「現象学系」カテゴリーアーカイブ

フッサール

相変わらずまとまった時間が取れないので、切れ切れに読んでいるのが『現代思想12月臨時増刊 – フッサール』(青土社、2009)。現代思想の増刊も久々だ。それにしてもフッサールの読み直し、なかなか興味深い。特にフランス系の著者たちを中心にいくつかの論考が翻訳されていて、ちょっとしたムーヴメントっぽさを感じさせてくれる(笑)。ただ、現代思想誌のこうしたフォーマットがやや旧弊という感じもしなくはないのだけれど……(最近とみにそういうことを考えてしまう……)。とりあえず読んだうちで個人的に面白かったものを挙げるなら、斎藤暢人氏の「全体と部分の現象学」という論考。なんとメレオロジーとフッサールを切り結ぶ、というなんとも刺激的な内容。メレオロジーというか、トロープ理論なのだけれど(同著者によると、トロープは「普遍者とされる色、音などの属性を、敢えて個別者としてみたもののことである」(p.280)と説明されている)、フッサールの存在論に出てくるという複数体概念(Mehrheitだそうだ)が、このトロープが形作る束としての個体性概念と通底するのだという話だ。さらに最後のところでは、不可算名詞に代表される「量的なもの」を経ることによって、いわゆる個体と複数体とがそれぞれ構成される機序の共通性と違いとが浮かび上がってくるという寸法だ。そういえば、トロープ理論はアリストテレスの存在論の枠組みと対照をなす、なんてことが同論考でも言われているけれど、中世後期あたりにはすでにしてトロープの先駆けとなるような考え方も多少出てくるなんて話もあって(アベラールにまで遡れる、みたいは論もあって、アラン・ド・リベラが多少とも批判的に取り上げていたっけね)、個人的にはいろいろ気になってはいる。そのうちまとめて検証してみたいところなのだけれど。

リクールとアウグスティヌス

少し前にポール・リクールの小著『悪』を取り上げたけれど、そこで気になったのは、リクールに散見されるアウグスティヌスへの言及。で、そのあたりのことをまとめている論考はないかしらとか思っていたら、ちゃんとそのテーマで参考書が出ていた(笑)。イザベル・ボシェというアウグスティヌスの研究者による小著。タイトルもずばり『ポール・リクールの思想におけるアウグスティヌス』(Isabelle Bochet, “Augustin dans la pensée de Paul Ricoeur”, Editions facultés jésuites de Paris, 2004。リクールの思想的変遷とアウグスティヌスの絡みを時系列的に整理している。意外だったのは、悪の問題についての立場(アウグスティヌスがグノーシス的な枠組みをかえって温存してしまったといった批判など)が、上の『悪』のはるか以前、60年代の論文などに見えているという話。なるほど、そのあたりの話は結構古いのか。リクールはその後大きく解釈学を拡大して、『時間と物語』などを記すわけだけれど、そこでも出発点となっているのはアウグスティヌスの『告白録』への批判だといい、その後の聖書論や記憶論でも、アウグスティヌスのテキストへの参照が、その変遷の節々にに大きな影響を及ぼしてきたらしいことが示されている。ふむふむ。そのあたりのポイントも踏まえつつ、聖書解釈学あたりは改めてちゃんと押さえておきたい気がしている。

悪の問題

ちょっと思うところあって、ポール・リクールの小著『悪 – 哲学と神学への挑戦』(Paul Ricoeur, “Le mal : Un défi à la philosophie et à la théologi”, Labor et Fides, 2004)を読んでみる。ローザンヌ大学での1985年の講演テキストだそうだ。リクールはここで、悪の存在という問題が、それと表裏をなす罪の問題とともに、弁神論(悪の存在が神の全能と矛盾しないという説)の系譜の中で、いかに始原的な問題をなしてきたを振り返っている。それは神学の体系・全体を脅かすものなのだという。まずは神話、グノーシス思想、そしてアウグスティヌスによる悪の扱いを概観するリクール。特にアウグスティヌスにおいて、「unde malum ?(悪はどこから来るのか)」という問いが存在論的な意味を失い、「unde malum faciamus(私たちはなにゆえに悪をなすのか)」という問いが掲げられて、グノーシスのディスクールが中身こそ破棄されるものの、形式は再構築されるのだという。この指摘は面白い。もっとテキストに即した検討を見てみたいところ。リクールのこれまでの著書に何かあったような気もする。後で確認しよう。

