「クロスオーバー」カテゴリーアーカイブ

史料の読ませ方

メルマガのほうでも前に取り上げたのだけれど、和田廣『史料が語るビザンツ世界』(山川出版社、2006)を改めて眺める。これ、普通の通史ではなく、ビザンツの各社会階級の人々(皇帝、宦官、修道士、土地所有者、知識人、庶民、周辺の隣人)についての証言を、それぞれテーマ別に章立てて関連史料を訳出して読ませていくという面白い作りの本になっている。巻末には史料解題として、取り上げたものの校注本なども紹介されている。一種の概説書ではあるのだけれど、史料の読ませ方が巧みで、いろいろな文献の断片を味わうことができる。ビザンツ関連でこういった書籍はほかにちょっと見あたらない気がする。というか、ほかの分野でもあまりない感じ。バリバリの論考とかもいいけれど(出版事情として、そういうのはだんだん出にくくなっている感じがするけれど)、こういうアンソロジー方のまとめ本というのも、もっといろいろ作ってほしい気がする。こういうのが各分野ないし各テーマであれば、当該分野の全体の見取り図が得られるし、具体的な史料の感じも思い描くことができる。教科書っぽく下手に淡々と語られるよりも、こういう書籍のほうがとっかかりとしてもよいのではないか、と思ったり。

「黒の過程」

昨年新装版で出たユルスナール『黒の過程』(岩崎力訳、白水社)を読了。訳者は学生時代にお世話になった先生(笑)。地の文が入り込むフランス式の会話文は久々で妙に懐かしい。16世紀を舞台に、ある錬金術師(医者でもあり哲学者でもある)の遍歴を中心に、ルネサンス期のゆるやかな社会変革にあって覚醒と蒙昧との境界線上の波間を漂う狭間の人々を描き出しているという一作。話には聞いていたけれど、なかなかに味わい深い。読み応えたっぷり。語り口もなんともいえず、いったん主人公が後景へと消えて端役のような扱いで戻ってくるあたりの巧みな語りも、あまりお目にかかれない小説技法という感じだ。

で、巻末についているユルスナールの「作者の覚え書き」がまた実にいい。主人公ゼノンをはじめ登場人物の造形のモデルや、エピソードのもとになった歴史的事実、背景などを蕩々と語っている。当然ながら真摯な学究的な姿勢の上に、その資料の合間を縫ってフィクションが紡ぎ出されるという小説構築の作法。そういうものの積み重ねがあっての堂々たる作風。

今回の新装版のカバーにはヤン・ヴァン・ゴイエン(Jan Van Goyen)の「スケーターたち」(Les patineurs)という絵の一部が使われている。1645年の作品で、リール美術館所蔵とか。人も描き込まれた全体図を掲げておこう。
jan_van_goyen_les_patieurs

オバマ……

オバマの演説本が語学書として異例に売れているという。以前の『クーリエ・ジャポン』にも付録に演説DVD(大統領選の勝利宣言のやつ)がついてきたりしたけれど、確かに100歳を超える黒人の高齢者の歩みに託して100年のアメリカを振り返るなど、卑近さと遠大さを織り交ぜる語り方が巧みな感じで印象には残る。でも核心的なメッセージ性という部分では妙に空疎な感じとかしたのだけれど……なんて思っていたら、大修館書店の『月刊言語』3月号の特集「レトリックの力」に、宮﨑広和「オバマのレトリック」という文章が載っていた。「yes, we can」など、あえて動詞もとっぱらったキャッチーなフレーズでもって、逆にそれを聞く各人が自分のこととして受け入れる素地を作った点を、「オバマの希望は、アメリカへの信仰として表現された個々人ひとりひとりの信仰を通じて、個人的な希望として無数に反復複製されたのである」(p.74)と説明している。しかもこれはかなり意図的・戦略的になされているのだという。上の文章では、そのあたりの戦略を「方法としての希望」と称している。なるほど彼の雄弁を支えているのは、いくらでもパラフレーズできる「空疎」をあえて導入し、聞く側の欲望の備給みたいなものを喚起するということなのか……。

