「未分類」カテゴリーアーカイブ

アリストテレス思想圏からの贈り物

混沌とした思想圏を切り分ける胆力


 個人的に、長らく古代・中世思想史の研究と称して、素人学問をやってきました。最近こそ、そこそこ目が悪くなってしまったので、積極的に一次文献や論文などをあさってデータベースを作る、なんて作業はできなくなってしまいましたが、自分の関心領域に重なる著作などに出会うと、なんだか嬉しくなりますね。

 『哲学者たちの天球』(アダム・タカハシ著、名古屋大学出版会、2022)はまさにそういう一冊でした。

https://amzn.to/3iExzd8

 13世紀のアルベルトゥス・マグヌスと、彼が参照していたアリストテレス注解者ことイブン・ルシュド(12世紀)、そして遙か昔の注解者アフロディシアスのアレクサンドロス。この系譜を中心に、自然哲学や形而上学、霊魂論などの壮大な系譜を浮かび上がらせています。

 古代や中世の文献は、全般的に、記述されている内容も、ときにかなりとっちらかっていると思うのですが、同書はそれを、チャート式(悪い意味ではなく)とでもいいますか、かなり明確に切り分けてきっちり整理しています。これはわかりやすい。わかりやすすぎて、「こんなにばっさり明確に整理してしまっていいんだっけか?」と不安を覚えるほどです(笑)。若い編集的知性のたまものですね。

 個人的に、久々に刺激を受けました。ま、とはいえ個人的には、今後大量の文献を読み散らすようなことはできないと思われ、限定数の古典を読み返すくらいのことしかできないでしょうけれど、のらりくらりと緩く読んでいけたらと思いますね。たとえば、長らく読みたいと思っていて、数年前にようやく手に入れたものの、積ん読のままになっている『アリストテレス霊魂論の逸名コメンタリー3編』(Trois commentaires anonymes sur le traité de l’âme d’Aristote, 1971)とか、改めて開いてみようかな、なんて思いました。

ソシュール再び

アナグラム研究とは何だったのか


 ソシュール晩年の「アナグラム研究」については、これまでもいくつか有名どころの論考があったと思いますが、なんだかよくわからないままでした。そこでこれ。『ソシュールのアナグラム予想』(山中桂一、ひつじ書房、2022)をざっと読んでみました。

https://amzn.to/3XlvrXw

 アナグラムというと、一般に名前などの、アルファベットの入れ替えによる言葉遊びを思い浮かべますが、ここでいうアナグラムは、古典詩の詩法において存在したかもしれない、名前などを詩句の中に分散して埋め込む技法、ということです。たとえば日本語なら、横書きの段落の行頭文字を縦に読むと、なんらかの言葉が現れる、といった言葉遊びがありますが、そのたぐいのものですね。そのようなものが伝統的な技法としてあったのではないか、というのが、ソシュールの見立てだったのでしょう。

 伝統的なルールとして確立していた証拠が、ソシュールの研究からは見いだされなかったため、この本では「アナグラム予想」と称しているようです。では、そういうものは本当にあったのでしょうか。

 結論から言うと、あったらしい、というのがこの本の立場です。ウィリアム・ベラミーという研究者が、2015年の著書などで、シェークスピアの詩句の研究を通してアナグラムの考え方を定式化してみせているのだそうで、そのためこの本は、ベラミーの研究の紹介に、とくに後半のかなりのページを割いています。ベラミーの定式化の是非については、ちょっと判断できません(門外漢なので、理解・納得していない部分も少なからずあったりします)が、ソシュールのアナグラム研究を継承する研究が近年出てきた、というのはとても面白い現象に思えます。

 なぜソシュール自身は定式化に至らなかったのでしょうか。それはソシュールが、直感的にそうしたルールに気づいていたものの、音声面(二連音など)にこだわりすぎていたため、隠された語の復号のキーを捉え損なったからだ、とされます。アナグラムはやはり、文字表記を対象とした操作なのだ、というわけですね。

 

哲学のおおもと

おおもとは反論にあり


 最近読んだマルサスにしても、マルクスにしても、それぞれの立論は誰かの議論への反駁というかたちをとっています。思想的議論の根源というのは、やはり反論にあるのかもしれないなあ、と改めて思いますね。

