「クロスオーバー」カテゴリーアーカイブ

歓待の終わりとカウンター

La fin de l'hospitalite先日のコスモポリタニズム関連本からの延長ということもあって、今週とくに読んでいるのは、ギヨーム・ル・ブラン&ファビエンヌ・ブリュジェール『歓待の終わり』(G. Le Blanc et F. Brugère, “La fin de l’hospitalite“, Flammarion, 2017′)という一冊。移民問題が改めて浮上した2017年刊行の本で、その時事問題をクロースアップしながら、歓待という思想の変貌について語っている。基本的には政治哲学の書で、時事問題をどう見るかという基本的な問題設定に、哲学史的なリファレンスなどを用いて挑んでいる。問われているのはすなわち、歓待というものが成立しなくなっている欧州という現状だ。

リファレンスには、たとえば救助と歓待の違いを論じる箇所(3章)で取り上げられる、歓待の起源としての古代ギリシアがある。知人のいない場所にやってくる異邦人は、まずは神殿と連絡を取り、懇願者として過ごさなければならない。流刑者ではないことを確約し、オリーヴの枝を儀礼として差し出す。そうして初めて異邦人としての認知が行われ、限られた期間(たいていは三日)の歓待が与えられる。この儀礼化された歓待は、相互の認識プロセスを可能にするメリットがある、と著者たちは言う。それは一時的な受け入れの約束であり、単なる救助でもないが、社会への純粋な吸収でもない……こうして著者たちは、歓待というものが本来もっていた手続きや制限の機微に思いを馳せる。

ほかにも、たとえば18世紀末の議論などもある。カントがプロイセンとフランスの和約を受けて記した『永遠平和のために』(1795)で、国民同士の取り決めにもとづく滞在権を提唱したことや、フランス革命後にフランスの市民権を取り、国民公会の議員にもなった英国人トマス・ペインが、国民を超えた自然法にもとづく権利を主張したりしたことなどだ。著者たちはそこに、古代の歓待の価値観と近代の市民権の価値観との接合を見てとったりもしている(序文)。一方でそこには、もとより受け入れの限定的な性格と、ホスト側へのリスクという側面が内在してもいる。大義とされた価値観が衰退すると、そうした限定性やリスクが表面に現れ、歓待への姿勢そのものを変質させ、さらには相手の敵視など負の面をエスカレートさせていく。

とするならば、立て直すべきは大義の存立なのだろうか。ことはそう単純でもなさそうだ。同じ18世紀末、ディドロとダランベールは百科全書の中で、「もはや古代の歓待の関係は失われている」ということを書いているという(6章)。近代の病であるかのように、他者の敵視とそこから生じる鬱屈した空気は、ひたすら蔓延していく。その果てにある現在の状況においては、理想主義的な歓待などとうてい望むべくもない……。そこで著者たちが考えるのは、理想化された歓待概念ではなく、より現実的な、限定性やリスクを勘案した受け入れ政策、あるいはそうした制度の必要性だ。問題は、もはや個々人の姿勢や倫理の次元にあるのではない、と彼らは捉えている。むしろそれは、政策的・制度的に、歩を重ねていくことにあるのではないか、と。

儒教的道徳論とサンデル哲学

サンデル教授、中国哲学に出会う今週はこれを読み始める。サンデル&ダンブロージョ編『サンデル教授、中国哲学に出会う』(鬼澤忍訳、早川書房、2019)。一時期のサンデル人気は中国でも(中国でこそ)すさまじかったようだが、これはそんな中で編まれた一冊。サンデルの議論を中国の論者たちが、主に儒教の伝統をもとに検証し、ときに批判しつつ補完しようとしている。まだ第一部の三篇の論考にのみ眼を通しただけだが、どれも興味深い視点から議論を立ち上げていてなかなかに読ませる。最初のシェンヤン・リー「調和なき共同体?」は、サンデルの共同体論がロールズのそれとは違って、共同体を正義の概念の前提と見、道具的な善になど収まらないようなものであって、共同体を構成するメンバーの自我あるいはアイデンティティの一部となるものと考えていることを高く評価しつつも、そこに儒学が説くような調和の考え方がない点に疑問を投げかけている。

