「クロスオーバー」カテゴリーアーカイブ

ナッジ本

前から気になっていた「ナッジ」。これについての論集が出たと聞き、早速見てみた。那須耕介・橋本努編『ナッジ⁉――自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(勁草書房、2020)。ホームの転落事故を防ぐために、ホームのイスの並びを両端に対して直角にするとか、手に取ってもらいたい商品を、どう配置すれば手に取りやすくできるのかなど、基本的に、なんらかの行動を促す、ちょっとした傾斜をかける技法を言うわけだが、当然ながらこれは、どこまでが有効なのかといった問題のほかに、しかける側の意図はどう正当化されるのかとか、個々人の自由というものはその場合にどうなってしまうのかとか、いろいろな問題を含んでいる。

ナッジが登場してきたおおもとには、政府が個人の嗜好に干渉してはならないというアメリカ的な自由の考え方があり、それでいて個人の合理性が実は脆弱であるというもう一つの考え方から、意思決定を補うためのパターナリズムという考え方があり、両者が結びついて(あるいは両者の妥協として?)リバタリアン・パターナリズムというものが生まれてきたのだという(第1章)。ナッジはそうした考え方を具体化する技法として編み出される、と。そんなわけだから、それはある種の政策手段と見なされ、小さい政府の考え方に立脚した、やや偏狭な自由主義的政治思想でもあるようだ。

しかし、「人びとの選択に介入することなく、ソフトに人びとの選択を善導していく」(p.26)ことには、様々な問題点がありうる。上の二つの考え方は、選択における熟慮の必要と、そのための教育の必要(第7章)といった問題を裏面としてもっているように思われる。実際同書もそうした点を強調している。ナッジは基本的に選択アーキテクチャなのだから、そのままでは、アーキテクチャから排除されている選択肢に思いを寄せる契機がない(第3章)。だからこそ、選択肢を選ばないというオプトアウトのあるアーキテクチャの健全性や、「アスリートモデル」(ロールモデル)に依拠した別様のアーキテクチャの可能性(第6章)は、とても重要な指摘となってくる。

ナッジは自由主義にかかわるものだけに、制度論的な話も避けては通れない。個々人の行動をコントロールする際に、個体を単位として直接的に規律するという場合もあれば、社会全体の中の構成単位の行動に一定の適切性があればよい(二次的多様性)という立場ももちろんありうる(第4章)。前者はナッジ的な解決が絡むが、後者はむしろ代議制・代表民主制が担う別様の方法ということになりうるのではないか……。このように同書は全体として、ナッジの外部を絡めてナッジを批判的に考察する奥行きのある論考となっている。

デリバティブと分人

人類学の立場から金融の問題に挑むという、ちょっと風変わりな本を読む。アルジュン・アパドゥライ『不確実性の人類学――デリバティブ金融時代の言語の失敗』(中川理、中空萌訳、以文社、2020)。リーマンショックにいたったデリバティブ金融の本質が、実は一種の書面契約で、新しい約束によって以前の約束を商品化することに繰り返しにより、連結した巨大な約束の束ができあがり、それを扱うトレーダーたちは、約束の重荷のごく小さな一部分しか担わず、約束の力は薄められて広く拡散してしまうことになる、と同書の著者は指摘する。ではなぜ、約束がさらに別の約束にまとめられて責務が薄らぐような構造が出来上がるのか。この問題にアプローチするために、著者はそうした約束を一種の遂行的言語(オースティン的な)と見なすことを提唱する。それは言語的欲望だというわけだ。リーマンショックは、とりもなおさず増幅した言語の失敗ととらえることができるのではないか、と。

その上で、著者はウェーバーの資本主義研究から非合理な(魔術的な)「手続き至上主義」を、またマルセル・モースの贈与論から競覇的贈与の考え方を、デュルケームから精神的なもののが投影としての社会を、それぞれ市場に適用・援用して、上の問いへと迫っていこうとする。で、著者はそこから、もはや19世紀のように個人が問題なのではなく、「分人」概念(個人の前提条件、個人が成立する物質的基礎、あるいはビッグデータに象徴されるような、役割、機能として掬い上げられる人的概念、ラトゥールなどのアクター、エージェントに重なる概念)を軸に、贈与の問題などを再構築することが重要だとの主張にいたる。さらに、金融取引において扱われるのは「捕食的分人」だとして、これを「真に社会化された分人」に置き換えることこそが、これから求められる社会変革だと結んでいく。

全体として、事例の精緻な検証というよりも社会理論ベースの本なので、デリバティブそのものの分析は少し詰めが甘い印象でもあるし、社会的な変革のプログラムも筋道が示されるわけではなく、失礼ながらいわゆる「若書きか?」との印象を受けたのだけれど、実際には著者は49年生まれの重鎮だというから驚きだ(管見にして知らなかった)。デリバティブを一定のルールで縛る方向で議論しないのは、人間の欲望の産物である以上、いちど創出されたデリバティブはもう止められないとの認識が著者の根底にあるようだが、そのあたりは異論もありそうだ。けれども、そうして出てきたデリバティブを、よりよい社会的利益につなげる方法を模索できないかという問題意識そのもの(「分人主義」の変革もそのためにある)は、共有しうるかもしれない。

応酬へ?

