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テオフラストスの植物原因論

Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection Des Universités De France)

『植物誌』を少し後回しにして、テオフラストス『植物原因論』の冒頭を、Les Belles Lettres刊の希仏対訳版(Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection des universités de France), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2012)で読んでいる。対訳版第一分冊の前半にあたる第1巻をとりあえず読了。『植物誌』は形状や特徴の分類・体系化が主なトピックなのに対して、こちらは少なくとも第1巻に関する限り、茎、根、花、葉、果実といったそれぞれの部分について、発生論的な議論を中心とした観察の数々が提示される。当然ながら植物の種類によっても同一部分は様々に異なっているわけで、記述は事例の併記のようになっていかざるをえない。たとえば実がなるはずの木に実がならないとき、どのような原因で阻害されているのかを特定するのは難しいところ。発芽と結実の起源だけでも一筋縄ではいかない。植物そのものの属性や、環境要因が指摘されたりもする。若い木は二次的な発芽が盛んだが結実は少ないが、それらには湿地の木々と同様に水分が多いという特徴が指摘される。一方で実をなす木、若くない木はそれなりに乾いていると指摘される。さらにまた季節の要因、寒暖なども絡み、実際にどの木がいつどのように実をつけるかはきわめて多岐にわたる……。

しかしながら、たとえそうした多様性に手こずりながらも、テオフラストスの基本姿勢は、アリストテレスの学派の継承者らしくというべきか、自然への信頼という点で一貫して揺るがないように見える。テオフラストスもまた、自然はその「最善へと向かう傾向がある」(ἀεὶ πρὸς τὸ βέλτιστον ὁρμᾷ)としているが、さらに続けて、人が手を加えること(θεραπεία)もその傾向に従うと記されていたりする。こうした人的介入についての楽観的・性善説的なスタンスは、すでにして随所に散見される。栽培や農法については3巻から4巻で扱うらしいが、まずは続く2巻が気候などの要因をさらに詳しく取り上げているようなので、そちらに取りかかろうと考えている。

テオフラストス『植物誌』を見始める

Recherches Sur Les Plantes: Livres I - II (Collection Des Universites De France Serie Grecque)これまた夏読書的に読み始めているテオフラストス『植物誌』(περὶ φυτῶν ίστοριάς)(Théophraste, Recherches sur les plantes: Livres I – II (Collection des universités de France série grecque), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2003)。とはいえまだ第一書を終えただけ。この第一書は植物ごとの「違い」を、それぞれの部位(茎、枝、葉、根、花など)ごとに示そうとするもので、どこか眩暈を感じさせるほどに植物の多様性が浮かび上がる。というか、テオフラストス自身、どこかその広範な差異を前に呆然としながらも、するどい観察眼でもってなんとか分類を果たそうと苦闘する姿を想像させる。『植物誌』は全部で九書から成るもので、第一書はそうした各部の差異と全体的なメソッドなどを示している。第二書は栽培された植物、第三書は野生の植物、とくに木々を取り上げ、第四書では環境と植物という話が展開する。第五書は木々の本質や伐採時期、利用方法など、第六書は低木など、第七書と第八書はとくに草の類を取り扱う。第九書はちょっと違っていて、植物の医学的利用法といった話になっている模様だ(以上は底本としている上の希仏対訳本の解説序文から)。テオフラストスにはもう一つ『植物原因論』もあり、機能論らしい(?)そちらもそのうち見ていこうと思っているが、さしあたり、まずはこちらの第二書に入っていく予定。

ストア派と「連続性」

前回挙げたネフの著書では、コネクションの問題を前景化(ライプニッツの前に)した嚆矢としてストア派が挙げられている。唯物論的でホーリズム的だと評されるストア派のコスモロジーでは、物体や物質は一続きになっており、それぞれの間に無はなく、プネウマがそこをしっかりと埋めている。そしてそのプネウマこそが、世界の整合性をもたらしているとされる。それはまた、物体の一体性を担う特性・傾向(ディスポジション)ともパラレルであるとされ、こうしてある種の混成・混在・接続でもって世界観が織りなされている、と。

Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library)こうした連続性、一続きの発想は、諸概念にも適用されていることがわかる。プルタルコスの『モラリア』の一部をなす対話篇『ストア派に対する、共通概念について』(Loeb版:Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library))は、主に倫理学的な問題、ストア派における善と悪の問題などを扱い、矛盾などを指摘しながら批判していくという一篇なのだけれど、逆にそこからストア派の考え方の一端が浮かび上がる。プルタルコスは、ストア派が自然本性にもとづく生を目標としながら、自然における諸力に従って右往左往するのは愚かしいとしていることなどを矛盾として取り上げるが、ストア派側からすれば、目標にそった生き方そのものもまた、それに至る前の愚かしいとされる生き方と一続きなのであり、悪から善へのいわば連続的・漸進的な差異があるだけで、それを知覚するかどうかもまた、連続的に移り変わるだけだということのように思われる。絶対的な悪はともかく、多少の悪は程度の差こそあれ人の生について回るほかないとされ、それらは善への志向と表裏一体であるとされる。こうした考え方は他の諸概念にも敷衍されていく(在・非在など)。

