「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

人文誌……

なんと、新書館の雑誌『大航海』は6月のNo.71(特集:ニヒリズムの現在)で終刊だそうだ。今回は終刊号ということで、巻末に総目次がついている。人文系の雑誌はどこもじり貧とは聞いていたけれど、これはいきなりの終刊でちょっとびっくり。うーん、個人的にはあまり忠実な読者ではなかったけれど、最近でも2007年のNo.62「中世哲学復興」とか、ちょっと思い入れのある号もいくつかあって、毎回密かに特集を楽しみにしていたりしたのだけれど……。最後の特集はニヒリズムで、なんだかとても示唆的(笑)。総目次の前の事実上の最終ページには編集長の三浦雅士氏のエッセイが。「時代という虚構を結晶させる触媒」としての典型(モデルってやつですね)は農業を基軸とする世界でこそ意味があるが、「世界は大きく変わった」とし、今や「価値を生むのは労働ではない。差異を見出す敏捷さである。範例のとなるのは農業ではなくむしろ狩猟なのだ」という。けれども逆に、そんな今こそ農業的な営みの論理が必要とされる気もする。狩猟の論理に抗いうる農業の論理の再生を見据えないまま退場するのは、あまりに寂しいのでは……?

特集そのものはまだちょこちょこと目を通した程度だけれど、三島憲一「「ニヒリズム」の話は無意味だからもうやめましょう」という文章がちょっと鮮烈な印象。日本のニヒリズム受容は、ニーチェのおおもとのニヒリズムから逸れた俗流(?)ニヒリズムの受容の一つで、戦後を通じてその底面には、西欧への参画や自文化の自画自賛というモチーフが隠れていたのだという。で、このやや偏った受容が、下手をすると安易に復古的・ナショナリズム的に折り曲げられてしまう危険を、アドルノの批判に託して表明している。そういうニヒリズム(俗流)なんてカテゴリーがそもそも不要なんだ、と……。

連休明けの余波……短評とか

一応の連休明け。連休中はさしあたり急ぎの仕事とかもなく、ラ・フォル・ジュルネに行った以外はちらちらと読んだりDVDとか見たり。そんなわけでとりあえず短評メモという感じで落ち穂拾いでもしておこう。

まず、石野はるみ『チョーサーの自然–四月の雨が降れば–』(松籟社、2009)。基本的には紀要その他への発表論文をまとめたもの。また、チョーサーも当然のごとくに継承した中世の自然概念についての概説も冒頭に添えられている。概説部分には個人的には特に目新しい記述はない感じ。でも、一般向けにはこういう概説は必要かもしれない……。個々の論文も中世の伝統的な自然概念がチョーサーにどう反映されているかを論じるのが主眼のようで、個人的にはどうも悪い癖というか、「反映」よりもチョーサーがその自然概念をどういじったのか、どう「変容」させているのかといった方向性を期待してしまう。その意味ではちょっと物足りない感じ……。でも、それはこちらがチョーサーを愛読していないからかもね。チョーサーが好きな人が読めばまた違う印象をもつとは思う。

西山雄二編『哲学と大学』(未来社、2009)は最近流行っていた大学論がらみの論集。哲学史上の有名どころ(カント、フンボルト、ヘーゲル、ニーチェ、ウェーバー、ハイデガー、デリダその他)による大学と哲学の議論の読み直しによって危機的と言われる大学を再考しようというわけなのだろうけれど、一部を除きなんだかあまり切実な議論にはなっていないような気がするのは、オルタナティブな制度化などについての考察が前面に出ていないからかしら……。でも個人的には初期のニーチェの大学論の話(竹内綱史)とかが印象に残る。「(天才であるという)現実にはごく少数にしか可能でないことを、多くの人々に可能なこととして制度化されたもの」(p.107)、それが初期のニーチェが言うところの教養施設なのだという。「裾野が広くなければ頂上は高くならない」(同)ということが突きつける制度上のアポリアを、ニーチェが後に制度化構想そのものを捨てて乗り越えようとする、というのが興味深い。

