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ゾラの短編集が凄い件

稀代のストーリーテラー!


 これまたKindle unlimitedですが、ゾラの短編集を読んでみました。え、ゾラに短編が?そうなんです。長編ばかりが有名なゾラですが、実は中短編も結構あるらしいのですね。そのうちの5編を邦訳した『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』(国分俊宏訳、光文社古典新訳文庫、2015)は、副題にゾラ傑作短編集とあるように、どれも実に面白いんです!手頃な文庫での短編集はほぼこれのみとのこと。

 何が面白いかといえば、要はストーリーテラーとしての見事さです。複雑で屈折した登場人物、何かが起こりそうなサスペンス、そして考え抜かれたカタルシス。どの作品をとってもそういう部分が見事に組み合わされて、ぐいぐい引っ張っていきます。これは見事。

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 個人的な注目作は、表題作の1つ『呪われた家』。買い手のつかない荒れた屋敷で何があったのかが、三通りの話で語られます。もちろん、最後の話でもってそれ以前の話をひっくり返すというカタルシスが、ゾラ的には順当な読みではあるのでしょうけれど、これら三通りの話は、並列的に、どれが真実なのかわからないという感じでも読めてしまいます。するとここに、ゾラ的なストーリーテリングの妙味の謎が隠されているのでは、なんて気もしてきますね(妄想ですが(苦笑))。訳者の解説によると、この作品だけ、ドレフュス事件後の亡命先ロンドンで書かれたものとのことです。

 うん、ゾラの短編、ほかも探してみようかと思います。

ピランデッロ

メタ志向の萌芽


 これまたKindle Unlimitedの対象作品から、ルイージ・ピランデッロ『月を見つけたチャウラ』(関口英子訳、光文社古典新訳文庫、2012)を読んでみました。ピランデッロはシチリア出身の20世紀初頭の劇作家で、戯曲『登場人物を探す六人の登場人物』が知られていますが、短編もなかなかの名手だったのですね。

 その戯曲も未読ですし、残念ながら上演を観たこともありませんが、この文庫に収録されているなかにも、登場人物が作家に文句を言う一編があります(「登場人物の悲劇」)。「紙の世界」などもそうですが、総じてピランデッロの作品には、作品世界を独立した一つの別世界と割り切っている感じが濃厚にします。その意味では、登場人物が作者に話しかけてくるという一種のメタ小説、メタ戯曲のようなものも、技巧に走っているというよりは、ごく自然に作品世界の中に芽生えた、雑然としたメタ志向のような印象を受け、なかなか味わい深いものが感じられます。

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自由意志問題……

古くからの問題、偽の問題?


 去年の『現代思想』8月号(青土社)に眼を通してみました。特集は「自由意志」。自由意志はあるのか、決定論とは両立できるのか、決定論と運命論との違いは……などなど、古くからある問題を、改めて取り上げているのは、そういう関連の書籍が近年数多く出版されているからのようです。

 科学のほうから発せられる決定論の猛威に、哲学がなんとか自由意志を擁護したがっているという構図、というところなんですが、両者がかみ合わないのは、自由意志や決定論といった概念の定義が大雑把すぎる点によるところが大きいように思われます。だから人によっては(とくに科学者の側?)あまり正面切ってそのあたりに関わり合いたくないのかもしれません。この号でも、なにやら編集部からの依頼原稿だということを強調している(つまり、あまり積極的には参与したくない?)論者が目立ちます(笑)。

 自由意志vs決定論は、まずはその大雑把な概念を細かく切り分けるところから始めないといけないわけで、それを提唱する論考もいくつか見られますが、現代的な文脈ではある程度緻密にやろうとすると、決定論側のなんらかのセオリーが優位に立ちやすい感じもします。個人的にはそんな合戦に与するよりも、たとえば近藤智彦氏の「自己原因と無原因の間——エピクロスからアフロディシアスのアレクサンドロスまで」のような、思想史的な論考のほうがはるかに面白く感じられます。そういう論考ばかりで一冊作ってもらいたいほどですね。

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リアル・モモはどう戦う?

