「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

フライベルクのディートリヒ

とりわけ昨年くらいから、いくつかの書籍で取り上げられているのを目にしていたフライベルクのディートリッヒ。先のアラン・ド・リベラ還暦論集の最後にも、存在と本質の区別を実在論的に論じるトマスなどの議論を唯名論的な立場から批判する批判者として取り上げた論考が収録されていた。そのうちぜひテキストを読みたいと思っていたところ、昨秋Vrinから羅仏の対訳本で『著作選第一集』(右の画像を参照)(Dietrich de Freiberg, “Oeuvres choisies”, Vrin 2008)が刊行されていたことを知り、早速取り寄せてみた。収録されているのは「偶有について(De accidentibus)」と「存在者のこのもの性について(De quiditatibus entium)」の二本。前者を読み始めたところだけれど、すでにしてなにやら面白そうな流れ。偶有的な属性をもたらす原理が基体の外部にあるとする説を批判するもののよう。属性に関する議論は聖体の実体変化の教義(1215年の第4回ラテラノ公会議、1274年のリヨン公会議)に抵触する微妙なもの。序文の解説によると、ディートリヒはその通説に意を唱え、まさに孤高の歩みへと進んでいくのだとか。うーん、いいねえ。少し伝記的な部分も大まかにさらっておかないと(笑)。

偶有的属性についての論集:その2(脱力編)

これまた年越し本になる、先に挙げた『実体を補完するもの』からさらなるメモ。メソッド的に正攻法を取る論考も確かにあって、たとえばリチャード・クロスの論考は、トマスの「作用は基体に属する(actiones sunt suppositorum)」というテーゼ(力が外部から付与されるというもの)について、ガンのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスの異論(形相に力が内在する)を対比的にまとめたりしているのだけれど、それよりもひときわ目立つ(悪い意味で?)感じがするのは、とてもアナクロな対比論だったりする。それはつまり、現代的な分析哲学系の議論で論じられる「トロープ」概念との対比で、中世の唯名論を見ようというもの。うーん、これはちょっと面食らうというか。ちなみにトロープというのはドナルド・ウィリアムズが提唱したもので、世界の構成要素となる具体的な属性のこと。

ジョン・マレンボンの論考「アベラールはトロープ理論家だったか」は、アベラールが用いる属性概念をトロープの見地から検証しようというもの。それによると、アベラールの場合、偶有や種差の考え方が現代的な弱く推移可能なトロープと考え方とほぼ等しく、その存在論的カテゴリーは、内的に個体化されている基体と、基体に付随する形でのみ存在しうる、やはり個体化されている形相とに分かれるのではないか、という。だからアベラールはトロープ理論に近いものを考えていた可能性がある、という議論だ。うーん、それはどうかしらねえ……どうやらこれは、トロープ理論で中世を括る懐疑的なアラン・ド・リベラの立場への反論らしいのだが……。

クロード・パナッチョの「オッカムの存在論とトロープの理論」は、上のウィリアムズともまた違うらしいケイス・キャンペルのトロープ論と、オッカム思想の対比とを試みるというものなのだけれど、キャンベルの思想は、基体などというものはなくトロープのみが存在するという極端な立場(トロープ一元論)で、オッカムはというと当然本質的部分と偶有的部分を分ける二元論に立脚していて、この点が大きな違いなのだけれども他の方向性は大体一致しているのだという。これってひどく凡庸な論調……とか思っていたら、最後のほうで、オッカムの立場からの逆照射でトロープ論の問題を再考しようみたいな話になっていて、なんだオッカムはダシに使われただけか、ということがわかり思いっきり脱力する(苦笑)。こういうのを読むと、対比論的な議論のもっていき方の注意点が改めてわかるというもの。ま、それはともかく、トロープ論との対比論が出てきたきっかけはやはりド・リベラにあるらしいので、ちょっとそのあたりも見ておきたいところではある。

偶有的属性についての論集

フランスの著名な中世思想史家アラン・ド・リベラの還暦を記念する論集『実体を補完するもの–アラン・ド・リベラに捧げる、偶有的属性についての論集』(“Compléments de substance – Études sur les propriétés accidentelles offertes à Alain de Libera”, ed. Ch. Erismann et A. Schniewind, Vrin, 2008)を読み始める。さすがにその分野の大物だけあって、記念のエッセイと論文合わせて30本以上が寄せられている。論文はいずれも、タイトルにあるように偶有性の問題を中心とするもの。ページ数こそ限られているものの、それぞれ力の入った論考のよう。まだ最初のいくつかしか見ていないけれど、面白いものはメモしておこうか。以下まずとりあえずのメモ(笑)。

