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なぜ絵を描くのか

造形の楽しみ


 今月は、1ヶ月間のコーディングチャレンジ「genuary」に参加しています。毎日のお題(プロンプト)があり、それを念頭に(即しても、即さなくてもよいというゆるゆるのルール)ジェネラティブアート作品を作ろうというというものです。これはなかなか楽しい。お題も、結構難しいものとかあったりして、悩みどころだったりします。

 個人的に作ったものは、notionにまとめてみました。↓

https://deltographos.notion.site/956aa8e7eb7a46ffbeafa5d375bc3a1c?v=536a56fe52f645d4bb92647a38719a79

 これに関連して、というわけでもないのですけれど、kindle unlimitedに入っていた『ヒトはなぜ絵を描くのか』(齋藤亜矢、岩波科学ライブラリー、2014)をさくっと読んでみました。小著ながら、とてもいいですね、これ。

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 動物行動学や発達心理学などを援用して、絵を描く行為がどう成立してきたのかを提示しています。

なぜ描くのか、と聞かれたら、わたしなら、描くことがおもしろいからだと答える。それでは身もふたもないと思われるかもしれない。しかし、描くことをおもしろく感じさせるのもまた、ヒトが進化させてきた認知的な特性ではないか。そう考えている。(p.97)

 チンパンジーの場合も、「役に立たない」ことを一生懸命するという行動が見られるのですね。

みずからの働きかけに対して返ってくる感覚のフィードバックを確認し、探索することが「おもしろい」。このことは彼らが物の特性を理解し、道具使用を習得できることと関係があるのではないだろうか。(p.104)

で、人間の場合にはさらに、次のような特性があるというのです。

ヒトの場合、表象を描こうとする欲求が強く、まだ自力では表象を描けない運動調整能力が未熟なうちから、「ない」ものを補って象徴を完成させようとする。それはいわば発見のおもしろさであり、「ない」モノを生み出すおもしろさだろう。(p.104)

表象とはつまりシンボルのことです。つまり表象を描こうとするのは、言語の成立とも関係しているらしいことが示唆されています。

(初出:deltographos.com 2023年1月29日)

言語の起源は即興?

普遍文法は退場(笑)


モーテン・クリスチャンセン、ニック・チェイター著『言語はこうして生まれる——「即興する脳」とジェスチャーゲーム』(新潮社、塩原通緒訳、2022)をいっきに読了しました。これも面白いですね。言語が発展したおおもとは、伝え合うための即興的手段、ある種のジェスチャーゲームにあったのではないか、という発想から、言語の成立やその諸特徴までをも、そうした発想のもとに網羅的に整理していこうというものです。

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もちろん、現人類の複雑な言語体系ができあがるには、それなりの長大な時間と、手段の蓄積・集積と、なんらかの核となるものが必要になります(物理学や情報論などで「動的平衡」がどうやって維持されるかという問題がありますが、それと同じように、なんらかの核がなければ、ひたすらカオスが継続するだけになってしまいそうですよね)。著者たちはそこで、限られた記憶を再利用しやすいような、手段の「チャンク化」が、そうした核をなしていると見なします。

それによって、ある種の比較的単純な着想が、とてつもない広がりを見せてきます。おお〜という感じ。このあたりからが本当の読みどころでしょう。ヒトの言語が生物学的に規定されているとか、再帰性にこそヒトの言語の特徴があるといったチョムスキー路線の話は、ことごとく退けることができる、とされます。

そもそもチョムスキー的な生成文法の発想は、遺伝子の発見や構造主義などの同時代的な流れの中で成立していた側面も強いと思います。時代は完全に別の流れに取って代わられました。では、この即興的言語論を下支えしている流れは何でしょうか。思うにそれは、論理的推論すらも確率論的に処理されうるのでは、という最近のchatGPTなどの発想ではないかなと思われます。

著者たちは、GPT-3をもとに、AIの処理は言語行為の主体の「理解」をともなうものではなく、ジェスチャーを起源と捉える自分たちの説にはまったくそぐわない、と強く批判しています。でも、GPTそのものというよりも、「確率論的な処理」がおおもとにあるというような発想が、著者たちの説の下敷きになっている感じは拭いきれません。確率論的な処理は、総じて昨今の学問的な大きな流れの一つを作っているような印象を受けます。

(初出:deltographos.com 2023年3月30日)

物語る人間

ホモ・ファブランス


70年代から80年代前半ごろまで、構造主義的な物語論とかナラティブ論とかが文学研究(おもにフランス文学系)の一端を担っていた時代がありました。グレマスとかブレモンとか、懐かしいです。今となっては古めかしいのですけれどね。その後、それらは急速に下火になったのでした。でも、「物語ること」が人間の言語活動・認識作用の大きな部分を占めているという「印象・直感」は、長く存続してきたように思います。で、近年のフェイクニュースなどの社会現象なども相まって、その「物語り」の問題系は、かたちをかえて再浮上してきた感があります。

