「象徴史・物質論など」カテゴリーアーカイブ

「アクィナスの勝利」

昨日からの続きになるけれど、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のスパニッシュ・チャペルのフレスコ画「聖トマス・アクィナスの勝利」(アンドレア・ディ・プレナイウト作、1365年ごろ)の下段の諸学芸部分に、歴史上の人物として誰が割り当てられているかという話は、意外に情報が少ない。ネットで探してみてもあまり言及されていない。とりあえず見つかったのが、こちらのブログ。このエントリの中程に図があって、そこに人物の一覧が出ている。これによると、まず左半分は順に次のように人物が対応していることになっている。

  • 民法 –> ユスティニアヌス
  • 教会法 –> クレメンス5世
  • 実践神学 –> ペトルス・ロンバルドゥス(『ジョイスと中世文化』では哲学 –> アリストテレス)
  • 祈祷神学 –> ディオニュシオス・アレオパテス(同、聖書 –> 聖ヒエロニムス
  • 教義神学 –> ボエティウス(同、神学 –> ダマスクスのヨアンネス)
  • 神秘神学 –> ダマスクスのヨアンネス(同、観想 –> ディオニュシオス・アレオパギテス)
  • 論争神学 –> 聖アウグスティヌス(同、説教 –> 聖アウグスティヌス)

人物の割り当てだけでなく、擬人像の意味も若干違っていて興味深い。次いで右半分の自由学芸。

  • 算術 –> ピュタゴラス
  • 幾何学 –> エウクレイデス
  • 天文学 –> ゾロアスター
  • 音楽 –> トバルカイン
  • 論理学 –> アリストテレス
  • 修辞学 –> キケロ
  • 文法 –> プリスキアヌス

『ジョイスと中世文化』でも説明されていたけれど、音楽に当てられているトバルカインは創世記に出てくる初の鍛冶屋。ピュタゴラスが鍛冶屋で打音を聞き数比を発見したという話を受けて、音楽に割り振られているというわけだ。また、同書ではシャルトル大聖堂のアーキヴォルトの浮き彫りによる人物の割り振りを取り上げているけれど、算術はボエティウスかもしれない(その場合、ピュタゴラスは音楽)し、天文学はプトレマイオス、文法はドナトゥスだったりするらしい。うーん、諸説いろいろということか。

ちなみに上のブログはシャルロット・メイスンという19世紀の英国人教育学者(?)の著書をベースにしているらしい。メイスンについてはこちらに紹介がある。著書のオンライン版というのもある。

ついでながら、同ブログから「アクィナスの勝利」の部分画像を(クリックで拡大)。

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装飾の形態学

速攻で買って速攻で読んだバルトルシャイテス『異形のロマネスク』(馬杉宗夫訳、講談社)。これはもう期待以上の内容。ロマネクス建築を飾る柱頭やティンパヌムの装飾芸術を形態学的に分析していくという一冊。各地のロマネスク建築を調査して膨大なスケッチを作り、それを比較検討しながらモチーフが変化する様子を見つけ出すという、さながら言語学でいう形態素分析のような、ある意味とてもオーソドックスな手法なのだけれど、バルトルシャイテス本人の筆によるスケッチは実に多岐にわたっていて(おそらくは使われていないものも含めればむちゃくちゃ膨大な数になるのだろう)、この過剰がとんでもない迫力でもって迫ってくる。それら再録されたスケッチを見るだけでも、ロマネスク装飾がまるで一種の生命をもっているかのように思えてくる。もとは1931年に刊行された博士論文だそうで、それを一般向きに書き改めたものというけれど、いずれにしても結構圧倒されるのは、これを見ると、装飾はあくまで装飾固有の内的なモチベーションで採択され変化していくのであって、たとえばグリーンマンなどにも異教的な意味などなかったのかも、とマジで思えてしまうこと。バルトルシャイテスの出発点が中世美術史だという話はどこかで聞いたことがあったのだけれど、これほどのスゴいものだとは思っていなかった……。