編者でもあるクリストフ・エリスマンの「偶有で説明される個体性–ポルピュリオスがたどった<キリスト教的>運命についての一考察」は、『イサゴーゲー』の差異についての解釈がその後どういう受容と変遷を辿ったかについて、ニュッサのグレゴリオスを中心にまとめたもの。ごく短い論考だけれど、とても刺激的。それによると、グレゴリオス(とそれに影響を与えたバシレイオス)は、属性をめぐるポルピュリオスのモデルを活用し、それを拡張する形で位格について論じているのだという。実体(ウーシア)を共通なもの(普遍)ととらえ、偶有にもとづく差異を位格の側に置くというのがその議論の骨子で、単に個体化は偶有によるのだとする場合の難点(偶発的事象があたかも実体以前にあるかのような解釈になってしまう)を回避しているというのだけれど、そのベースはポルピュリオスにあるという。また、あるいはボエティウスなどもグレゴリオスを経由してこの考え方を受け継いでいるのではないかとの仮説も末尾で提出している。うん、これは面白い視点だ。ちょうど、少し前に古書店で購入したバシレイオスの書簡集が手元にあるのだけれど、グレゴリオス宛ての書簡が重要なソースとして挙げられているので、これはちゃんと原文を読んでみようと思う。

強度論の系譜?

『現代思想』誌12月号をぱらぱらと。今年はめずらしく何冊か買っている同誌だけれど、12月号の特集は久々のドゥルーズ。けれどもやはり時は移り変わり、収録された論考の傾向も以前とはずいぶん異なっているなあ、と。やっとその実像なり本当の問題系なりに向き合う環境が整ってきたのだろう。個人的にはマヌエル・デランダ「ドゥルーズの存在論」が白眉。ドゥルーズの説くのが単なる本質主義的な実在論ではなくて、いわば抽象構造と個体の産出プロセスの実在論であるという、『意味の論理学』などに出てくる、主体を完全に排した上での個体化論の話を、俗っぽくならずに(笑)まとめあげている。その個体化プロセスで取り沙汰されるのが「強度」概念だけれど、デランダは、ドゥルーズのその概念が、本質主義の形而上学が仮定する形相重視の立場を転覆するものだとしている。「その一方で強度的な考えは、質料そのものに形態発生の力能を認め、本質主義を破壊する」という。

ちょうど最近、稲垣良典『習慣の哲学』(創文社、1981)を読んでいるところなのだけれど、「強度」(intensio)という言葉がトマスにも出ていることを知った。トマスが言うのは、行為・働きの強度ということで、それを次元的量とちからの量とに分けて考えるのだという。で、その後者が問題で、その場合の強度とは、何らかの本性または形相の分有の具合を指す用語なのだという。稲垣氏の引いているトマスの具体例では、愛徳の行為を積むことでそうした行為への適性(habilitas)が増すと、突然、より熱烈な愛の行為が生じ、行為の質に飛躍的な高まりが生じるという話が紹介され、それがいわゆる愛徳の増強(強度の高まり)なのだというように説明されている。これってほとんど創発論じゃないかしらん(笑)。ちょっとトマスのテキストそのものに当たってみないといけないけれど、形相と質料の話とは別に、こうした「強度」論という感じの系譜もたどってみれるかもね。

プロティノス論

岡野利津子『プロティノスの認識論–一なるものからの分化・展開』(知泉書館、2008)を一通り。プロティノスのヌース(知性)からの発出論を中心に、手堅くまとめた一冊。確かにその知性論は、一見(表層的になぞるだけなら)わりとすんなりわかった気にさせられるのだけれど、読み込むといろいろと難しい(苦笑)。その意味では、こうした整理はやはりありがたく、プロティノスを読むときの参考書として有益だ。けれども個人的には、最新の研究動向の紹介とかをもっと入れてほしかったなあと思う。一部の章は博論をまとめたものといい、先行研究への言及が少しだけある。おそらくはそうした先行研究のまとめみたいなところはばっさりカットしてあるのだろうけれど……。うん、プロティノスに続いて、プロクロスあたりの発出論とかもきちんと整理したものがあるといいなあ、と改めて思う。