エンデの物語と現実世界


 ミヒャエル・エンデの『モモ』といえば、73年刊行(原書)の、児童文学のある種の金字塔とされている作品ですが、一部には現代社会を揶揄する寓意が強すぎるなどと批判する声もあるようですね。個人的にも、学生の頃に一度読んでみたときには、あまり感心しない感じだったのですが、kindle unlimitedに入っているのに気づいて最近読み直してみて、今だと結構面白く感じるなあ、と思いました。受け取り方というのはこうも変わるものなのですね。

 時間貯蓄銀行の「灰色の男」たちが人々の時間を奪ってしまい、人々はあらゆることに急かされ、人間性やゆとりを失っていくなか、少女モモだけが、それにあらがおうとします。モモは時間を司るマスター・ホラに見込まれて、カメのカシオペアに導かれ、時間の外に一時的に赴いたりします(竜宮城みたいです)。ここで、敵の灰色の男たちとホラとが手打ちをするような展開だと、一連のジブリの映画みたいになってしまうわけですが(苦笑)、エンデのストーリーはそうした安易な筋立てに入らず、ホラが示すかたちで、モモは灰色の男たちの弱点を突いていくことになります。まあ、正統なファンタジーの筋立てですね。

 で、ふと考えるわけです。現実の人々もあらゆることに小忙しく、機械的で、ゆとりや人間らしさを十全に味わうような生活はなかなかできませんが、そこでリアルなモモがいたとしたら、彼女はどう抗っていくのだろうか、と。ファンタジーのモモと違って、現実のモモは、ただひたすら呆然と立ちつくすしかないのではないか、何をどう変えていけばよいのか、まるでわからないのではないか、と……。

 ファンタジーの限界はそのあたりにありそうですが、そこから先は、哲学であったり社会科学であったりの出番になるのでなければなりません。たとえばレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』が示したように、災害などの突然の断絶によって、人間の善意、相互の協力関係、心の豊かさのようなものが改めて発動することがあるといいます。もちろんそういう現象は一時的なもので、最終的にはもとの日常性のリズムへと回収されていくしかないわけですが、それでもなお、可能性の芽は、どこかに小さくうずくまっているに違いないと、思わないわけにいきません。それを伸ばすための活動は、ごく小さな、草の根的なものでしかないかもしれません。

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ハロルド・イニス

大雑把でも刺激的で面白い


 メディア論の嚆矢と言えば、マクルーハンを思い浮かべる人は多いと思いますが、よりマイナーですけれど、その師匠筋というか、同じトロント大学で教鞭を執っていたハロルド・イニスこそが嚆矢だという人もいます。その主著の一つが文庫化されていますね。『メディアの文明史——コミュニケーションの傾向性とその循環』(久保秀幹訳、ちくま学芸文庫、2021)。原書は1951年刊のThe Bias of Communicationです。

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最近はメディア論系も多少とも既視感を覚えるものばかりで、ちょっと食傷気味だったこともあり、あまりちゃんと追っていませんが、これについては文庫版(さらにはkindle版)にもなったことだし、一通りざっと目を通してみました。古代文明などを取り上げていて、久々に大上段からの骨太の文明史・文明論です。

 だいぶ昔の学術書ですから、細やかな証拠を積み重ねていく類いの緻密な研究書ではありません(昨今はそういうもののほうが好まれている印象ですが)。コミュニケーションの媒体(粘土板だったり、パピルスだったり)が、社会的な価値の構築にじわじわと影響していく、との基本的なアイデアを、幅広い状況証拠でもって綴っていくというタイプの論考です。

 もちろん取り上げる対象の広範さ、引き出しの多さは、該博といわざるをえません。昔はこういうスケールのでかい仕事、論証は多少大雑把でも、アイデアの斬新さや著述の勢いでぐいぐい読ませる本というのが多かった気がします。今はそういう本はさほど望むべくもなく(今ならひたすら突っ込まれて、排除されていく感じでしょうかね)、それはそれでちょっと寂しい気もします。専門分野外の読者にとっては、ときにそういう「ごり押し本」を読む快楽って、あるような気がします(笑)。