アウグスティヌスとアフロディシアスのアレクサンドロス

ド・リベラの『主体の考古学–第1巻』(Alain de Libera, “Archéologie du sujet, vol.1 – Naissance di sujet”, Vrin, 2007) を相変わらず読んでいるところ。第三章「付与論(attributivisme)の起源」では、魂をめぐる命題が「付与論」から「内在論」へと移行する重要な結節点にアウグスティヌスが位置することを改めて取り上げている。アウグスティヌスがベースとしている哲学的議論は、プロティノスにあることはよく知られているけれど、ド・リベラはもう一歩踏み込んで、そのさらに古層にはアフロディシアスのアレクサンドロスの『霊魂論』がある、と見ている。これはなかなか面白い議論だ(思想史的にではなく、あくまで哲学上の議論としてだけれど)。アレクサンドロスが物質論的に「魂は身体と分離しえず、物体の混成物に加わる態勢・潜勢である」と見なすのに対して、アウグスティヌスは魂を分離可能な実体と見なすという抜本的な違いがあることは、前者の『霊魂論』のさわりと、後者の『魂の不死性について』のさわりをざっと読むだけでもわかるけれど、ド・リベラの分析によると、少なくとも主体に付帯性が宿るような形で身体に魂が宿るのではないという論点で両者一致するのだといい、その意味でアウグスティヌスの「哲学」はアリストテレス・アレクサンドロス・プロティノスという思想的堆積の上にのっかっていて、その上に立って暗示的な形でアレクサンドロスの議論に批判の矛先を向けているのだという。うーん、このあたり、改めて次のことを思わせる……。系譜関係というのは必ずしも「先人の著作を後世の者が直接読んだ」という場合に限られるわけではなく(それは文献学的領域だが)、こういう間接的な立脚・批判の関係というのは何らかの分析の枠組みをもちこまないと浮かび上がってこない。後者のような探求は、なかなか「歴史学」では認められないけれど、意外に興味深い議論になることもあったりするので、一概には切り捨てられない。もちろん、その持ち込む枠組みの是非は問題になるだろうけれど……。当たり前といえば当たり前な話だが。

インペトゥス理論も……

引き続き、ザクセンのアルベルトについてのザルノウスキー本。これに、中世版の慣性の法則ことインペトゥス理論の系譜が簡潔にまとまっている。ま、そういうまとめは他の著者たちもやっているだろうけれど、これはなかなか簡潔でよいかも。インペトゥス理論はビュリダンで有名だけれど、アルベルトもこれを継承している。もともと天空の運動から着想を得たものと言われる同理論だけれども、より直接的な説明動機は、たとえば石を投げた場合に、手を離れた後も石が運動し続けるのはどうしてなのかという問題にある。アリストテレス以降、中世に受け継がれたのは、石のまわりの空気が媒体として関係しているという説(早い動きで真空が作られそうになるのを空気が回り込んで回避するために、結果的に石が押される、という説と、空気にも手の力が及び、それが繋がる形で物体を押す、という説に分かれるようだけれど)。ピロポノスなどが、投げられる物体の中に運動維持の原理があるという説を唱えるも、それは中世には受け継がれず、やっとルネサンスになって導入されるのだそうで、中世では、マルキアのフランシスクスの『命題集注解』を嚆矢とし、ビュリダンがそれを前面に出す形で、物体に内在する力が論じられるようになるのだという(あれ?記憶違いでなければロバート・キルウォードビーあたりも触れているんじゃなかったっけ?)。いずれにしても、ここでは触れないけれど、ビュリダン以前の幾人かの論者の立場もまとめられていて同書の説明はなかなか有益。これをベースに、メルマガあたりでインペトゥス理論前史を巡るのもよいかも、なんて(笑)。

ザクセンのアルベルト

ユルゲン・ザルノウスキー『アリストテレス的・スコラ的運動理論』(Jürgen Sarnowsky, “Die aristotelisch-scholastische Theorie der Bewegung”, Aschendorff, 1989)という本を古書で入手。副題は「ザクセンのアルベルトによるアリストテレス『自然学』注解の研究」。結構分厚いのだけれど、場所論がらみの箇所を中心に見ているところ。ザクセンのアルベルトは14世紀にパリ大学ほかで教鞭を執った人物で、ジャン・ビュリダンなどの影響を強く受けているとされる。ちょうど先日取り上げたデュエム抄録本の場所論を扱った部分でも取り上げられているけれど、そこではビュリダンというよりは、オッカムの議論を引き継いでいるという扱いになっている。で、このザルノウスキー本の場所論部分も、そのあたりをより詳細に検討するという内容になっている。

アリストテレスに端を発する、場所を形相的なものと質料的なものに区分し(いずれも物体と見なしている)、前者を不動、後者を可動とみる議論(トマスの解釈を受けて弟子筋のローマのジル(アエギディウス・ロマヌス)が説いた)は、ビュリダンその他によって否定されているというけれど(デュエム)、アルベルトになるとどうやらそうした区分を、「自然物に不動のものはない」みたいな話でもって、ある種の相対主義のような形で定義し直すようだ。「天空と地球が同じ方向に同じ角速度で動いていれば、地球に対する天空の位置は変わらない」なんて一文もあるらしい(ちょっとビックリしますね、これ)。うーん、こりゃなかなか面白そう。さらにこれまた先のド・リベラ本でも、最後のほうで、アルベルトは「事態」論を付帯論的に刷新したニコル・オレームを引き継いでいるみたいな話が出てきた。なにかこう、どこか媒介者的な立ち位置を感じさせるものがある。