「古楽じゃないが……」カテゴリーアーカイブ

雑感:今年もLFJ

個人的なメモ。連休後半の土日、例年同様にラ・フォル・ジュルネ音楽祭に行く。今年は例年以上に人出があった感じもした。ここ数年は、個人的に民族音楽とその周辺を狙うというのが普通になってきていて、今年もその路線で公演をはしごする。聴くことのできた主な公演としては、シルバ・オクテットによるロマ&クレズマー&バラライカ音楽、ヴォックス・クラマンティスによるアルヴォ・ペルトの声楽曲、音楽祭の表題にもなっていた「Carnet de voyage」というプログラム(ギタリストのエマニュエル・ロスフェルダーが、バンドネオンや弦楽四重奏団、ソプラノなどと絡むというもの。カスタネットのお兄さんがいちばん美味しい役どころだった)、カンティクム・ノーヴムに尺八、箏、三味線、二胡を配した編成による「シルクロード」というプログラム、ロイック・ピエール指揮によるミクロコスモスというグループの「La nuit dévoilée」。ほかに現代曲のプログラムなどもいくつか。

総じて、以前によりも演出の要素が重視されるようになってきている気がした。たとえば「シルクロード」のパフォーマンスでは、曲のつなぎをスムーズに処理し、自然に次の曲へと移行していく演出だった。これがなかなか見事に決まっていて、洋の東西を巧みに行き来する様が描き出されていたと思う。それにもまして今回特筆すべきはミクロコスモスのパフォーマンスか。観客席をも巻き込んで、舞台を立体的に活用する演出。ときおり使われる音叉の音やライティングの妙とも相まって、デミウルゴス的な世界の誕生というか、カオスからの秩序の形成、不安や恐怖から安寧への移り変わりが描写されていく。舞台を中心に会場は深淵な空間と化したかのよう。演奏されたのは主に現代の作曲家の作品だったが、とても印象深い舞台だった。

マルティノフにハマる

ブログに古楽話を書かなくなって久しいが、これは端的にこれといった話題がないというのが大きい。十年一日という感じで、プレーヤーたちもそのまま、新しい人も多少出てきてはいるらしいけれど、まだ特筆すべきものはあまりなさそうに見える。ムーヴメントとしても下火。良い意味で成熟したということなのだろうか(?)。

そんなわけで、個人的には古楽プロパーなものから少し離れ、古楽的な音型や着想を生かした現代音楽のほうに少し目が向いているというのが、このところの嗜好でもある。……というわけで、以前記したペルトに続き、今度はロシアの現代作曲家、ウラジーミル・イヴァノヴィチ・マルティノフに惹かれている。これまた生音で聴く機会はまだないけれど。NAXOSライブラリーのリストはこちら。全体としてはやはり一種のミニマル・ミュージック志向なのだけれど、どこかで聴いたことがあるような親しみやすそうなフレーズを用い、それになんらかの反復(音型、パーカッションなどなど)を加えることで、一種の異化作用を醸し出すというのが基本的なスタンスのよう。クラシカルな旋律に抑制の利いた反復がほどこされているものや(1988年の「Come in !」:これは名作)、反復がそうした抑制を逸脱していくかに思えるもの(1998年の「至福(The Beatitudes)」、2009年の「シューベルト・クィンテット(未完)」)、反復がときに過剰にまで至ったりするもの(1976年の「パルティータ」)までいろいろ。そしてそのいずれもがなかなか見事にキマっているように思われる。合唱曲も同じような作りで見事なもの(上の「至福」を用いた「山上の垂訓」、「エレミアの哀歌」)。ミニマル・ミュージック的な反復と声楽曲というのは不思議に調和する。

シレンシオ -沈黙-上の「Come In !」が収録されているアルバム『Silencio(シレンシオ -沈黙-(B009ZH4LL8)は、ほかにペルトやフィリップ・グラスの曲も入っていて、個人的にはお気に入りの一枚。ギドン・クレーメルのヴァイオリンがまた絶妙で素晴らしい。

探求の心得帳

バイエルの謎: 日本文化になった教則本 (新潮文庫)飛び飛びに読んでいたのだけれど、安田寛『バイエルの謎: 日本文化になった教則本 (新潮文庫)』(新潮社、2016)を文庫版で読了。もとは2012年の音楽之友社刊。うん、これはなかなか楽しい読書体験だった。バイエルはピアノ教則本で有名なのに、本人についてはほとんど情報がない、というところから出発し、日本に入ってきた経緯を追い、初版本を追跡し、そして最後はバイエルその人について戸籍(に相当する洗礼簿)を探っていくというストーリー。そういうアウトラインだけ見れば評伝研究の王道といった感じでもあるのだけれど、著者はその経緯それ自体を記録として、ルポルタージュ風にまとめてみせている。単なる評伝にしていない点がとてもよい。資料と出会えるにはそれなりの探求努力と、幾たびかの挫折、そしてなにがしかの幸運に恵まれなくてはならない……少しでも人文系の研究をすれば、そういう状況というのは多かれ少なかれ体験するはずだけれど、その、時にはまどろっこしいをプロセスを、とても大事に、どこかサスペンスフルに描き出している。これを読んで「こういう探求をやりたいなあ」みたいに思う人も、潜在的には少なからずいるのではないかな、と。というわけで、これは「資料渉猟のススメ」もしくは「探求の心得帳」という感じで個人的には受け止めた一冊。ちなみに、バイエルの初版(とその家庭環境など)をもとに、末尾でとても興味深い仮説が披露されている。うーん、なかなか渋い……。