ニーチェといえば、6月に出る次号でニヒリズム特集をやるらしい雑誌『大航海』。3月に出ていたNo.70は「[現代芸術]徹底批判」という特集。現代美術、現代音楽などがバッサバッサとなぎ倒されている(笑)。ちょっと身も蓋もないか……。たとえば片山杜秀は無調音楽などは(調性音楽もそうだというが)キメの重要な音型がどこに現れているか判別できるのが鑑賞法の基本なのだけれど、もはや楽譜の分析をソフトウエアなどで一般向けにする以外に、一部の選民思想的リスナーを超えて鑑賞させる方法はないみたいなことを示唆している。で、きわめつけは編集長の三浦雅士と安芸光男の対談。特に三浦氏は現代芸術はことごとくカスのようだみたいなことをいい、若手作曲家が留学するIRCAM(ポンピドゥセンター横の現代音楽研究所みたいなところ)なんか単なる箔付け機関でしかなくて不毛だとにべもない。で、評価もなにも抜きに一律50万円出すというような企業メセナのあり方に、ニーチェ的なニヒリズムの問いを重ねているところがケッサク(「要するにニーチェは、『音楽や美術に対して一律五十万ずつ配給する以外に正しさはないということに、君は耐えられるか』と問うているわけですよ」(p.103))。うむ、次号のニヒリズム特集も期待していよう(笑)。

ラ・フォル・ジュルネ、今年も

有楽町の東京国際フォーラムで5日までやっている「ラ・フォル・ジュルネ–熱狂の日音楽祭」。フォーマットに飽きたと言いつつ今年も出かけた。しかも二日連続(苦笑)。なにせ今年はテーマがバッハで、もの凄く濃いバロック音楽祭になっているもんだから、こちらも気合いを入れて出かけたというわけ。各日三公演づつを堪能。以下メモっておこう。

一日目、最初は来日中止になったサンフォニー・マラン・マレに代わる若手グループ「ラ・レヴーズ」。テオルボ奏者(バンジャマン・ペロー)が指揮をするというのが珍しい。技術はともかくどこかまだ「荒削りっぽくない?」みたいな、でも結構今後に期待できそうなグループ。曲目は変更があって、BWV1027(ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ1番)、BWV912(トッカータ・ニ長調)、ラインケンのパルティータ4番ニ短調。続く二つめの公演はリチェルカール・コンソート(フィリップ・ピエルロ指揮)によるBWV235ミサ曲ト短調、BWV243マニフィカト・ニ長調。ベルギーのグループ。最近の流れという感じだけれど、古楽系というのを感じさせないオーソドックスで重厚感のある演奏だ。もちろん宗教曲はこれくらいがいいのだけれど。それと対照的なのが、三つめのエウローパ・ガランテ。ファビオ・ビオンティ率いるこのグループはもうすぐ20周年になるそうで。一世を風靡した爆走系(失礼)だけれど、期待通り疾風のような圧倒的ヴィヴァルディ(シンフォニア・ト長調と、「ラ・ストラヴァガンツァ」から)。けれども単に爆走というわけでもなく、パーセルなど、このグループにかかると、なんだか緩急取り合わせて妙な色つやに彩られる(笑)。コレッリの合奏協奏曲作品6もそう。自在な音のさばき方はまさに名人芸。というわけで、これは名演でしょうね。アンコールはテレマンの組曲「ドン・キホーテ」から。これも見事な対比具合。このグループのテオルボ奏者はジャンジャコモ・ピナルディという人らしいのだけれど、これがやけにクリアな音を出していた(ほかのリュート属と違い、テオルボは爪で弾くのもアリなんだそうで、この人などはもろ爪でもって弦をバシバシ言わせている(苦笑))。

二日目はまずピエール・アンタイ指揮でル・コンセール・スピリチュエルによるバッハのコラール・カンタータ2曲(BWV178と93)から。うーん、午後のけだるいときにこの手のカンタータは禁物か。ついつい舟をこいでしまう(笑)。続いてバーバラ・ヘンドリクスほかのペルゴレージ「スターバト・マーテル」。伴奏はドロットニングホルム・バロック・アンサンブルというグループなのだけれど、メンバーなどの情報は不明(パンフに未記載……ってどういうことよ?)。ヘンドリクスはさすがに大物の貫禄というか、お手のものという感じの「スターバト・マーテル」。ものすごいビブラートのかけっぷりに、最初は個人的にちょっと引いた(笑)。でも全体としては迫力勝ち。さかんにブラヴォーが出ていた(えーと、本当はブラヴァですけどね)。締めとなったのはラ・ヴェネクシアーナ(クラウディオ・カヴィーナ指揮)によるブクステフーデ「われらがイエスの御体」。これもすばらしい。もともと隠れた名曲という感じで、生で演奏される機会というのはほとんどないと思う本作。個人的にも生演奏で聴くのは初めて。CDで聴くと結構反復部分などが耳に残ったり、半ば過ぎくらいには弛緩して聞き流すみたいになってしまうことも多いのだけれど(苦笑)、生演奏だとぐいぐい引き込まれるから不思議だ。というか、それくらいの演奏だったということかな。ラ・ヴェネクシアーナというと、モンテヴェルディもののCDくらいでしか知らなかったけれど、ブクステフーデもとても良い。これまた収穫。

