「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

小説マイモニデス

昼も夜も彷徨え - マイモニデス物語 (中公文庫)なんとマイモニデスを主人公にした小説(!)を読了。中村小夜『昼も夜も彷徨え – マイモニデス物語 (中公文庫)』(中央公論新社、2018)。このような小説が翻訳でもないオリジナルとして日本で刊行されたということを、まずもって驚きをもちつつ大いに讃えたい。また、内容的にも、中東を舞台にしたある種の戦記(広い意味での)あるいは冒険譚の体裁になっているのが、意外で新鮮だった。マイモニデスがスペインのコルドバからモロッコ、エジプトへと移り住んでいく過程を、ユダヤ教徒への迫害から逃れるためという従来型の解釈に落とし込まず、より積極的な、強い意志にもとづき移動する高度な批判的知性というふうに解釈し、それをもとに実に魅力的な人物像に仕立て上げている。反教条主義的・反骨的な自由人としての颯爽としたマイモニデス、か。周りの人物の描き込みも多彩で、どこか群像劇ふうになっているのも興味深い。風景描写などは最小限だけれども、マグレブや中東の光景がなにやらせり上がってくるような印象を与えるほどに、的確に挿入されている印象。セリフ回しなども実に格好よく、妙に印象に残るものが多い。コミックやアニメにもできそうな題材かもしれない。個人的におお、と思ったのは、ゲニザ文書(Cairo Geniza)という、フスタートのベン・エズラ・シナゴーグで発見されたユダヤ教徒の文書群に、作者みずからが当たっているらしいこと。その文書群から、マイモニデスの弟ダビデが兄に宛てた最後の書簡が1954年に見つかったということだが、作品の中でなんとそれが訳出されている(!)。

地下茎の思想再び

人はなぜ記号に従属するのか  新たな世界の可能性を求めてドゥルーズとの共著はともかく、単著については多少とも食わず嫌いだったフェリックス・ガタリ。けれども最近、改めて少し詳しく眺めてみてもよいかもと思うようになった。意外にそれがリアルポリティクスの諸相をうまくすくい取れているかも、という話を耳にしたからだ。とりあえず邦訳で、ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて』(杉村昌昭訳、青土社、2014)を眺め始めているところなのだけれど、考えていた以上に、確かにそんな印象もある。原書は2011年刊だというが、実は70年代後半、主著『分子革命』後に書かれた原稿なのだそうで、内容的にも主著と重なっているようだ。ガタリの基本的・理論的なスタンスは、精神分析において家族などの固着的な図式に則って解釈されるリビドーの議論を批判するところから始まる。本人はその批判的な言説を「証明」と称してはいるものの、もちろんそれは仮説的な話でしかない(そのあたりで、すでにして批判的な読者も当然出てくるだろう)。けれどもその批判は広範に敷衍されていき、そのあたりが最初の読みどころにもなっている。リビドーの動きはもっと不定形なものとして、一種機械のごとくに自動的に産出されるだけではないかということをガタリは確信している。そこから諸々の発現形(欲望の、あるいは記号・表象の)がいかに構築され、リビドーの経路を誘導していく・方向づけていくのかを分析しようとするというわけだ。したがってその発現形の分析は、固着した構造の分析とは抜本的に異なるし、領域横断的なものにならざるをえないほか、きわめてリアルなものに接近せざるをえない。ガタリは構造主義が扱うような構造体を「樹木<ツリー>状」と捉え、領域横断的な自身の分析をその「地下茎<リゾーム>」に喩えてみせる(この点から、ツリー対リゾームという構図だけを取り出して批判するのも、また的を外していることがわかる)。

また、そうした発現形はいずれにしても無垢というわけにはいかず、かならずなんらかの緊張関係・権力的関係を内包している。それは資本主義が課す社会的機構だったり、日常的なミクロの権力だったりする。外装(装備)としてのツリー的な構造体を、地下茎的なアプローチで批判的に分析するなら、そうした関係性を浮かび上がらせずにはいないはずだ、とガタリは主張する。精神分析を批判的に取り上げてリゾーム的な分析を提唱する理論編以上に、こうした社会的なものへの言及箇所のほうが俄然面白くなってくる印象だ。ガタリはどこかつねにジャーナリスティックなのかもしれない。もちろん、たとえば西欧の近代の萌芽を、中央集権化していた古代からの諸制度から、それに代わる脱領土化したキリスト教の組織化・社会的分節化が進んでいく11世紀に見ているところなども、大まかな捉え方ながら興味深くはある。それが貨幣経済・資本主義の流れの発端に位置付けられている(もちろんそこには異論もあるだろうけれど)。さらに後の歴史についても様々に言及されている。けれども、やはり白眉は70年代ごろの社会現象への批判に切り込んでいくところ。それは今現在の問題とも様々な面で重なり合う。たとえば「国家権力のあらゆる具体的表現」に抗しうるには、「労働運動やあらゆる種類の少数派民衆運動を麻痺させる官僚主義的構造を同時に”解体する”ことが前提条件」になるとの指摘や(p.109)、報道機関に関して、それらが「<擬似出来事>を発表して、多くの読者・観客の視覚的歓声を操作することだけが目的」(p.134)なのだと喝破したりするところとか、68年の革命後の「リベラル保守の政治家やテクノクラート」の「小心翼々たる改革案」が、プチブルの最も保守的な層向けにすぎず、「左派と右派に対抗する<近代派>」を自称しながら、旧来のものよりいっそう抑圧的な装備を施したことを蕩々と述べているところとか、今読んでも(あるいは今だからこそ?)身につまされるかのようだ。