【要約】アリストテレスの音楽教育論 4

アリストテレスの音楽教育は、あくまで自己修練的な意味合いが強く、競技会などに出ることも含め、演奏の専門家となることを例外扱いし、むしろそれを「自由人には相応しくない」として蔑視する姿勢を見せている(1341b.11)。専門家による演奏は、聴衆の喜びのためという「低い」目的に従事するものだからだというのがその理由だ。続いて話は、ではその対極にあるものとしての音楽教育では、どのような旋法やリズムを教えるのがよいのか、という問題へと進んでいく。アリストテレスは、詳しいことは「当代の」音楽家や、音楽教育に造詣の深い哲学者らに聞くのがよいとし、自分が示すのはとりあえずの概論という立場を取っている。

これはほかの哲学者による分類だというが、旋律は「倫理的なもの」「活動的なもの」「熱狂的なもの」が区分されている(1341b.33)。その上で、教育に関しては、演奏の実践には「倫理的なもの」を、他者の演奏の鑑賞目的には他の二つを多用するのがよいとしている(1342a.2)。こうした旋律の違いは、二つの社会階級の違いに対応するとも見なされている。一方は教育のある自由人、もう一方は職人や労働者などからなる下層の人々の階級で、それぞれの性質に応じて快を感じるとされている。この後者は激しい響きでイレギュラーな(即興的な?)旋律を好むとされる。

さて、教育のためには「倫理的な旋律」を、ということなのだが、旋法としてはドリアがそれに当たる(1342a.30)。けれども他の旋法も随時取り入れていく必要があるという。アリストテレスは、プラトンの『国家』で、ソクラテスがドリア旋法のほかフリギア旋法しか認めていないことに批判的だ。先の楽器の例での笛の場合と同様、フリギア旋法は高揚感・情感をかき立てるからだとしている(1342a.33)。どのような旋律が適当かは年齢にも依るとされ、高齢者に適した弛緩的な旋律をソクラテスが認めていないことにも一部に批判がある、とも述べている(1342b.20)。年齢別で考えるなら、若い児童には、端正で教育的であるという意味で、リディア旋法も適しているとされる(1342b.30)。リズムに関しての話はとくに取り上げていないように思えるのだけれど、そのあたりは推して知るべしということなのか……。

以上、『政治学』第八巻末尾の大まかな要約ということでまとめたが、先の笛をめぐる歴史的記述や、上のフリギア旋法の高揚感を煽る特徴についての事例など(ディオニュソス讃歌とか)、各種のディテールこそが実はとても面白い気がする。そのあたりはまた別の機会に振り返ることにしよう。また、教育論全般に関しても、アリストテレスのほかの著作からの議論も含めて検討する必要がありそう。

【要約】アリストテレスの音楽教育論 3

Politics (Loeb Classical Library)
続いてアリストテレスは、音楽の教育として、歌い演奏させる(手で)ことの是非を問う。もちろんそれは是であり、その理由は、実際に体験してみなければ、価値評価もできないからだと述べている(1340b.22)。また、幼い子供が「ガラガラ」(πλαταγή)でおとなしくなるように、より年齢の進んだ子供にとっては教育がその「ガラガラ」の役割を担うとして、音楽であれば実際に演奏に参加させるのがよいとしている(1340b.25)。年齢が上がって音楽を評価できる価値観を得たなら、演奏から解放するのがよい、とも述べている(1340b.36)。

その具体的な中身も重要だとされる。市民としての徳を身につけされることを教育の目的と考えた場合に、どれほどの音楽教育を施すべきか、どのような旋律(旋法)、どのようなリズムを身につけさせるのがよいか、どのような楽器を用いて教えるのがよいのか(1340b.42 – 1341a.3)、という問題だ。まず最初の点については、ほかの活動を妨害しない程度に、また戦闘や政治を実践できないよう身体を堕落させることがない程度に教育するのでなくてはならない、とされている(1341a.6)。もちろん音楽の専門的な競争を目指す場合などは例外としている。一般の市民としての徳、つまりは軍事や政治に携われるようになることが目的である限り、音楽教育は「ほどほどに」ということのよううだが、一方でアリストテレスは、動物でも楽しめるような音楽全般に共通する魅力を楽しむのではなく、美的な旋律やリズムを楽しむようになることを目標としている(1341a.13)。表面的な感覚の甘美さと、体験にもとづく深い味わいとが対照的に扱われている、ということか(?)。

次にアリストテレスは、こうした観点から、教えるべき楽器について考察している(旋法やリズムについては後回しになっている)。まず笛やキタラのような専門性を要する楽器は取り入れてはいけないとしている(1341a.17)。笛は子供を道徳的にするよりも気分を高揚させてしまうといい、教育よりも浄化の機会にこそ相応しいとされる(1341a.21)。また、笛が言葉を発する妨げになるのも問題だとしている(1341a.24)。このあと、アリストテレスから見て「昔」の教育ではそうしていた、という歴史に関するコメントが添えられ、この第6章が締めくくられる。(続く)