前回取り上げた『<現在>という謎』(森田邦久編、勁草書房、2019)には、物理学の側から哲学への期待(もしくは苦言?)として、「新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を捉える新しい言語や概念体系を作ってくれる」(p,161)ことが要請されている。哲学の使命というものはそれだけではないだろうけれど、もちろんこれも確かに重要な一側面ではある。しかしながら今や、そうした新しい学知のための言葉や概念は、その学知の出身者にこそ委ねられていくのだろうか。いやしかし……なんてことを思うのは、関連書としてカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019)を見てみたから。ロヴェッリは1956年生まれの著名な理論物理学者で、この本でもちょっとだけ触れられるループ量子重力理論の提唱者。そうした先端的な学者が一般読者のために著したのが同書とのこと。

原題は「L’ordine del tempo(時間の順序)」。もとになっているのは古代ギリシアのアナクシマンドロスの言葉で、ほかにも同書には、アリストテレスやデカルトなどはもちろん、哲学史家でなければ言及しないような史的な著者たちまで(たとえばセビリアのイシドルスとか、ベーダ・ウェラビリスとか、マイモニデスとかその他いろいろ)言及されたりして、その博学ぶりをいかんなく発揮している。

同書の基本的な柱となっているのは、相対性理論が示したように、時間というものは相対的なものでしかなく、そもそも実体としてあるのではない(世界そのものからして実体で構成されているのではない)こと、時間は変化を可視化したものにすぎず、そうした変化が時間の矢として扱われるのは、熱量が絡む場合に限られること、熱量の変化、すなわちエントロピーこそが、運動を、すなわち変化を(それすら近似的・統計的な記述にすぎないとされるが)現出させていることなどなど。すべてにおいて視点と記述(語法)こそが問題なのだ、と喝破される。物理学において時間は、外的な性質として扱われるのに対して、哲学が調べようとするはあくまでその内的な性質にとどまることが指摘されてもいる。そうであるなら、両者の意思疎通がそもそもうまくいくわけがない、という気もする……。

しかしこの時間の内的な性質の記述というのも、ときに興味深い問題を提起する。これまた関連書として見たものだけれど、青山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書、2019)では、たとえば意志による判断がいつ下されるのかといった問題に絡んで、神経学的な実験が紹介されている。二つの写真を見せてどちらかを選ばせる(ボタンを押させる)実験で、その結果、脳の反応は、意志的な写真の選択にわずかに先んじたりすることが明らかになったのだという。ではそこから、意思をもつことに対応する心理現象というものはないかもしれないという仮説が成り立つのだろうか。意志の自覚は、つねに後づけとしてなされるものなのか。さらにチョイス・ブラインドなる実験も言及されている。被験者に写真などを選ばせ、それをすり替えて説明を求めると、多くの場合、すり替えに気づきもせず、ときには自分が選択したこととして理由を述べることもあるという現象だ。選択の理由もすべて後づけでしかないのか。

著者はどちらに対しても、哲学の側からの批判を加えている。前者に対しては、そこで示された脳の反応が、選択(ボタンを押すという行為)に関連している確率は6割程度しかなく(あらかじめボタンを押すために身構える、予測している、といった反応が、結果に出ていたりするわけだ)、意志の自覚より前に脳が決断していること確証にはならないとしている。後者に対しては、日常的な「本気の」選択であれば関係するはずのリスク評価などが、介在していない特殊な実験にすぎない、と。このように、批判的な視座をもって他の学知を眺めることも、哲学に求められるべきスタンスであることは確かだろう。では上で言われているような、物理学の示す時間の外的性質に、哲学はどう批判を加えうるだろうか?そもそもそれは可能だろうか?

現在という謎(そして時間という謎)

森田邦久編『<現在>という謎――時間の空間化批判』(勁草書房、2019)を読み始める。このところ個人的に見たいくつかの書で、時間をめぐる解釈が取り上げられていたこともあって、よく言われる科学者と哲学者の認識の隔たりというのを、もう少し見ておきたいと思ったからだが、最初の章からまさにそれが鮮明に浮かび上がっている。

物理学者からすると、相対性理論と量子力学をもとに、「現在」という時刻はあくまで「座標系に依存した便宜的概念」にすぎないとされる。物理学的には、未来に計測を行って初めて確定するような過去の出来事というものもあるといい、さらに絶対的な同時性といった概念も措定できないという。相対論からは、たとえば単に高低差があるような場所でも、地球の自転によって、時間の流れにすでにして差ができる。したがって、異なる場所の二人の人物に、絶対的な同時性はありえないということになる、と。

