「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

メレオロジー

そのタイトルに惹かれて(笑)、中山康雄『現代唯名論の構築 – 歴史の哲学への応用』(春秋社、2009)を読み始める。とりあえず最初の3分の1にあたる3章まで。バリバリの難しい論考なのかと身がまえていると、想定読者に「君」と語りかけるスタイルで、入門書的な雰囲気を漂わせてくる。とはいえ、実際に「一般外延メレオロジー」の話に入っていく段になると、形式論理学っぽさが増してくるので、ちょっと読むスピードが落ちてくる……(苦笑)。同書の基本スタンスは、外的世界には個物しかなく、その個物をインスタンス(事例)として上位のクラス(類)を作るのは認識の働き、つまりは形式論理学的操作でしかないというのが出発点(だから唯名論ということになるわけだけれど)。で、部分と全体を形式論理的に考えるメレオロジー(部分論)が、その操作を説き明かすための基本体系として用いられる。個物は何かの部分をなし、それらが何らかの全体をなすのは、メレオロジーというある公理系に沿って操作されているからと説明できる、ということか。同書で用いられる「一般外延メレオロジー」、一見するとなんだか特殊な公理系のようにも見えなくもない。でも、「いやいや、これって日常の言語がやっている操作に近いでしょ?」ということを著者は示そうとしているようだ(というか、日常言語にある程度近くないと、形式論理の操作としては一般性を得られないことになってしまう?)。

クラスには様々なものがあり得るわけで、出来事や行為のようなものまで含まれるという(出来事や行為にも名前を当てることができるわけだから)。で、そういう時間の幅をもつものまで操作対象にするためには、部分としての時間も考えなくてはならない。その時間部分を考慮するために、同書でのメレオロジーは四次元主義と言われたりする。そう聞くとなにやら仰々しいけれど、とにかく言語的な処理の根源(形式論理)を解釈する以上、そういう時間部分の考え方は確かにある程度必要かつ有効そうには見える(ちょっと個人的には何かひっかかりも感じるのだけれど……それはまた別の話)。こうした道具立てでもって、副題にある「歴史」に向け、語りや記述などの問題がこの後論じられていくようなので、ちょっと楽しみではある(笑)。

トマスと西田哲学?

長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは本源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせいで徹底化していないとこれを批判すらしてみせる。その上で、日本語の「ある(あり)」を助動詞に分類する時枝誠記(!)の「反・存在詞」議論を取り込んで、肯定的断定の「だ」に置き換えることを提案している。ちょっと驚くのだが、つまりトマスにとっての神は日本語的に「<だ>そのもの」とするのがよいのではないか、というわけだ。うーむ、これはトマスの存在論もさることながら、西田哲学の解釈の問題や、日本語をめぐる言語哲学の可能性などまで盛り込んだ、いってみれば時限爆弾のような挑発的議論かもしれない(もちろん良い意味で。けれど一歩間違うととんでもないことにもなりかねないような……)。この考察をさらに展開する作業が著者の死によって中断されているらしく、その意味でも、まさにこれは後続世代に突きつけられた挑戦状という感じ(?)。

24人の哲学者の書

これまた懸案だった『24人の哲学者の書』校注版(“Le livre de vingt-quatre pilosophes – résurgence d’un texte du IVe siècle”, trad. Françoise Hudry, Vrin, 2009)を読み始める。これ、テキスト自体は12世紀から13世紀に成立したものとされ、24人の哲学者が、集まった席で「神とは何か」という問いをめぐって議論し、最後にその24人が自分の定義とその説明をしたものを、そのうちの1人が報告したという体裁を取っている。定義と説明と、とても簡素な断章形式で綴られている。その校注版テキストと、それに先立つ論考から成るのがこの本。訳・校注のフランソワーズ・ユドリーの論考はまだ途中までしか見ていないけれど、その24の定義と説明について、もとになった出典をかなり詳細に追っていてすばらしい。断章形式はポルピュリオスの『命題集』を意識したものらしいともいう。全体として、ポルピュリオスの同書や、失われた著作(『哲学史』なるもの)も含むその他の著書、著者不詳らしい『パルメニデス注解』、『カルデア神託』、プロティノスなどが、合わせ鏡かエコールームかのように反響し合っている感じ。さらに4世紀のマリウス・ウィクトリアヌスのテキストとも共鳴するのだという(これが論考の後のほうで重要になっていくようだ)。うーん、この細やかな対応関係には思わず唸ってしまいそうだ。

