先月の村上本に触発されて(笑)このところ、少しずつでもレヴィナスの未読のものを読もうかと思っている。レヴィナスは個人的に、なぜか主著ではないものばかりをつまみ食いしてきた感じがあって(『タルムード四講話』とか『貨幣の哲学』とか)、改めて少し長くこだわってみたいという気がしている。そんなわけで、まずは『われわれのあいだに』(Emmanuel Levinas, Entre nous – Essais sur le penser-à-l’autre, Livre de Poche, Grasset, 1991)。年代順に講演や雑誌発表の論考などを集めた論文集。もちろん邦訳(合田正人ほか訳、法政大学出版局)も出ているが、個人的にはできればレヴィナスは(も?)原典で味わいたいところだ。語彙ひとつとってみても通常とは違う意味合いが込められていると言われるけれど、そうはいってもなにやら普通にも読めてしまい、こちらが受け取る文意がどこからか微妙にずれていく感覚があって、滑走するような心地よさと、宙づりになっているもどかしさを両方感じ取ることができたりして、なんとも複雑な気分になる(決して悪い意味ではないし、そもそもそういうのは嫌いではないのだけれど)。ある種の人がとても「ハマる」らしいというのも頷ける。
時折ぼちぼちと読んでいるジャン=リュック・マリオン。今回は2010年刊行の『見るために信ず』(Jean-Luc Marion, “Le croire pour le voir”, Éditions Parole et Silence – Communio, 2010)という新旧取り混ぜての論集からいくつかを拾い読みしているところ。とくに最後のほうに収録されている「贈与の認識」(La Reconnaissance du Don)などは、おそらく未読の別の著作『与えられていること』(”Étant donné”)とも密接に関連しているものと推測されるけれど、いずれにしても「現れ」そのものの「非現性」といった、マリオンの著作に反復されている主要な問題系がここでもヴィヴィッドに息づいている(笑)。才能とか運とか、いずれも「付与される・与えられている」ものとして人が認識するものは、実はまったく目にできない。そんなときに人は果たして本当にその「与えられたもの」にアクセスできるのか、というのが根本的な問い。贈与は「自動配置」(auto-position)されるといわれ、そのため贈与のプロセス自体は目にできず、贈与の起源であるとかその偶然性、贈り主が見えなくなってしまう。贈与は、それが贈与であった痕跡すら破壊しながら完遂される。けれども、それをあえて遡及していくことがとりもなおさず現象学の課題だというわけだ。最低限の透明性しかない贈与を通じて、贈り主の側からの贈与を認識するというプログラム。見え隠れ、明滅のいわば反転を試みること。それが神学的なパースペクティブに繋がっているあたりは、マリオンおなじみの一種のマニフェスト(それ自体がいわば隠れたものを見せることなのだけれど)という感じがする。「不可視の聖人」(Le saint invisible)という別の論文でも、聖人の聖性そのものが見えないということがどういう構造(神学的?)をなしているのかが論じられる。