そんなわけで、以前に見たレクトンの概念もそうだが、このストア派の哲学には今なお、多少とも形を変えて新しい息吹(プネウマだ)を吹き込む余地がありそうに思われる。

プルタルコスによるストア派批判

Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library)プルタルコスの『モラリア』から「ストア派の矛盾について」をLoeb版(Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library), tra. H. Cherniss, Harvard Univ. Press, 1976)で読んでいるが、そろそろ終盤に差し掛かってきた。というわけで、雑感メモ。ここでのプルタルコスは、クリュシッポスを中心にストア派が時として相矛盾するテーゼを示しているということを、テーマ別に、彼らの著書(現存してはいない)の随所からの引用同士を突き合わせて細かく指摘していく。その指摘は容赦なく、また細部を穿つ感じもあって、ある意味意地の悪いアプローチなのだけれど、逆にそれによって、限られたものではあっても、わたしたちは失われた著作の一端が伺い知れるという利点をもなしている。また現代的になら、矛盾する記述同士をどう整理して理解するかという観点からアプローチするところだが、プルタルコス(アカデメイア派に属している)はあくまでそれらを論難することに始終する。解釈によっては、もしかしたらプルタルコスとは別様の理解、別様の結論も導けるのかもしれないが、とにかく現存するコーパスが少ないという問題は残る……。テーマは倫理学が中心で、よりよき生、善悪のエティカ、悪の認識、快不快の問題、レトリックなどと進んでいき、そこから神学的・自然学的な議論に入っていく。

批判の例として胚の魂の生成にまつわる議論を上げておこう。クリュシッポスは子宮の中の胚を、植物と同じように自然によってもたらされたものと見、誕生の際にその火のような精気(プネウマ)が空気によって冷やされて魂となる、と考える。プルタルコスの指摘によれば、クリュシッポスはある箇所では生命の起源を火と見ながらも、また別の箇所ではその冷却をその起源と見ているという。ここにすでに自己矛盾がある、というわけだ。また、胚においてプネウマが冷やされ弱まって魂になるとなれば、魂は身体よりも新しいということになる。魂に備わる性格や傾向は、親に似るとされるのだが、するとそれは誕生時以降に備わることになってしまうし、また、親との類似性が身体の物質的な混成によって生じるとするなら、魂が発生した後に変化するということにもなる。アカデメイア派からすれば、それは到底ありえない話になってしまう。

ストア派的実践倫理

Apercus De La Pensee Stoicienne (Cahiers Philosophiques)仏ヴラン社から出ている学会誌『カイエ・フィロゾフィック』2017年第4四半期No.151(Aperçus de la pensée stoicienne (Cahiers Philosophiques), J. Vrin, 2018)を見てみた。特集が「ストア思想の概要」。二つほど、個人的関心にかかわるものについてメモしておく。まずはレティティア・モンテイユ=レング「古代ストア派における同一性と強度」。ストア派の霊魂論は、魂をプネウマから成る物体、外部との絶えざる相互作用に置かれたものとして扱い、異なるレベルの組織化がなされうるものと見なす。一方で魂の揺るぎなさの度合いに応じて、モラル的な一貫性も増すと考えられており、その基準はどこに設定されているのか、という問題を問い直すのがこの論考の主旨。魂は動的なものであるため様々に変化しうるけれども、主に四つのレベルでの組織化が施され、安定化するとされる。心理学的なパースペクティブ(霊魂論ではあるけれど)と倫理とが、ストア派においては地続きに捉えられているらしいところがとても興味深い。物質論的モラルの可能性か。

もう一つはオリヴィエ・ジャラニアン「エピクテトスの学校について」。こちらも、エピクテトスの教育理念が、学校の中での教義にもとづく教え、つまり理論の修得だけでなく、学校からひとたび外へ出たときの対処への応用、いわば理論の実践への結びつきをも重視していたことを説き証そうというもの。理論と実践の結びつきは実は難しい問題で、人は理論的な教説を説きながらもそれに即した行動を取らないというようなことが多々ありうる。それをどう変革し高めていくのか。エピクテトスはその問題を、「消化」の比喩でもって語ったりするようだが、それはいわば内部(個人の内的な臆見)と外部(哲学教育の教義)の混成の思想でもある。エピクテトスは学校を、そのような混成、あるいはプロアイレシス(選択・修得)を鍛える場として思い描くのだという。学内だけで完結しない、開かれた教育の場。ここにおいて、魂が流動的に変化するという上の論考の話とも重なり、ある種の教育論・学校論(学校にのみ限定されない営為のための哲学教育)が、これまた倫理の問題や存在論的視座と地続きのかたちで浮上してくるかのようだ。

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