「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

形式的存在論の射程 – 1

L'objet Quelconque: Recherches sur l'ontologie de l'objet (Problemes et controverses)フレデリック・ネフという研究者の『任意の対象ーー対象存在論研究』(Frédéric Nef, L’objet quelconque: Recherches sur l’ontologie de l’objet (Problèmes et controverses), Vrin, 1998)という著書を見ているところなのだけれど、これはなかなか深い問題を扱っている気がする。とりわけ歴史的に振り返る第二部に顕著だが、どうやらそこではフッサールが提唱した形式的存在論(あるもの一般を対象とした存在論)が大きなウエートを占めているようで、その形式的存在論の再評価ないし拡張が、同書の要となっているようだ。というわけで、少しゆっくりとこの第二部を読みつつ、形式的存在論が本来どんなもので、どんな帰結を引き出しうるのかを眺めていくことにしたい。まずはその第二部から第一章。著者は、『イデーン』第一巻(1913年)から始まる後期のフッサールが存在論の刷新を図り、記述心理学を排して形式的存在論を洗練していった点に注目する。その新しい存在論は全体と部分を扱う一種のメレオロジーで、論理学的なカテゴリー論の刷新でもあった。それが確立しようとするのは形式的な諸概念の階層構造(ヒエラルキー)、その頂点になんらかの事物、つまりは対象一般が来るような階層構造だとされ、カントのテーゼにも対応するものと見なされる。

ここで言う形式的とは、(1)物質的な見地から見た個別性を排すること、(2)個別の内容を含まない形式論理的な面、そして(3)直観的な意味作用の、アプリオリな空虚な形式を用いること、を意味するのだという。アリストテレスの考える旧来のカテゴリー論は、物質的な個別性をそのままにして分類しているがゆえに形式的ではないとされる。それはあくまで現実的な存在論で、それに先立つ形式的な存在論を考察できないというわけだ。そうした個別性を脱するには、近代において一般学としての代数が発達し、一般学の概念が産出されるのを待つしかなかった。つまり著者によれば、形式的存在論は普遍学(mathesis universalis)の延長線上にあるものと位置付けられるのだ。そこでの普遍学とはカント的に先取りされた企図なのだけれど、著者はそこにもう一つ、ボルツァーノの論理学も受け継がれていると見る。ベルナルト・ボルツァーノは19世紀前半のチェコの哲学者で、ライプニッツの影響を受けているとされる人物。ボルツァーノは、数学によって形式的存在論の可能性が開かれたことは理解しつつも、それが扱う対象一般というものを限定的に捉えていた(とフッサールは見なしていた)。フッサールからすると、事物(対象)というものは、人の意識から独立した客観的な事物のほかに、その内的な等価物、人が抱きうる表象にのみ存在するような事物をも含みもつ。ボルツァーノは、一般的な事物の空虚な形式(それは最上位の「類」とされる)と、存在しうるものの普遍的領域(個別領域に分かれる大元の領域)とを区別できていなかった、とフッサールは述べているのだとか。なるほど、対象一般ということになれば、当然表象的・仮想的な事物も含まれなくてはならなくなる。

初期ストア派の均質的な(?)世界観

初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)最近、ストア派(いわゆる初期の)の唯物論的なスタンスが改めて気になっている。そんなわけで再度確認しておこうと思い、エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)』(江川隆男訳・解説、月曜社、2006)を再読してみた。以前ブログで取り上げていたような気がしていたのだが、うっかりスルーしてしまったらしい一冊。改めて読んでみて、その問題の重要さを再認識する。原書は1908年のもの。やや読みにくさのある訳文だが、中味の重要さはもちろん損なわれない。カテゴリー論といえばアリストテレスのものがすぐに思い浮かぶだろうけれど、ストア派はまた別様のカテゴリー論を展開していた、というのが全体の見立て。クリュシッポスに代表されるような初期ストア派、あるいはその後の中期ストア派にとっての大きなカテゴリー分け(「基体」「性質」「様態」「関係」の四種類が掲げられる)の根底には、物体と非物体的なものという区別があった(前二者と後二者での区別)、というのがブレイエの説。世界を構成するのはすべて物体であるとされ(魂もそうしたものとして語られる)、全体的には唯物論(物質論)的であるわけだけれど、そうした中、たとえば物体とそれに与えられるとされる諸属性との結びつきや、他の物体に作用する様態といった事柄は、述語をもつこと、つまり動詞でもって「表現できること」(λεκτόν)をなしている。そうした事柄がすべて非物体的なものとして括られうる。それ自体としては実在しないもの、それが非物体的なものということになる。論理学と存在論とのあわいに、実体とは無縁なかたちで、非物体的なものが姿を現すかのようだ。

