「クロスオーバー」カテゴリーアーカイブ

外在化するイメージ

技術哲学という狭い括りなどには到底収まらないジルベール・シモンドン。で、昨年秋に刊行されたその1965年から66年の講義録を読み始めたところ。『イマジネーションとインヴェンション』(Gilbert Simondon, “Imanigation et invention”, Les Editions de la transparence, 2008)。うん、まだ序論から第一部へと進んだばかりのところだけれど、期待通りめっぽう面白い。シモンドン哲学の基本的なパースペクティブは、事物のプロセス性を描き出していくこと。生物の発達などとパラレルに、技術産品(技術対象物)などもまた絶えず変化を繰り返していくものとして描かれる。しかもそれは、内的・潜在的に含まれているものが外在化するプロセスだとされる。で、この講義では「イメージ」を同じくプロセス描写の俎上にのせている。この場合のイメージは人間(あるいは生物)が抱く内的なイメージから、実際に外在化する図像、さらには他の事物に付される「イメージ」まで、およそイメージ(イマージュ)という語がカバーする広範な領域をそっくりそのまま扱おうとしている。そしてそれを、生成・定着・対象化という大まかな三段階の外在化サイクルの観点から詳細に描こうとしている。

シモンドンはマクロ的なプロセス指向だけれど、イメージの外在化という話はミクロ的・現象学的な文脈で見ることもでき、その場合、ファルクがやっていたように中世の神学・哲学的議論をそこに読み込むこともできる。これも前に挙げたスアレス=ナニの『天使の認識と言語』がらみだけれど、トマスが持ち出す知的形象(スペキエス)というのも、そうした現象学的な「イメージの外在化」の取っかかりになりそうな話。トマスによる天使の認識論においては、天使は自己認識に関しては神と同様に即一的に理解するものの、天使相互の認識では、神によってもたらされる知的形象(スペキエス)を介在させざるをえないとされる(スペキエスは人間の認識でこそ大活躍するものだけれど)。スアレス=ナニはここで、スペキエスもまた天使から人間にいたる被造物の階級秩序の中で階層化されていて、上位のものが下位のものを包摂する関係にあることを指摘している。これ、上位にいくほど形象の外在性の度合いが低くなっていくというか、内・外のそもそもの区別が撤廃されていくというか。すると上位方向へのアプローチは、外在化プロセスを逆に辿るということに……。逆に下位方向への発出論的な話も(トマスは一部アヴィセンナ的な発出論を継承しているわけで)、形象の外在化プロセスとして読み返せるということに……(?)。

ピロポノス追記(&ブック検索)

13世紀ごろに出回っていたピロポノスのラテン語訳は、アリストテレスの『霊魂論』第三巻への注解だった(苦笑)。定番の参照本、ジルソンの『中世の哲学』(E. Gilson, “La philosophie au Moyen Age”, Payot & Rivages 1999)にちゃんと言及されていた。メルベケのギヨームによる1268年のラテン語訳。トマス・アクィナスが目にした可能性も当然あるという。ボナヴェントゥラが参照したというのもこれかしら?その点については言及はないようだけれど……。また、『自然学』注解のラテン語訳の存在もやはり不明。うーん、やはりかなり後になってからなのか、それとも13世紀ごろの訳書は散逸してしまっているだけなのか……?

ちなみにこれも定番の『ケンブリッジ中世後期哲学史』(メルベケの訳本への言及はそちらでも確認可)などは、今やグーグルのブック検索で一部公開になっている(“The Cambridge History of Later Medieval Philosophy”)。ブック検索の基本は絶版本という話だったけれど、あれれ、これはどうなっているのかしら?例の強引とされた和解のせいで閲覧可能になっているわけ?確かに全ページではないけれど、うーん……。ブック検索、便利だから使わない手はないし、学術書などの公開は原則としてもっと幅広く行われてほしいと思うのはやまやまだけれど、なにかこう今ひとつすっきりしないのは、こういう市販されている本の扱いがちょっと怪しいからか……。ちょうど日本の中小の出版社がブック検索の和解案を蹴ったニュースが出ていたけれど(Internet Watchとか)、やはりそのあたりが問題になっているようだ。もっとも、少部数の学術書などは本来、別のスキームが必要に思えたりもする。学術書や論文などは、学術的価値などから考えて部分的公開でいいから迅速になされたほうがよい気もする。もちろん、権利者のなんらかの同意は必要だろうけれど。いずれにしても十把一絡げで対応しようというのはそろそろ限界なんではないかしら、と。