それにしても『月刊言語』のこのレトリック特集、司法通訳の話(長尾ひろみ)とかいろいろ面白い。広島の女児殺害事件の南米出身の犯人が「悪魔が私をそうさせた」と述べたというのは本当は「魔が差す」くらいの意味ではないのか、という話は報道の直後くらいからネットとかでも出ていたように思うけれど、これが南米系のカトリック教徒が悪いことに言うのに使う常套句らしいことを紹介したりしている。また個人的な関心から言うと、レトリックとくれば外せないのはアリストテレスやキケロの弁論術。これについての簡潔なまとめも掲載されている(高田康成)。キケロの『弁論家について』は中世人の読むところではなかったとされているけれど、キケロ的なものの伝統と具体的に何が読まれていたかというのをちゃんとまとめておかないとなあ、と。

「モスラの精神史」

堀田善衛がらみで読み始めたら、止まらなくなってしまったのが小野俊太郎『モスラの精神史』(講談社現代新書、2007)。堀田のほか、中村真一郎、福永武彦のフランス文学系作家が「モスラ」の原作小説の生みの親だということは聴いたことがあったけれど、詳しい話は知らなかったなあ。著者はその原作小説と出来上がった映画(1961年)を丹念に読み込み、そこから両作品世界が映し出している様々なレベルの意味作用を焙り出してみせる。我の怪獣に仮託された養蚕にまつわる日本的意味、モスラがいる南海の孤島の神話的意味(ザ・ピーナッツの歌うモスラの歌はインドネシア語なんだそうだ!)、モスラが国内に登場し破壊していく地誌の背景的意味などなど、どれも興味深いものばかり。サブカル(と言うと語弊があるが)的事象に、文学研究のある種の正統なメソッドを当てはめることによって、とても奥行きのある作品解読が結実するという見事な事例かしら。うん、扱う対象は違えど、これはいろいろ参考になる、というか大いに刺激を受ける(笑)。ちょっと個人的に残念だったのは、堀田への言及がことのほか少なかったこと。とはいえ、最後にはジブリの宮崎駿(堀田の作品集がジブリで再刊されているわけで)との絡みなどもあって、とても興味深かったり。

中世のイリアス

失礼して再びガンダム話から入ろう(30周年なのでご勘弁)。最初期のガンダムがギリシアっぽいリファレンスに満ちているのはよく知られたところ。ホワイトベースを敵側は「木馬」と呼ぶし、シャアのヘルメットもどこかギリシアの軍の装備を思わせる。ZガンダムのZも「ゼータ」と読ませるし、ティターンズっていわゆるティタン(ウラノスとガイアの子たち)だし……云々。でも、戦場で一部のエリート戦士同士がライバルとして一騎打ちをするという構図は、ギリシアというよりもむしろ中世の騎馬試合のような感じでもあり(苦笑)、全体としてこれはどこか中世的プリズムを通して見たギリシア像を下敷きにしている印象を受けたりもする……。

とまあ、そんなこともあって(笑)、一度読みかけて中断してあった『イリアス–トロイア戦争をめぐる12世紀の叙事詩』(“L’Iliade – épopée du XIIe siècle sur la guerre de Troye”, trad. Francine Mora, Brepolis, 2003)を少しばかり眺め直してみる。1183年から1190年ごろに、エクセターのジョゼフという英国の聖職者が書いたラテン語の叙事詩の一部を羅仏対訳で収録した本。これの序文に、トロイア戦争の中世での受容に関してのごく簡単なまとめがある。それによると、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』のギリシア語原典がビザンツの大使からペトラルカにもたらされるのが1353年だそうで、それ以前には、1世紀ごろのラテン語訳イリアスを始めとする各種ラテン語版のトロイア戦記(4世紀から6世紀にかけてのもの)がまずあって、次に11世紀以降に詩人たちが古来のテキストをもとに詩作を始め、さらに12世紀から13世紀にかけてラテン語版の叙事詩と、それに次いで世俗語版が多数出てくるのだという。トロイア戦争ものは、「11世紀から12世紀にかけて、詩的想像力の特権的トポスになった」のだそうだ。そうした動きの背景に、12世紀ごろの都市化と識字率の高まりや、系譜への関心の高まりなどがあるという。まさに12世紀ルネサンスの中核部分を占めていたというところか。