アリストテレスのカテゴリーでは別に括られる「場所(と空虚)」「時間」もまた、ストア派においては非物体的なものへと編入させられる。そこから先は自然学の領域となる。そのコスモロジーでは、物体には現実態・可能態のような区別はそもそもなく、物体同士も接触などしていない。物体同士のあいだには相互浸透が認められ無限分割がなされうる。物体の統一性(境界画定)を保持するとされる、「種子的ロゴス」(同書では「種子的動詞体」という訳語が当てられている)と称されるもの自体も物体であるといい、それは気息という力を有し、強度(トノス)という様態でその力が内的に作用している、とされる。そうした種子的ロゴスを通じて物体同士が織りなす関係性においてのみ、数々の非物体的な出来事が表現されることになる。物体が占める場所もまたそのようなものであるし、さらにまた、物体が占める境界の内側が充実する一方で、その外側には無規定さとしての空虚が広がるという世界観が示されもする。時間もまたそのようなものとして、実在性が否定される。時間はきわめて動詞的(述語的)なものでしかなく(動詞にしか適用されない)、物体の存在といかなる実体的な接触をもつこともない、というわけだ。同書の後半は訳者である江川氏による解説(というか、ストア派についての論考)で、そのブレイエ的な「非物体的なもの」をもとに、ブレイエが同書では直接言及していない部分も含めて、ストア派の全体像を描き出そうとしているのだが、それによると「場所」とは、「物体が産出する非物体的な<図式>であると言うべき」だとされる。空虚に対する場所のように、「時間」もまた、無規定な「無限なる時間」に対する限定的な時間が、物体によって産出された非物体的なものとされる。

分析美学……

分析美学基本論文集タイトルに惹かれて購入してみた分析美学基本論文集』(西村清和編・監訳、勁草書房、2015)。分析美学というものがどういうものかは寡聞にして知らなかったのだけれど、分析哲学が広義にはある種の形式論理的な議論であるとすると、これを美学に適用するということは、そのまま形式論理的に美的判断の命題や美術的対象の存在論などを問うことになるのかしらなどと勝手な目星をつけて読み始める。まだ前半だけなのだけれど、当たらずとも遠からずという感じで、芸術の定義の問題(ダントー、ディッキー)や美的価値についての論考(ジフ、ジブリー、マゴーリス)が並んでいる。確かに現代アートなど、それがアートであるということの定義を定式化するのは難しそうではあるのだけれど、ダントーは芸術が成立するには、そこに眼では見分けられないもの(芸術理論の雰囲気、芸術の歴史についての知識)が必要であるとして、それをアートワールドと名づけてみせる。いわば体系的な独自の意味の場が、感覚的な与件にすぎない対象に付加されることで、その対象が芸術として再定義されるということらしい。

なるほどこれは、先日取り上げた『数学の現象学』で詳述されていた、フッサールが用いる図式、つまり「外的知覚」(個別の対象)とそれを統一する「統一的契機」(理解をもたらす抽象体)とがともに与えられることで対象が成立するという話をどことなく彷彿とさせる。いくぶん静的な捉え方だが、フッサールの場合、後期になると、その統一的契機がどのように成立するかという動的な議論へと移っていくというのだけれど、このアートワールドの議論もまた、続くディッキーの論考では、対象成立の動的な側面へと話がややシフトしているように思われて興味深い。同著者はアートワールド概念は様々なシステムから成ると見、その大きな原則として、人工物であることと、鑑賞のための候補という身分が与えられることを挙げている。その上で、そうした身分がいかに与えられるのかという問題を取り上げようとしている。同じように、美的価値についての論考では、ジフが対象・鑑賞者・条件・評価の関係性を定式化しようとしている。とくに、提唱されている「アスペクト視」の考え方(ティントレットの絵は引いて見るが、ヒエロニムス・ボスの絵は近づいて細部を見るなど、作品ごとに見方が変化する)が面白い。

ガッサンディのアリストテレス主義批判・世界霊魂批判

Pierre Gassendi and the Birth of Early Modern Philosophyこのところ少し中世プロパーなところから離れたアーティクルが続いているが、それは少しばかり、後世からその時代が回顧的にどう見られていたのかを改めて眺めてみたいと思っているため。というわけで、今度はガッサンディについての概説書を見てみることにした。アントニア・ロロルド『ピエール・ガッサンディと初期近代哲学の誕生』というもの(Antonia Lolord, Pierre Gassendi and the Birth of Early Modern Philosophy, Cambridge University Press, 2007)。ガッサンディの生涯から始まって、その思想をテーマごとにまとめてみせている。個人的にはまだ冒頭のあたりをうろうろしているだけだけれど、ポイントがまとまっていて役立ちそうだ。とりあえず、第二章「ガッサンディの哲学的対立者たち」が面白い。ガッサンディがアリストテレス主義、世界霊魂論、デカルト派などをどう批判しているかをまとめている(以下メモ)。