明日は行かないので今年はこれで打ち止めだけれど、全体としてバロック系のスター奏者らがこれだけ一堂に会する機会というのはあまりないわけで、このイベントが今後も続くようなら、何年かに一度はバロックものでやってほしいところ。

ブレヒト版「アンティゴネ」

ユイレ=ストローブの映像作品から、『アンティゴネ(1991)』(紀伊国屋書店、2008)を観る。正式タイトルは「ソポクレスの《アンティゴネ》のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版」(1948)。先日記したように『思想としての翻訳』を読んだばかりなので、この「ヘルダーリン訳」というところに激しく反応したのだけれど(苦笑)、本作ではヘルダーリン訳はあくまでブレヒトがベースに用いたというだけで、DVDパッケージのブックレットの解説(渋谷哲也)には、ヘルダーリン訳がそのまま継承されているのは全台詞の2割程度、とある(ほかに約3割がやや書き換えたものだとか)。もう一つの解説(初見基)には、ヘルダーリン訳やブレヒトの処理などについて、冒頭その他のいくつかの実例が紹介されている。とはいえブレヒト独自の部分についても、ヘルダーリン訳そのままであるかのような(実際は違うのに)「ずらされた」表現が全編に散見される、といったことが記されていてなかなかに印象的。実際、このドイツ語のセリフ回し、抑揚の感じなどがどこかギリシア語っぽく響いてくる気がするから不思議だ。作品そのものはまさに「ブレヒト版」で、細部や設定などかなりの変更が施されているという。うろ覚えながら、確かにソポクレスの原作とはいろいろ違っている気がする。映像的には、全編極端に動きが少なく(シェーンベルクの『モーゼとアロン』の映像化も大まかにはそんな感じだったけれど)、舞台空間となる屋外円形劇場跡(シチリアのセジェスタ劇場)に登場人物が立って喋るのを固定カメラがひたすら追うという趣向。というわけで、これはひたすら台詞の響きを味わい、そのやり取り(それ自体は結構面白く、舞台上のコロスがクレオンを批判したりとかする)を味わう劇。とはいえ、何度かそのセジェスタ劇場からはるか遠景の山などが映し出され、それがなんとも美しかったりもする(笑)。

ブックレットによると、件のヘルダーリン訳をそのまま用いて音楽にしたものとしてオルフの『アンティゴネ』があるそうだ。ちょうどブレヒトが本作を用意していたのと時を同じくしているのだそうで、そちらもぜひ聴いてみたいところ。

逃がしたイベントとか……

ありゃま、ちょっと面白そうなイベントを逃してしまった。今週はちょっと立て込んでいたから、どのみち行くのは厳しかったのだけれど……。アヴェロエス主義を扱った著書が良かったエマヌエレ・コッチャ氏が、東大駒場の文献学系シンポに出ていたらしい(こちらのページに情報があったのね)。うーん、残念。お顔を拝み損ねた(苦笑)。

先週は先週で、何年か前から横浜から東京に移ったフランス映画祭とかあったらしい。それの関連でジュリエット・ビノシュとか来日しシアターコクーンでダンスパフォーマンスの公演があった模様。そちらもお顔を拝み損ねた(苦笑)。ちょうどこの間、ホウ・シャオシェンの『レッド・バルーン』をレンタルDVDで観たところ。ビノシュは主人公の少年の母親訳で、中国風人形劇の声優をやっているという役どころだった。でもこの映画で一番目立っていたのは、少年のベビーシッターになった台湾人(笑)。映画を専攻している留学生という役なのだけれど、なんか日常会話で「d’accord(承知したわ)」を連発していた。仏語学習で日常会話やろうとすると、d’accordを連発する癖ってつきやすいかも。個人的にもそうなった時期があって、ある時仕事関連で使っていたら、「そこはd’accordって言う場面じゃないだろ!」とフランス人に怒られたことがあったけなあ。なんだか懐かしいぞ(苦笑)。それにしてもビノシュはいい感じで年齢を重ねているよなあ。作品は少年の日常のスケッチという感じなのだけれど、静かに、あるいはほんの少しだけそこに視線を差し入れてくる大人たちの目が、どこかカメラや風船に重なってくるという微妙さ……。こういうのはパリの風景あってこそ、か。