ボナヴェントゥラ論

おお、これは期待以上。さくさくと読めてしまって早くも5章めまで。坂口ふみ『天使とボナヴェントゥラ – ヨーロッパ13世紀の思想劇』(岩波書店、2009)は、本格的なボナヴェントゥラ論。70年代、80年代の同著者の論文をまとめた論集が、2000年代末の今出るというのもちょっと驚きだが、様々な論点を整理する手さばきの鮮やかさなどからすれば、もっとはるか以前に出ていてよいような一冊。各論文を貫くのは、トマスとボナヴェントゥラの対照性だ。天使を人間の上位ヒエラルキーと明言するトマスに対して、ボナヴェントゥラは人間が身体をもつことが天使よりも神の似姿に近いといった面もあることを指摘して、そのヒエラルキーを相対化する。そうしたスタンスの対立は、天使の複合性の議論(トマスに反して、ボナヴェントゥラは天使も質料と形相から成るという)、個体化の議論、個物の認識論へも持ち越されていく。個体化原理をあくまで形相にのみ求めるトマスに対して、ボナヴェントゥラは質料にも形相との結びつきを「欲求する」として、そこにある種の積極的な関わりを認める。ひるがえってそれは、個体こそを前面に置く考え方にもなり、かくして認識論においてもボナヴェントゥラはトマスに対立し、感覚的認識と知解とが一続きであることを示す(個物の直接的認識の立場)。そんなわけで、魂の機能区分についても、トマスとはまったく異なる立場を取ることになる……。

とまあ、実にあざやかにトマスとの対照が描き出される。こういう対照といえばドゥンス・スコトゥスなどをつい思い浮かべてしまうのだけれど、なるほどボナヴェントゥラはそれに先だってすでに同じような思想圏を形作っているというわけか。著者もまた、そうした対立をさらに広いフランシスコ会の思想動向としても捉えている。さらに、その思想圏を単純にアウグスティヌス主義とか、神秘思想とかで括ってしまうことの危うさも指摘している。13世紀特有の問題意識、史的文脈を忘れてはいけない、というわけだ。なるほど、とても刺激に満ちた考察。

アーレントのスコトゥス論

ちょっとついでがあったので、アーレントの『精神の生活』の仏訳版を入手してみた(Hannah Arendt, “La vie de l’esprit”, trad. Lucienne Lotringer, Quadrige-PUF 1981-2007)。で、さっそくトマスとドゥンス・スコトゥスについて触れている第二巻第三章「意志と知性」を読む。その前の章ではアウグスティヌスが意志に重きを置いていた話を取り上げていて、それと対照的な議論としてトマスの知性論(知性が意志に勝る)に言及し、それをもう一度反転させる者として、アウグスティヌスの継承者的にスコトゥスが取り上げられる(スコトゥスは意志を知性よりも重視する)。でも、アウグスティヌスやアリストテレスの文脈とは別に、スコトゥスにあってはその独自性(偶有性や意志、自由の肯定など)がとりわけ重要だというのがアーレントの基本的スタンス。「その著作の最も深い部分にあるアウグスティヌスの遺産はあまりに明白で見過ごせない。アウグスティヌスをそれほどのシンパシーと深い理解で読んだ者はいなかった。けれども、そのアリストテレスへの負債は、おそらくトマスが抱える負債よりも大きいものだった。けれども、単純な事実として、その思想の中核、つまり自由を手にするために喜んで支払う対価となった偶有性に関する限り、スコトゥスには先駆者もいなければ後継者もいない」(p.440)。知性よりも意志に重きを置くというのはアウグスティヌス譲りだといい、一方で「証明不可と予感されるものを、純粋な議論によって証明することに躍起になる」(p.432)点はまさにアリストテレスに学んだがゆえだといい、そうした上で、後にも先にもないオリジナリティこそがスコトゥスの注目点なのだというわけだ。

うーむ、アーレントは「この場でスコトゥス思想の独自性を正当化することは残念ながらできない」としている(p.493)。同書はアーレントの死後に刊行された遺稿なので、結局そうした独自性の読みは完遂されなかったことが悔やまれる。このあたりは後世の人への宿題となったわけだけれど、これはなかなか厄介かも。そういう読み方をするには比較研究みたいな形にするほかなく、当時の思想的伝統やら隆盛だった議論体系などをちゃんと掴んだ上でないと、どこがどうオリジナルなのか、それにどういった価値があるのか、といったことはわからないということに……。いわばスコトゥスは、方々をめぐってきてやっと取りかかれるタイプの思想家ということになるのかしら。でもアーレントはスコトゥスのオリジナリティはかなりぶっきらぼうな形で唐突に出てくるみたいなことも言っているし、案外目に付きやすいとか?このあたり、もう少し検討してみよう。