トンドン・バイ「個人、家族、共同体、さらにその先へ」は、儒教が家族から共同体へと拡大させようと説くものを「心遣いのネットワーク」と捉え、サンデル的な共同体論との重なりを見いだす。けれどもその一方で、より現実的な政治のあり方についての儒教の教え(少数の者による寡頭政治を認める)が、サンデルなどの共同体論とは異なることを指摘してみせる。そうした側面での儒教は、ときにサンデルが批判するロールズの議論のほうに重なるという。共同体のリアルポリティクス的な面は、その理想論に揺さぶりをかける契機としてもっと重視される必要がありそうだ。ヨン・フアン「美徳としての正義、美徳にもとづく正義、美徳の正義」は、サンデル的な正義は美徳にもとづく正義であり、儒教が説くのは美徳の正義であるとして、両者の差異を明らかにしようとする。儒教が説く正義とは、悪徳な者を罰することではなく、その者が有徳な者になる手助けをすることにあるという。美徳にもとづいて財などの何かを分配するのではなく、美徳それ自体を分配するという思想。人からされて嫌なことを人にせず、人からされて喜ばしいことを人にせよという儒教的黄金律すらをも超越するような視座の可能性が描き出される。

後成説と学際性

今週は各種雑用のせいで、あまり本を読む時間が取れず、マラブー『明日の前にもほんのわずかしか進んでいない(やっと半分まで)。けれどもそこで取り上げられた比較的最近の遺伝子研究の話(第7章)がなかなか興味深い。2000年代以降になって、また新しい潮流が出てきているということのようだ。要は遺伝子万能説のようなものが後退し、ゲノムがなすのは個体への環境の影響に一定の制限を設け、それに反応する能力を与える程度だという話になってきているということ。遺伝子そのものとは別筋の、ある世代の細胞から次の世代の細胞へと伝えられる遺伝の可能性が開かれているとされ、たとえば植物が季節の変化を細胞レベルで記憶しているとか、マウス実験での食餌制限の差が次世代の子に明らかに影響を残しているとかいう話が紹介されている。遺伝子プログラムの単純展開という説は、今や有機体と環境から構成されるシステムの展開という説に取って代わられてきている、とマラブーはまとめている。環境からのフィードバックを得るための各種バックドア的なものの存在が、遺伝子による決定論の牙城を切り崩しているということだろうか。

人文学もそうだが、科学そのものも諸説の見直しは確実に進んでいるようで、旧来の説をいつまでも保持できない。ただ悩ましいのは、そうした新説・新事実を伝える論文へのアクセスは専門性などが仇となってどうしても限られ、一般向けの書籍なりにまとめられるにはそれなりの時間を要すること。だからネット時代だろうと学際性につきまとう遅れ、哲学が「黄昏に飛ぶミネルバのフクロウ」でしかないという状況は変わらない。あるいはそれどころか、逆にその遅れや隔たりはいっそう増しているかもしれない、とさえ思えるフシもある。

面白いのは、マラブーに言わせれば、前成説と後成説の論争の継承者たちであるそうした科学者たちが、一般向けに書くものの中で、後成説的なものを正面切ってではなく、隠喩的にしか語らない傾向にあるという点だ。後成説は解釈的自由に属するとされ、そこでは解釈のイメージが問題となる。マラブーはある意味健気にも、それがむしろ哲学との対話を開く契機になるかもしれないと語るわけだが、これもまた、哲学ないし人文学固有のアクセスの限定要因に阻まれないとも限らない。学際的な対話はいつになっても険しい道なのか……。

雑感 – 詩と哲学

パターソン(字幕版)先日、ジム・ジャームッシュの映画『パターソン』(2016)を観た。田舎町でバスの運転手をしながら、黙々と詩作に励む主人公(アダム・ドライバー)の一週間の日常を、淡々と描いた秀作。それほど起伏はないものの、詩を通しての出会いなど小さな事件はあって、主人公の詩の朗読がオフの声で散りばめられ、全体的に深い情感を喚起する。当人にとってはあくまで趣味での詩。けれどもそこには強い思いが込められ、また詩を通して他者へのリスペクト、先人の詩人たちへのリスペクトに満ちあふれ、趣味というものがまさしく生きる糧であることが、ある意味赤裸々に描かれる。詩という言葉の芸術が、こう言ってしまってはやや安易ではあるけれども、私的な哲学的考察に近接していくものであることを改めて想わせてくれる……。