結局リクールによれば、後の時代の弁神論においても、悪についての問いの緊張状態は解かれないという。カントやヘーゲルに至っても、また他のリソース(理性といった)がつぎ込まれて、悪の問題が投げかける問いは再生されていく、と。「凡悲劇論が凡論理主義に回収される世界観にあって、被害者の苦しみにはどんな運命が残されているのか」(p.48)というわけだ。悪というものの現実が神の善性と相反することを認める立場に立ち、従来の弁神論とは「別の仕方で」悪を考えるカール・バルトの神学すら、シェリングがルネサンスの思想家たちに見出したという「神性のダークサイド」を開くことになる可能性を見てとっている。振り出しに戻るかのように……。その上でなお、悪の問題への思考によるアプローチを降伏させてはならない、より緻密な論理をもって臨み、さらに行動と感性をも動員せよ、とリクールは唱える。悪への実践的抵抗、喪の仕事をモデルとした愁訴の変容など、ヒントも示唆しているが、それを受け止めるような議論はその後のフランス思想界(でなくてもよいのだけれど)とかでもなされているのかしら、とちょっと気になる。

ドゥンス・スコトゥスの場合……

最近はアベラールなども、英米系の論者によってどこかそうなっているという話だけれど、原テキストと現代的な論者らによる読み込みとの間になにか乖離というか違和感というかが大きく感じられる中世の思想家の代表といえば、個人的にはやはり13世紀のドゥンス・スコトゥスだ。たとえば往年のジルソンのスコトゥス論などもそう。で、またもファルク本のメモになるけれども、ここでもスコトゥスは哲学史上の転換点を体現する者として描かれている。なにしろスコトゥスにおいては、知性の第一の対象は存在そのものとされ、結果として存在の一義性(あらゆるものの存在の共有)の議論が導かれて被造物から神へとアクセスする途が開かれ、と同時にその一義性の上に個物を個別化する原理、「このもの性」が置かれて、被造物のもつ有限性が哲学史上初めて肯定的に捉えられるのだから。世界を織りなす構造としての偶有性も初めて肯定され、その裏返しだけれど人間のもつ自由も高らかに肯定される。そもそもキリストによる救済というのも、原罪の回復・充足ではなく、栄化という肯定的な動きとして解釈される。普遍を個物より重んじるという古代ギリシア以来の伝統も一挙に転覆される……。ニヒリズムへの対抗原理みたいなものすらほの見えているかのような印象……。

うーん、しかしスコトゥスのテキストをちょこちょこと読み囓る位では、なかなかそういうヴィヴィッドかつ肯定的・称揚的なスコトゥス像には行き着かないのだが……。じっくり腰を据えて取り組めば、そういう解釈へと至るものなのかしら。精妙博士の異名をもつだけに、スコトゥスのテキストは煩雑。細かい議論が延々と続く、みたいな。このギャップをどう埋めればよいのか、あるいは視点を変えて、こうした現代的な議論でのスコトゥス像がどういう過程を経て現れてきたのかとか、なかなかに悩ましい問題ではないかしら(と個人的には思う……)。ファルク本ではハンナ・アーレントのスコトゥス解釈が時折引き合いに出されている。アーレントの『精神の生活』の第二部に出てくるのだという。あるいはそのあたりに、そうしたスコトゥス像成立を振り返る鍵がある?そのうちちょっと覗いてみなければね。

トマスの天使論

またもE. ファルクの『神、肉体、他者』からのメモ。ほとんど末尾の方だけれど、第8章はトマスによる天使論(とりわけ『神学大全』の議論)。「天使」の認識その他の問題を取り上げ、フッサールの『デカルト的省察』に絡めて現象学的に見直すという趣旨。トマスが展開する議論がまさしく形を変えた現象学として読めることを示しているわけで、これがなかなか面白い(主眼は「他者」とのコムニオンがどう織りなされるかを探っていくということなのだけれど……)。質料をもたないとされる天使は、一方で知性的存在とされるわけだけれど、トマスはそこで「では天使の認識とは一体どういうものなのか」と問うことになる。それはまさにデカルト以前のデカルト的「我」のようなものということになる。けれどもそこでトマスは「では天使は他の天使をどう認識するか」と問い、そこから間主観性(フッサール)ならぬ「間天使論」が導かれ、独我論を脱するのだという。さらに天使は質料をもたないといいながら聖書では人々の前に姿を現すとされる。トマスはこの「現れ」をも問い直し、まさに天使についての現象学のようなものを展開するという。存在論を宙吊りにした「現れ」だけに特化した身体性……。

トマスによる天使の認識という面についてもっと長く検討しているものとして、ティシアナ・スアレス=ナニの『天使の認識と言語』(Tiziana Suarez-nani, “Connaissance et langage des anges”, Vrin, 2002)があるけれど、これも積ん読を解除して読み始める(笑)。この著者の前作では5人の神学者の天使論を大まかにまとめていたが、これはより範囲をせばめ、トマスと弟子筋のローマのジル(エギディウス・ロマヌス)に絞り、内容的にも認識と言語に特化したもののよう。トマスに関しては『神学大全』での天使論からとりわけ認識と言語に関する部分を詳細に検討しているようで、こちらも興味深い点があればメモしていきたいところ。