ホラー映画とプロセス理解

映画『1408号室』をレンタルDVDで視聴した。スティーブン・キング原作の結構正統派なホラー。キング原作ものは前の『ミスト』が良かったけれど、こちらもちょっと面白い。こちらは心霊スポット・ライターが「問題とされる部屋」で数々の怪奇現象に遭遇するというお話。で主人公のライターは必死にその現象の現出プロセスについての理解を試みるのだけれど、現象は加速度的に、そうした試みをはるかに圧倒する形で連鎖していく……。で、主人公が試みるそのプロセス理解こそがこの映画の一番の肝という気がする。たとえば想念が実体化するらしいくだりがあるのだけれど(想念の実体化といえば、タルコフスキーの映画版『惑星ソラリス』とかも、なんだか不気味な一種の「ミニ・ホラー」のようにも見えたものだが)、想念が実体化して「怖い」のは、そもそもあり得ない状況(キリスト教的には、それはまさに神にのみ許された所業ということで、複合的な意味合いがあるけれど)に晒されるからというより、その実体化プロセスがまったく理解も想像もできない、偽理論をでっち上げようとも納得できないから……ということを映画はまざまざと見せつけてくれる。逆に言えば、日常の世界を織りなす事物は必ずなんらかの既得のプロセス理解に裏打ちされていて、「現れ」の根底には、たとえ仮ものであろうとも、その現れをもたらす「生成」プロセスの受け入れ・理解が前提としてあり、その前提がないとき・崩れたときに事物はとてつもなく不気味なものと化す、ということ。まあ、当たり前といえば当たり前のことなんだけれども、このプロセス理解というやつは、それ自体を考え出すとなかなか一筋縄ではいかないものでもある(と思う)。

かつてのジョージ・A・ロメロのゾンビ映画とかは、その出現の唐突さが、たとえ「怖い」というのとは違っても、なにか最低限の不気味さを醸し出していた(びっくりシーンとは別に)。それは、一つにはそういうプロセス理解の不在・否定性を突きつけていたからだと思うのだけれど、翻って最近のゾンビものを見ると、ウィルスとかで異物の出現プロセスをすっかり固めてしまい(たとえば『28週後』『ドーン・オブ・ザ・デッド』(リメイク)、『デイ・オブ・ザ・デッド』(同じくリメイク)、はては『ボディ・スナッチャー』の再リメイク『インヴェイジョン』にいたるまで)、異物の出現はもはや「お決まり」でしかなくて全体につまらんという気がしなくもない。ところが一方で現実にウィルスが問題になれば、それ自体はいまだ十全なプロセス理解を得ておらず(専門家はともかく一般としては)、かくして漠然とした不安感が意味もなく広まってしまったりする。フィクションの中で扱われるプロセス理解は、すでにして現実のプロセス理解よりもはるかに単純で固着的だ。後者はというと、対象となる事物にもよるけれど、場合によりどこか思いっきり開かれていたりする……。

『1408号室』の主人公は、そういうプロセス理解を試みる中で、なんらかのハイテクな方法の可能性すら検討する。実際主人公に突きつけられる現象は、どこかサイコな拷問のようにも見え、主人公を追うわれわれ観客にも、途中で「これって神経系に直接働きかけて個人の妄想を生み出させているとか、そういう話?」みたいな、作品世界へのプロセス理解が促されてきたりもする。でも、観客レベルでのサスペンスフルなそういう仕掛けは、結果的に作品が醸すはずの怖さを大いに薄めているかもしれず、作品的に良いのか悪いのかちょっと微妙だったりもする(笑)。でも、いずれにしてもこの作品は、プロセス理解というものを考える取っかかりとして悪くない映画ではある(かな?)。