ガッサンディのアリストテレス主義への批判は多岐にわたっているようだが(とはいえ、たとえば中世の個々の神学者を取り上げるようなことはいっさいしていないのだとか)、その中心をなしているのは、きわめて唯名論的な「存在するのは個物の性質のみ」というスタンス。永遠の真理とか本質に関わる命題というものは条件文においてのみ真理をなす(これはスアレス的な論点とされている)とガッサンディはいい、そこから敷衍するかのように、実体的な「範疇」の存在も否定する。質料形相論についても、形相をかたちやパターンと見なす分にはよいとしながら、その「具象化」は避けるべきだとしている。つまり形相が自然界において能動的原理をなしている、という議論は斥けているということ。ガッサンディは、そもそも被造物が発端となる「二次的因果関係」を認めない。また、形相を作用原理だとするのは一部のアリストテレス解釈者の誤りだとして、原典への準拠の不十分さも糾弾しているという。

そんなわけなので、世界霊魂についても同じような論拠にもとづき批判する。ガッサンディが批判の対象とするのは、ロバート・フラッドなどが唱える「非物質的」な世界霊魂論。それとは別筋の、霊魂をたとえば生命の熱として解釈するような物質論的な人々は批判対象にしていないのだとか。デカルト的自然学についても、たとえば物体の本質は延長だという議論が、非物質的な原理を再度持ち込んでしまうという点で、ガッサンディは難色を示していたという。世界霊魂の批判は、オルタナティブな因果論、すなわちガッサンディが唱える原子論を導き入れることを主眼として展開されている、と著者は見る。

存在論の前線

アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)トゥオマス・E・タフコ編『アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)』(加地大介ほか訳、春秋社、2015)を読んでいるところ。とりあえずざっと3分の2ほど。アリストテレス的な形而上学の現代的な刷新をテーマに編んだ論集で、各章を構成する論文の数々は、どれも結構読ませる。各議論の全体的な基調をなしているのは、E.J.ロウが提唱する四カテゴリー存在論。アリストテレス的な分類を同じ精神でもって刷新したものということで、アリストテレスの一〇のカテゴリーに代えて、四つ(実体的普遍者、属性(トロープ)、個別的実体、様態)を提唱しているという。これをベースに、その問題点の指摘や修正意見、逆方向の拡張の可能性などを各論者が様々に繰り出していく。というわけで簡単なメモ。

ローゼンクランツ「存在論的カテゴリー」(五章)によれば、形而上学というのは「高い一般性のレベルで存在者が相互にどのような仕方で関係しているかを吟味する」学問とされる。そのため、形而上学は存在論(存在者をカテゴリーに分ける)と宇宙論(秩序を備えた体系としての実在の特徴を記述する)とがありうる。後半のほうにはいくつか宇宙論的な論考もあるようだけれど、やはり論集の比重としては問題の多い前者が焦点となっている。アレクサンダー・バード「種は存在論的に基礎的か」(六章)では、形而上学の試みとは「もし科学の教えが真であるなら、世界はどのようでなくてはならないかを明らかにすること」だと規定されている。上のロウの四カテゴリーに関しては、ジョン・ヘイル「四つのカテゴリーのうちふたつは余分か」(七章)が、普遍者とその属性は実際のところ何を指しているかわからないという根本的な疑問を発していて興味深い。その上で、ウィリアムズのトロープ説(普遍者は個別例の内部にしかなく、抽象的な個別者すなわちトロープにほかならない、とする穏健な実在論)とロウの立場との意外な親近性を指摘していたりする。逆にピーター・サイモンズ「四つのカテゴリー—そしてもっと」(八章)は逆に、カテゴリーを析出するための根拠付け(同著者はこれを因子と称している)を考えていくなら、カテゴリーはもっと多くなければならないのでは、という別の問題を提起している。

ウィリアムズのトロープ説での普遍者は、真に「存在する」と言えるのかという問題があるわけだけれど、それにも関連して、実在しないものの量化を問い直しているのが、ティム・クレイン「存在と量化について考え直す」(三章)。フィクションの登場人物など実在しないものを量化できるのか(つまりsomeなどの量化子をつけて命題にしうるかということ)が基本問題になっているのだけれど、クレインは談話の対象という、存在者を直接意味しない概念を提唱し、それが量化可能なのだと論じている。エリック・オルソン「同一性、量化、数」(四章)は、水などの不可算名詞とされるものも、それをさらに一般化したネバネバ(gunk)のかたまりなどであっても、非同一とみなすことや量化は可能であり、数として数えられる(!)という可能性を指摘している。なにやらこのあたり、なんともいえず面白いのだ(笑)。