制御(調節)という謎

セレンゲティ・ルール――生命はいかに調節されるか今年も年越し本がいくつか。例年、年越し本は少し毛色の違ったものを含めることが多い。今年もまたそんな感じ。というわけで、今年の一発目はショーン・B・キャロル『セレンゲティ・ルール――生命はいかに調節されるか』(高橋洋訳、紀伊國屋書店、2017)。タンザニアのセレンゲティ国立公園を舞台に、生物圏に恒常的なバランスをもたらしている「ルール」とは何かを、進化発生生物学の権威が、一般向けに平易な文体で説いた一種の啓蒙書。けれどその核心的な主題に至るのは全体の広範からで、その前奏となる生物学の諸分野での「調節機能」発見の科学史がとても興味深い。ウォルター・キャノンによるホメオスタシス概念の確立、チャールズ・エルトンの食物連鎖概念、ジャック・モノーによる制御タンパク質(リプレッサ)および二重否定論理の発見、ゴールドスタイン&ブラウンによるコレステロールの調整機能の検証、ジャネット・デイヴィソン・ラウリーによる調整失敗としてのガン細胞発生研究などを経て、ロバート・ペインによる海洋生物の生態環境変化の研究と、そこから導かれたキーストーン種(生物多様性に広く影響を及ぼす種)の発見へとたどり着く。これらはどれも、実験的にルールを破れる状況を探し出して、何が起こるかを探る、あるいは既存のシステムが崩壊している状況を見つけて、理由の解明を試みるという点で、手法が似通っている。アナロジカルだと言ってもよさそうだ。そのようなアナロジカルな手法が、最後にはセレンゲティの生物環境にも適用されていく……。

このようなまとめからもある程度推測できるように、同書はある種の思想的「起点」になりうる奥深さをもっているように思われる。まずは制御一般なるものを考える上でのヒントになりうる。また昨今かまびすしい「動物の哲学」にも接合させられうるだろう。さらにはこうしたアナロジカルな研究メソッドの、学際的な応用可能性なども興味深い論点かもしれない。とくに制御タンパク質の話以降、たびたび取り上げられている二重否定パターン(直接的に働きかけるのではなく、別個に存在する抑制因子に働きかけるというパターン)が、他の研究領域でもしばしば見られるというあたりは、思わず唸らせられる。

異化作用のために

仏教者が読む 古典ギリシアの文学と神話: 松田紹典論集タイトルに惹かれて仏教者が読む 古典ギリシアの文学と神話: 松田紹典論集』(村上真完・阿部秀男編、国書刊行会、2017)を読み始めた。まだざっと第一部。収録論文は70年代のものがメイン。該博な知識が縦横に駆使されて、ある種の混成的な論考がアウトプットされる。それはどこか古き良き時代を想わせるものだ。たとえばギリシアにおける二分割法の問題についてまとめられた第二論文。認識論・範疇論的な二分割的思考の問題を扱いながら(その起源はピュタゴラス派にまで遡る)、話は哲学におけるそうした思考の痕跡にとどまらず、ギリシア神話の方、あるいはまたレトリックの領域にすらも分け入っていく。二分割法の問題は第三論文でも取り上げられ、いかにそれが古代ギリシアの神話を規定しているかが論じられたりする。さらにインドや日本などにおける仏教思想との比較などが持ち出される。それもそのはずで、著者は禅者であり、また古典ギリシア学者でもあるといい、ある意味そうした別筋のもの同士を突き合わせることによる一種の「異化作用」のようなものが、おそらくはその大きな味わい・特色ということになるのだろう。そのあたりをどう受け止めるかで、読み手を選ぶ本だと言うこともできそう。私個人はまだ少し修行が足りないのかな、という感じ(苦笑)。精進しよう。ちなみに第二部(むしろこちらがメインのようなのだが)は、アリストパネスの喜劇『蛙』から古代ギリシアの死生観を探るという括りで、また興味深い論考が11編も並んでいる。

内部・境界・外部

意味の変容 (ちくま文庫)思うところあって、少し前に古書で入手した森敦『意味の変容 (ちくま文庫)』(筑摩書房、1991)を夏読書として眺めてみた。70年代中盤の『群像』に連載されていたという伝説の連作。語り手も、対話相手となる括弧つきの話者も、厳密には特定されないまま、哲学的、あるいは数学的な議論が展開していくという、ある意味で抽象的・思弁的小説作品。けれども今読むと、そのある種の急進性に思わず身震いする。第二編となっている「死者の眼」では、内部・境界・外部をめぐる考察が描かれる。肝となるのは、境界が外部からの認識で立ち現れ、内部からの認識では境界が無限に開かれたものとして感受されるしかないということ。同編ではそれが、望遠鏡から覗く世界のパラドクスという形で示されるのだけれど、このテーマはその後も様々に変奏されていく。たとえば続く「宇宙の樹」でも、その内部からの境界の体験は、微分法的な無限分割がもたらす一瞬の無限のパラドクスとして描き直される、というふうに。これを読んでいると、たとえば昨今ならば、ヴィヴェイロス・デ・カストロが「パースペクティブ主義」と称した他者理解に、どこか誘われるような気がする。外部とされるものの中に固着せず、別種の内部を推論的に見いだそうとすること、あるいはその境界を深遠な無限として経験しようとすること。そんなふうな眼で見ようとするなら、ふと一向に特定されないままの字の文の語り手と対話相手の対話もまた、まるでなんらかの無機物同士の対話であるかのようにすら見えてくる。これもまた意味の「変容」体験そのものに連なるかのよう。