複式簿記の誕生

待ってました、という感じの研究書。橋本寿哉『中世イタリア複式簿記生成史』(白桃書房、2009)。4部構成の全体のうちまだ前半の2部までを読んだだけだけれど、予想通りの面白い研究。複式簿記の成立については諸説があるそうで、古代ローマ説なんていうのも少数ながらあるのだとか。主流はやはり中世イタリア説。とはいえ発祥地については説が細かく分かれるらしい。折衷案の同時期説なんていうのもあるという。同書はそこに、12〜13世紀の数学的思考の介在とアラブ世界の影響を見ている。第2部ではフィボナッチ数列で有名なレオナルド・ピサーノの『算術の書』(Liber Abaci)の内容が紹介されている。基本的な算術の概説書ということだけれど、なるほどその後半部分は商業活動への応用という話になっているわけか。さらに12世紀の公証人による商業契約記録が紹介され、海洋交易の一種のベンチャー事業の収益分配の実例が言及されている。会計帳簿のシステムが、商業活動の複雑化にともなって、そうした公証人の利益計算文書から派生的に整備されていったのではないかという話。うーん、面白い。後半は14世紀から15世紀にかけての地域的な簿記の発展を、具体例を追いながら詳述するらしい。そちらにも期待大。

備えあれば……というが

イタリアの地震被害はかなりの規模になっている模様。それにしても建物の崩れ方などを写真や映像で見ると、素人目にも耐震補強などなされていなかったように見える。イタリアって地震国なのに、やはり何もやっていないのか……。もちろん日本も耐震補強工事なんて、言われ出したのも最近で、何もやっていないようなものだけれど……。そういえばベルルスコーニはG20でどこぞのナカガワばりのひんしゅくを買ったとかいう話だし、なんだか両国は嫌なところばかり似ているのかも……。

この国の場合にはさらに、実効性を伴わないようなことでも、とにかく形だけで対応する、なんてのがまかり通っていたりもする点も問題か。北朝鮮のミサイル話で登場した迎撃システムなども、ある意味その典型。まあ、秋田では同システムを配備しようとして、自衛隊の演習場に隣接する野球場に誤って突っ込んだとか、例の誤報騒ぎとか、冗談としか思えない話ばかりが続いたけれど、実効性という点で考えればかなり空恐ろしい話でしかないわけで。そろそろ形じゃなく、ちゃんと実効性のある対策を考えてほしいところ。

実効性のある対策を否定するなんてのももってのほか。少し前にアフリカを訪問したローマ法王が、エイズ対策にコンドームは役立っていないばかりか、疾病を蔓延していると発言して問題になったけれど、これなどはその最たるもの。代案として教会が示しているのが節制だというのだけれど、そこで精神論・理想論に向かっても何も解決しないわけで……。ミサイルの脅威を前に対話路線だけを云々するのも同様か……こんなところも似ていたりとか……(ため息)。

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……ちょっとこんな時に不謹慎という気がしないでもないが、ラクィラといえば、個人的にはちょうど16世紀初頭のリュート作曲家マルコ・ダ・ラクィラとかが気になっていたところ。ポール・オデットによる録音がiTunesで出ているけれど(”Lute Music Volume 2, Early Italian Renaissance Lute Music” -> Paul O'Dette - Lute Music, Volume 2: Early Italian Renaissance Lute Music)、フランチェスコ・ダ・ミラーノ(個人的にはそのリュート曲はとても好きなのだけれど)あたりとはまた違う作風で、なかなか興味深い。

あまり意味はないが、都内某所の桜の写真も。
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