというところかしら。よくわからないなりに、主要なストーリーラインを追っておこう。カヴァイエスはまず、カントに導かれるかたちで学知の根底には論証の体系が、あるいは数学的な組織化が横たわっていると考えられるようになったと指摘する。前者の立場はボルツァーノからフッサールへ、後者の立場はブランシュヴィックからブラウアーへと継承されることになった、と。これは思想史的な分岐の出発点となり、両者それぞれの議論にその後精緻化が進み、とくに前者においては形式的存在論や直観主義などが必然的に導入されることにもなっていく。

前者はいわばライプニッツ以降の、合理性の領域から数が追われて無限が招き入れられるという状況のさらなる展開だともいわれる。ボルツァーノは学知の限界を初めて概念化し、集合論を取り入れてみせたが、それにより、学知というものがもはや人間精神と存在それ自体の中間物、固有の現実を欠いた中間物ではなく、自律的な運動を伴う独特の対象と見なされることにもなった。こうして学知はすべて論証、すなわち論理学に帰されることになったというわけだ。

しかし今度はそうした論理主義が批判の対象になる。そこでは特殊なものはすべて削除され、いわば形相と質料の分離はとことん突き詰められるしかない。形相=形式のみが残り、かくして数学は形式の体系でしかなくなり、形式主義の外部をなすような論証的認識の問題や、物理学など外部の学問との関係性などは未決定のまま放置されてしまう。やがてタルスキが嚆矢となって、形式的なものと、それに対して外部をなす、形式をつなぐシンタクスとの区別が導入される。しかしそのシンタクスにしても、抽象的な規則にとどまる限り、内実のない空虚なものでしかない。ではそうした形式的なものをまとめあげる根拠はどこに見いだされるべきのか。こうして形式主義は、再びその起源をなしていた「対象」、すなわち現実的な「モノ」を再び見いだすことになる……。

もちろんその手前には、フッサールによる論理主義と意識の理論の統合などがあり、対象すなわちモノは「カテゴリアル(apophantique)な実体」であると規定されなければならない。対象は単に個別のものを抽象化するのではなく、もう一段進んだ一般的事物(事象)だということになる。おお、これはまさしく先の朱子学での「性」(性善というときの)にも通じる、二重の抽象化ではないか!とにかくこうして「対象」(モノ)と、それを捉える合理的主体の自律性とがともに犠牲になることなく連なるようにできる。現実世界の認知が、ここに担保されることにもなる。

動物からのグラデーション

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)今週もあまり時間が取れなくて、本読みは低迷中。というわけなのだけれど、いちおう今週見ているのはこれ。アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』(高島和哉訳、法政大学出版局、2018)。まだ全体の3分の1ほどの6章目まででしかないが、マッキンタイアがプルタルコスの系譜に名を連ねていることは実によくわかる。動物と人間との線引きを強調してきた過去の哲学的議論を批判的に相対化し、両者の差異をグラデーション、程度の差として捉え直すことを提唱している。マッキンタイアは、言語をもたないもの(すなわち動物)に、信念(概念化と判断)を帰することに反対する論者たちが、全般に、みずからの論を支える根拠を提示できていないことを示していく。たとえば真と偽との前言語的な区別が、言語を用いる諸能力と地続きであることを言い募る。

もちろん、言語をもつことによって獲得された能力には、前言語的な根をもつ信念を反省的に捉え返す(あるいは判断の理由をもつ)といった側面が含まれるわけだけれど、それもまた、連続性の相のもとで見直す必要があるのだ、ということのようだ。確かにそれは言えているだろう。前回、プルタルコスの考える動物の推論があまりに人間的・言語的だというようなことを記したけれど、プルタルコスがやや性急に、あるいは一足飛びに連続性を強調してしまうところで、マッキンタイアは慎重に踏みとどまり、より精緻な検証を加えようとしているかのようだ。同書は副題にもあるとおり、徳の概念にまで話が及んでいくようで、最初の3分の1を読んだ印象としては、話の流れとして他の動物にもそうした徳性が当てはまるというところにまで進んでいきそうに見える(?)。そのあたりについては改めてメモすることにしよう。