一方、哲学の側は「現に存在する」という感覚をもとに、「存在するイコール現在である」という定式を出したりもする。けれども物理学の側からは、そうした「いまある感」が、「いま見ているあなたが物体に投影している「いま」」にすぎないと指摘されている。要するに、主観的現在にせよ、個々のそうした主観的現在が同時であるはずだとする絶対的同時性にせよ、ある種の信念でしかなく、実在するものではないのだ、と。

なるほど哲学の側は分が悪そうに見える。けれども、たとえばかつてのストア派などにおいては、時間の措定が仮のものでしかないといった議論に及んでいた可能性もあるようにも見える。再びプルタルコスの対話篇を見ておくと、登場人物たちの話から察するに、ストア派の人々は、現在が過去と未来に挟まれた境界線上の一点をなすといくら仮構したところで、それはある程度の厚みをもった時間幅でしかなく、現実的なものとはいえないと考えていたように思われる。現実的には「いま」というものは実在せず、人が「いま」と想像するものは、未来と過去とに同時に属していると見るのがよい、とストア派は言う(『モラリア』第72論文、41章)。さらにそこからの帰結として、同時に生じたとされる出来事は、その出来事以前と、その出来事以後から成るとされる。すると厳密な同時性というのはありえないことになる(ように思われる)。さらにその帰結として、結局は「時間」というものが全体として廃絶されることにもなるのではないか、と。

対話篇の登場人物は、当然ながらこれが一般通念に反するとして批判しているわけだけれども、ストア派のそうした議論は、現代的な物理学のスタンスと奇妙にも響き合い、通底しているかのようで、アナクロニズムではあるけれども、そのあたりがなんとも興味深い。

朱子学の問題機制

朱子学 (講談社選書メチエ)これもずいぶん前からの積読もの。木下鉄矢『朱子学 (講談社選書メチエ)』(講談社、2013)。でも読んでみると、扱われているのはまさに(西欧の)哲学史研究の醍醐味でもあるような細やかな文献解釈の諸問題であり、こういうのは個人的にも高揚感を覚えるところだ。朱熹のテキストに沿って朱子学のいくつかの大きなテーマを読み解いていくという内容で、その誠実かつ実直な、細やかな手際に好感度も高い一冊。「学」「性」「理」「心」「善」といった概念について、細かく読み解いていく。学はもちろん学ぶことだが、ここでの学知は西欧の哲学的伝統とパラレルに、先覚(先達)の残した書の注解を通じて「まねぶ」こととされている。「性」は「性善」というような場合の「性」で、これは日常の具体的な「事」を抽象する一時的な抽象と、さらにその根拠にいたるもう一段の抽象を経た、いわば二重の抽象化で示される「理」だと解釈される。そこでも、太極(全一的な絶対存在)から事物が発出する構図があるというあたり、まさにプロティノス的な流出論を想わせたりもする。そして最重要ともいうべき「理」。これは流出の最初の段階から後の諸段階にいたるまで、媒質としての「気」を介して万物を化生(生成)するというプロセスの法則そのものを言うとされる。

何度か出てくる話として、朱熹(12世紀)が用いている「物」という語が、いわゆるモノを指すのではなく、むしろ「事」を指しているのではないかという仮説がある。これが実は全体を貫く一つの基調になっているようにも思われる。その仮説の根拠はもちろんテキストにあるのだけれど、漫然と読んでいては浮かび上がらないような、精妙な機微を含んだ説になっている。またそのように精緻に読むことで、朱熹の言う「理」、つまり万物の「造化発育」(生成)を貫く根拠としての「理」(二段めの抽象)が、単なる作用ではなく、能動的な行為、いわばプロセスにとってのおおもとのプログラムとしてあることが浮かび上がる。

そうした解釈の鍵は、当然ながら細かなテキストの照合にある。そしてテキストは、もちろん単純なものではありえない。たとえば個人や物に賦される「性」が、陰陽五行の「仁義礼智信」の気に対応するのか、それとも「仁義礼智」のみの四端に対応するのかをめぐる揺らぎがあるようだし、また上の「物」を「事」と解釈する議論の典拠をなすテキスト群にも、朱熹自身による改訂の際の異動があるようで、その改訂の方向性の話などはとてもスリリングだ。

そんなわけで、朱子学は(従来思われていたように?)安定的で一貫性をもった完成度の高い思想体系というよりも、むしろ動的で、展開途上にあるような、ある種の強度をもった自然哲学的試論という位置づけ(?)がふさわしいようにさえ思えてくる。テキストをめぐる問題機制というのは、洋の東西を問わずパラレルかつエキサイティングなのだなということを改めて感じさせる。