 思うところあって、最近またプラトンによる『ソクラテスの弁明』と『クリトン』を希語で読み直してみましたが、そこでもやはり、議論の出発点は反論にあり、という感じでした。まあ、裁判の場で糾弾されているわけですから、反論から出発するのは当然といえば当然です。メレトスとかアニュトスとか、糾弾する側への反論こそが、ソクラテス側の立論の根底をなしている感じですね。根源は単なる対話なのではありません。そうではなくて、反論・反駁なのです。ここを取り違えてはいけないと思います。思想を語るための基礎は、反論にあり、と。

 昔、霊魂論の哲学史的研究と称してメモ取りながら読んだ『パイドン』も、Loeb版の同じ巻の所収なので、そちらもまた読み返そうと思っています。哲学的思惟と宗教的信仰のあわいを、改めて味わってみたいところです。

マルサス

人口論を読んでみる


 ミルの自由論の訳業がよかった斉藤悦則氏訳で、やはりkindle unlimitedに入っているマルサスの『人口論』(光文社古典新訳文庫、2011)を読んでみました。人口論は概要だけは知っていましたが、やはり実際に読んでみると、だいぶ印象が違いますね。ミルの本もそうでしたが、メインとなる主張は最初の章にまとめられています。

https://amzn.to/3gWRiUB

 マルサスはそこで、食料の生産(土地による生産)が等差級数的にしか増えないのに、人口は等比級数的に増え、その不均衡が、人口の増加を抑制する契機となり、しかもそれはもっとも多い部分、つまり下層階級に特に重くのしかかる、というテーゼを打ち出します。もちろん、時代から考えて、厳密な科学的データに依拠しているわけではないのですが、人間の営為が自然条件と密接に関連していることへの着眼は興味深いですね。

 また面白いのは、これが当時の時代的文脈に即して書かれているということです。英国で成立したという救貧法が、かえって庶民の労働意欲をくじく悪法であると批判し、また、コンドルセの理性主義やゴドウィン(『フランケンシュタイン』のメアリ・シェリーの父親)の進歩史観・理想論などをするどく批判しています。というか、そうした批判・反論こそが本の大きな部分を占めています。

 マルクス本人の思想がマルクス主義とは別物であるように、マルサスの議論も後世のマルサス主義とはだいぶ違っている印象です。マルサスの人口論はその後も版を重ね、内容も拡充していくといいますが、ここで訳出されているのは、匿名で出版された初版なのだとか。若い、才気に満ちたダイナミックな筆致を感じさせます。

スポメニック

謎な巨大建造物たち


 先日、アマプラで『最初にして最後の人類』を観ました。2018年に急逝したアイスランドの作曲家ヨハン・ヨハンソン(『メッセージ』とかの映画音楽を担当していた人物です)が監督した、ちょっと風変わりなフォト・ノベルのような作品。16ミリフィルムで撮影されたという、旧ユーゴに点在する巨大な記念建造物「スポメニック」を延々と映し出しながら、ヨハンソンの音楽とティルダ・スウィントンのナレーションで、SF作家オラフ・ステープルドン(『スターメイカー』の作者ですね)の原作をひたすら読み上げていくというものですが、映像と聲と音が、なにやら異様な迫力で迫ってきます。

https://amzn.to/3CP6wlK

 なんといっても、スポメニックの異様さが際立ちます。異様さ、というと語弊があるかもしれませんが、第二次大戦の戦勝記念として建てられたという巨大建造物たちを、様々なアングルと、動きをともなうカメラで撮っているためか、とても興味深い絵になっています。圧巻ですね。

 これは面白い、と思ったので、スポメニックの写真集を購入してみました。なんと、ガイド本です(!)。Donald Niebyl “Spomenik Monument Database” (Fuel, 2018) というもの。

 邦訳も出ているようなのですが、とりあえずオリジナルのハードカバー版です。表紙のカバーの裏側が概略の地図になっていて、本で取り上げたスポメニックがどのあたりにあるか、イラストで示されています。これは便利。本文中の個々の建造物についてのガイドも悪くありません。建造者(作家)も実に多岐に及んでいることがわかります。

 写真を眺めるだけでも飽きないのですが、でもやはり、ディテールももう少し知りたい気がします。その意味では、上の映画、ディテールをなめ尽くすように撮っていて、とても貴重なものかもしれません。

https://amzn.to/3TiOQ8Z