そのことを表しているかのようなのが、ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』(月谷真紀訳、東洋経済新報社、2022)でした。人がフェイクを信じたり、ある種のドグマやイデオロギーに嵌まってしまったりするのも、その根底には必ずや「物語」があるのではないか、と著者は問うています。しかも、人が物語を取り込むのではなく、物語に人が取り込まれるのではないか、と。

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なぜそうなるのかというと、物語ることは人間の根底的な認知構造に根ざしているからではないかというのが、ここでの主張です。シミなどの点が3つあると顔に見えるのと同様に、なんらかの認識や理解には、必ずやストーリーが構成されて関与する、というわけです。そこで挙げられているのが、1944年のハイダー&ジンメルの簡単な実験用アニメーション動画です。YouTubeにあるのですが、単純な丸や三角形たちの動きが、なにやら人間関係のストーリーを彷彿とさせてしまうという実例ですね。ジラールの欲望論(これも古めかしい)なんかも思い起こされます。

物語論は本当のところ、その基本構造(クリステヴァなどの、生成文法モデルを援用しようとするものもありましたっけ)を明かすだけでは全然十分ではなかったのですね。なぜ、どのようにその基本構造が成立するのか、にまで踏み込んでいかないと。著者はそのことを重々認識しつつ、研究はこれからだとして、同書では当面のストーリーテリングとの付き合い方を提言するにとどめています。

(初出:deltographos.com 2023年5月13日)

『統治不能社会』賛

シャマユーが面白い


連休でもあることだし、と、読みかけだった一冊を読了しました。グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』(信友建志訳、明石書店、2022)です。で、この本、いい意味で予想を裏切られました!これはとても重要な著作だと思います。副題が「権威主義的ネオリベラル主義の系譜学」となっています。独裁政権まで認める現行の新自由主義の議論が、どのような経緯をたどって構築されてきたのかを、20世紀を通じて会社法や経営学を支えてきた思想の系譜というかたちで掘り起こしていくという、とてもスリリングな論考です。

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叙述スタイルも、様々な研究者や企業経営者などの発言を、そのまま再録して語らせるという、フランスあたりではあまり見かけないものを採用しています。扱うテーマゆえに、アングロサクソン系・ゲルマン系の論者たちが中心ですが、その広範なリサーチに圧倒されます。

経済的な自由主義は、経済活動を制限するものをことごとく排除しようとし、対抗的な論説を張り巡らせようとしてきたことがわかります。19世紀から労働運動が起こり、様々な批判が会社組織に寄せられるようになると、会社組織の論理を経営学的理論を駆使して反論しようとし、株主の台頭で経営陣らの存在理由が薄まっても、それを正当化する理論すらこしらえ、さらに20世紀後半になって環境問題などが出てきても、社会運動を骨抜きにするためにいろいろな術策をめぐらしていく……と。こうして一般化した新自由主義は、今や権威主義的・独裁主義的な政権すら、市場経済をほおっておいてくれる限り支持し、環境、ジェンダー、マイノリティの問題などは徹底的に無視もしくは排除するにいたっているのだ、というわけですね。こうした移り変わり、とても興味深いものがあります。

新自由主義にはしかし、大きな弱点があることも見えてきます。市場経済の無謬性・不可侵性ですね。ここがまさに要となる結び目で、これがほころんだら、積み重ねられた様々な構築物が瓦解しそうです。そして世界は徐々に、その結び目をほどく方向に行きそうな気配があるようにも見えます。これからのことを想うためにも、同書は手元に置いておきたい一冊だと思います。

(初出:deltographos.com 2023年5月4日)

相分離生物学とな?

「あいだ」への着目、再び


ときおり、なじみの薄い分野の本も読んでみたくなります。というわけで、今回は『相分離生物学の冒険——分子の「あいだ」に生命は宿る』(白木賢太朗、みずず書房、2023)を読んでみました。一般向けの本なのでしょうけれど、用語とか概念とか難しいです。でも、全体を貫く考え方には共鳴できるところがあります。

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相分離生物学とは聞き慣れない名称ですが、分子そのものではなく、分子相互の作用、いわば分子同士の「あいだ」に着目するというとても新しい、最前線の生命化学のようです。これの概要を紹介しようというのが、同書の趣旨なのでしょう。

で、面白いのは、最初のほうにある次のような指摘です。分子相互の関係というものは、極端に安定した状態にならずに、一時的な準安定の状態で推移したときにこそ、定常的な構造が現れるのだ、というのですね。安定した状態というのは、いわばゆで卵の状態です。で、生きた状態の卵は、あくまで準安定のまま推移するものだ、というわけなのです。著者は、古い卵のほうがプルとしたゆで卵になるのは、炭酸ガスが抜けてpHが上がるからだ、なんて読者サービス的な解説も加えています(笑)。相分離生物学的に考案した、ふわっとした卵がけご飯のレシピも紹介されています。

話は徐々にハードでコアな分子生物学の話になっていきます。実験と発想の転換とが繰り返されながら、学問的に深化していく様は、難しいですけれどスリリングでもあります。科学史的な読み物としても、とても興味深いものになっています。