機械のなかの疑似生命たち

作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門本読みの時間があまり取れなかったが、今週の一冊はなんと言ってもこれ。岡瑞紀・池上高志・ドミニク・チェン・青木竜太・丸山典宏『作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門』(オライリー、2018)。AI人気の昨今ではあるけれど、こちらはさらに踏み込んだアーティフィシャルライフ(ALife)についての概説書。生命現象の様々な側面をシミュレーションするという研究領域の入門という感じ。プログラミング本ではあるけれど、打ち込んで学ぶというよりも、公開されているソースコードをローカルで実際に動かして、ALの主要な研究領域の入り口をざっと見る一冊か。たとえて言うならプログラミング絵本というところ。pythonの実行環境が必要だが、それさえ問題なければかなり刺激的なプログラムが並んでいる。当然いろいろな応用も考えられそうで、そうしたことを夢想するだけでも楽しい。

と同時に、ここには、生命現象のシミュレーションのどうしようもなく(というか絶対的に)パーシャルな性質というものを改めて突きつけられている気がする。析出され再構成される部分的な動作は、当然ながら部分的なものでしかないわけだが、それが別の部分とどうつながっていくのかといった経路は見えない。そのつなぐ部分というのが、もしかしたら現在ないしそれ以降の検討課題になっているのかもしれない……。そんなことに思いを巡らせてみるのも一興かもしれない。

今年もプロティノス本

Traite 31 Sur La Beaute Intelligible (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)仏ヴラン社が出している新しいプロティノスの新訳・校注シリーズから、今年は『第31論文』が刊行された(Plotin, “Traite 31 Sur La Beaute Intelligible (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)”, trad. Anne-Lise Darras-Worms, Vrin, 2018)。これを読み進めるべく、今週はまず希伊対訳版(Plotino, Enneadi. Testo greco a fronte, A cura di Giuseppe Faggin, , Bompiani, 2000)でこの「第31論文」を眺めはじめていた。年代順の分類での第31論文というのは、ポルフュリオスによるとされる通常の分類ならば第5巻第8論文のこと。そこでは知解対象の美について論じられているが、それぞれの節が長く、複数の話題が詰め込まれているため、どこか曖昧模糊とし、主筋がはっきりしないような印象を受ける箇所も少なくない。ところがヴラン社刊の新訳の仏訳のほうは、これに適度な改行と小見出しを付けていて、とても見通しがよくなっている。理解を高めるための優れた方法だ。こうした「編集」を施すことに個人的には大いに賛同する。もとのテキストの改行などを尊重して、余計なことをするなという向きもあるだろうが、個人的には翻訳はなんらかの解釈に立脚するものである以上、そうした介入は、読み手の理解の側に立つ限りにおいて正当化されてしかるべき、というふうに考えている。中味についてはまた今度。
Enneadi. Testo greco a fronte

テオフラストスの植物原因論

Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection Des Universités De France)

『植物誌』を少し後回しにして、テオフラストス『植物原因論』の冒頭を、Les Belles Lettres刊の希仏対訳版(Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection des universités de France), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2012)で読んでいる。対訳版第一分冊の前半にあたる第1巻をとりあえず読了。『植物誌』は形状や特徴の分類・体系化が主なトピックなのに対して、こちらは少なくとも第1巻に関する限り、茎、根、花、葉、果実といったそれぞれの部分について、発生論的な議論を中心とした観察の数々が提示される。当然ながら植物の種類によっても同一部分は様々に異なっているわけで、記述は事例の併記のようになっていかざるをえない。たとえば実がなるはずの木に実がならないとき、どのような原因で阻害されているのかを特定するのは難しいところ。発芽と結実の起源だけでも一筋縄ではいかない。植物そのものの属性や、環境要因が指摘されたりもする。若い木は二次的な発芽が盛んだが結実は少ないが、それらには湿地の木々と同様に水分が多いという特徴が指摘される。一方で実をなす木、若くない木はそれなりに乾いていると指摘される。さらにまた季節の要因、寒暖なども絡み、実際にどの木がいつどのように実をつけるかはきわめて多岐にわたる……。

しかしながら、たとえそうした多様性に手こずりながらも、テオフラストスの基本姿勢は、アリストテレスの学派の継承者らしくというべきか、自然への信頼という点で一貫して揺るがないように見える。テオフラストスもまた、自然はその「最善へと向かう傾向がある」(ἀεὶ πρὸς τὸ βέλτιστον ὁρμᾷ)としているが、さらに続けて、人が手を加えること(θεραπεία)もその傾向に従うと記されていたりする。こうした人的介入についての楽観的・性善説的なスタンスは、すでにして随所に散見される。栽培や農法については3巻から4巻で扱うらしいが、まずは続く2巻が気候などの要因をさらに詳しく取り上げているようなので、そちらに取りかかろうと考えている。