現代詩手帖 2018年 03 月号 [雑誌]……と、そんなこともあって、『現代詩手帖 2018年 03 月号 [雑誌]』が「詩と哲学」の特集を組んでいるというので、早速見てみる。あまり大きな規模の特集ではないけれど、さしあたり星野太&佐藤雄一の対談が、やはり詩人たち・批評家たちへのリスペクトにあふれていて白眉だといえる。最近の比較的若い著名な研究者たちの文体が、飾りをそぎ落としたものになっていることについて、それを突き詰めていくと「霞ヶ関文学」にいたるとか(そこにはまた詩的エロスに転じる可能性もあるというのが……)、トランプの一見乱暴なツィートに崇高な修辞学の悪しき帰結が見られるとかの指摘は、ある種の変化球のようでずっしりと響いてくる。詩作において必須となる超越性の担保の話なども興味深いが、そこから詩壇・競い合いのような関係性の必要性に話がいってしまうのも、これまた少し考えさせられる……。

地下茎の思想再び

人はなぜ記号に従属するのか  新たな世界の可能性を求めてドゥルーズとの共著はともかく、単著については多少とも食わず嫌いだったフェリックス・ガタリ。けれども最近、改めて少し詳しく眺めてみてもよいかもと思うようになった。意外にそれがリアルポリティクスの諸相をうまくすくい取れているかも、という話を耳にしたからだ。とりあえず邦訳で、ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて』(杉村昌昭訳、青土社、2014)を眺め始めているところなのだけれど、考えていた以上に、確かにそんな印象もある。原書は2011年刊だというが、実は70年代後半、主著『分子革命』後に書かれた原稿なのだそうで、内容的にも主著と重なっているようだ。ガタリの基本的・理論的なスタンスは、精神分析において家族などの固着的な図式に則って解釈されるリビドーの議論を批判するところから始まる。本人はその批判的な言説を「証明」と称してはいるものの、もちろんそれは仮説的な話でしかない(そのあたりで、すでにして批判的な読者も当然出てくるだろう)。けれどもその批判は広範に敷衍されていき、そのあたりが最初の読みどころにもなっている。リビドーの動きはもっと不定形なものとして、一種機械のごとくに自動的に産出されるだけではないかということをガタリは確信している。そこから諸々の発現形(欲望の、あるいは記号・表象の)がいかに構築され、リビドーの経路を誘導していく・方向づけていくのかを分析しようとするというわけだ。したがってその発現形の分析は、固着した構造の分析とは抜本的に異なるし、領域横断的なものにならざるをえないほか、きわめてリアルなものに接近せざるをえない。ガタリは構造主義が扱うような構造体を「樹木<ツリー>状」と捉え、領域横断的な自身の分析をその「地下茎<リゾーム>」に喩えてみせる(この点から、ツリー対リゾームという構図だけを取り出して批判するのも、また的を外していることがわかる)。

また、そうした発現形はいずれにしても無垢というわけにはいかず、かならずなんらかの緊張関係・権力的関係を内包している。それは資本主義が課す社会的機構だったり、日常的なミクロの権力だったりする。外装(装備)としてのツリー的な構造体を、地下茎的なアプローチで批判的に分析するなら、そうした関係性を浮かび上がらせずにはいないはずだ、とガタリは主張する。精神分析を批判的に取り上げてリゾーム的な分析を提唱する理論編以上に、こうした社会的なものへの言及箇所のほうが俄然面白くなってくる印象だ。ガタリはどこかつねにジャーナリスティックなのかもしれない。もちろん、たとえば西欧の近代の萌芽を、中央集権化していた古代からの諸制度から、それに代わる脱領土化したキリスト教の組織化・社会的分節化が進んでいく11世紀に見ているところなども、大まかな捉え方ながら興味深くはある。それが貨幣経済・資本主義の流れの発端に位置付けられている(もちろんそこには異論もあるだろうけれど)。さらに後の歴史についても様々に言及されている。けれども、やはり白眉は70年代ごろの社会現象への批判に切り込んでいくところ。それは今現在の問題とも様々な面で重なり合う。たとえば「国家権力のあらゆる具体的表現」に抗しうるには、「労働運動やあらゆる種類の少数派民衆運動を麻痺させる官僚主義的構造を同時に”解体する”ことが前提条件」になるとの指摘や(p.109)、報道機関に関して、それらが「<擬似出来事>を発表して、多くの読者・観客の視覚的歓声を操作することだけが目的」(p.134)なのだと喝破したりするところとか、68年の革命後の「リベラル保守の政治家やテクノクラート」の「小心翼々たる改革案」が、プチブルの最も保守的な層向けにすぎず、「左派と右派に対抗する<近代派>」を自称しながら、旧来のものよりいっそう抑圧的な装備を施したことを蕩々と述べているところとか、今読んでも(あるいは今だからこそ?)身につまされるかのようだ。