「古典語・古典学系」カテゴリーアーカイブ

初期ストア派のポリス観

コスモポリタニズムの起源: 初期ストア派の政治哲学 (プリミエ・コレクション)先週は半ばごろに体調を崩し、あまり読書も進まず、今週はぼちぼちと再開。そんな中、個人的な注目作となったのが川本愛『コスモポリタニズムの起源: 初期ストア派の政治哲学 (プリミエ・コレクション)』(京都大学学術出版会、2019)。多少ともキャッチ―な表題だけれど、博論ベースの本で、少し文章に硬さも残る研究書。扱うテーマがストア派ということと、しかもそのポリス観についての研究らしいということで、個人的には大いに盛り上がる。ストア派、とくにその初期のものについては、オリジナルの書物が失われていて間接的な証言しか手がかりがなかったりし、ある程度の状況証拠や推論で話を進めていくしかないわけで、そうした証言を読み込むだけでも大仕事だし、それらを捌いていく手際のよさも当然のように求められる。その意味ではすでにして労作だ。

現存していないキティオンのゼノン(前3世紀、ストア派の創始者とされる)の『国家』という著書では、知者たちから成るポリス(複数)が理想として掲げられ、その理想論は、知者同士は友愛によって結ばれ、婚姻制度や親子の扶養なども否定されるというラディカルなものだったという。ゼノンの孫弟子にあたるクリュシッポスともなると、この理想的ポリスは全宇宙的に拡大され、神々(元素など世界を構築するものすべてをそれに含めて)と人間(知者)の双方から成るポリス(単数)が夢想されていた、という。ここに、表題にあるようなコスモポリタニズムの端緒が見いだせるのではないか、というのが同書の賭金だ。初期ストア派のこれら二人の重鎮は、とみに現実の社会をラディカルに批判していたという。

では、知者のコミュニティからこぼれ落ちる知者以外の人間はどういう扱いになるのか、という疑問が残る。これについては、少なくともクリュシッポスはあらゆる人間に知者になる潜在性を認め、知者のコミュニティが開かれたものであることを主張しているという。それでも現実問題としてそうならない人間はどうなるのか。ゼノンはもっとあからさまな排除を意識していたのではないのか、などの疑問は残る。そのあたりは不鮮明なままなのだが、この問いは中後期のストア派(前1世紀ごろから帝政ローマ期)に現実的な問題として取り上げ直されるようだ。ただしそのころには、すでにしてラディカルなポリスの理想はより現実的な伝統重視の考え方となり(保守化といってもよい?)、婚姻や親子関係なども否定されず、むしろ自然本性に合致したものと見なされるようになり、コミュニティには見知らぬ異邦人なども包括されるようになり(ローマの属州が増えたことによる認識の変化だろうと著者は推測している)、知者以外の人間という問題自体がどこか雲散霧消しているかのようだ。逆にそれは、近代的な意味でのコスモポリタンの概念に重なっていくようにも思われる。同書の著者によると、ストア派全般のコスモポリタニズムは近代のものに対して、自然学的な普遍的原理(タイプ)に訴えて現実世界(トークン)に対応するというスタンス上の違いがあるというが、世界的に民族主義が台頭してきた昨今の政治状況の中で、ストア派的なものになんらかの批判力を持たせることができるか、もし持ちうるならどのようにストア派的なものを復権させることができるか、というあたりの問いが、とても気になるところだ。

テオフラストスの植物原因論

Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection Des Universités De France)

『植物誌』を少し後回しにして、テオフラストス『植物原因論』の冒頭を、Les Belles Lettres刊の希仏対訳版(Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection des universités de France), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2012)で読んでいる。対訳版第一分冊の前半にあたる第1巻をとりあえず読了。『植物誌』は形状や特徴の分類・体系化が主なトピックなのに対して、こちらは少なくとも第1巻に関する限り、茎、根、花、葉、果実といったそれぞれの部分について、発生論的な議論を中心とした観察の数々が提示される。当然ながら植物の種類によっても同一部分は様々に異なっているわけで、記述は事例の併記のようになっていかざるをえない。たとえば実がなるはずの木に実がならないとき、どのような原因で阻害されているのかを特定するのは難しいところ。発芽と結実の起源だけでも一筋縄ではいかない。植物そのものの属性や、環境要因が指摘されたりもする。若い木は二次的な発芽が盛んだが結実は少ないが、それらには湿地の木々と同様に水分が多いという特徴が指摘される。一方で実をなす木、若くない木はそれなりに乾いていると指摘される。さらにまた季節の要因、寒暖なども絡み、実際にどの木がいつどのように実をつけるかはきわめて多岐にわたる……。

しかしながら、たとえそうした多様性に手こずりながらも、テオフラストスの基本姿勢は、アリストテレスの学派の継承者らしくというべきか、自然への信頼という点で一貫して揺るがないように見える。テオフラストスもまた、自然はその「最善へと向かう傾向がある」(ἀεὶ πρὸς τὸ βέλτιστον ὁρμᾷ)としているが、さらに続けて、人が手を加えること(θεραπεία)もその傾向に従うと記されていたりする。こうした人的介入についての楽観的・性善説的なスタンスは、すでにして随所に散見される。栽培や農法については3巻から4巻で扱うらしいが、まずは続く2巻が気候などの要因をさらに詳しく取り上げているようなので、そちらに取りかかろうと考えている。

テオフラストス『植物誌』を見始める

Recherches Sur Les Plantes: Livres I - II (Collection Des Universites De France Serie Grecque)これまた夏読書的に読み始めているテオフラストス『植物誌』(περὶ φυτῶν ίστοριάς)(Théophraste, Recherches sur les plantes: Livres I – II (Collection des universités de France série grecque), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2003)。とはいえまだ第一書を終えただけ。この第一書は植物ごとの「違い」を、それぞれの部位(茎、枝、葉、根、花など)ごとに示そうとするもので、どこか眩暈を感じさせるほどに植物の多様性が浮かび上がる。というか、テオフラストス自身、どこかその広範な差異を前に呆然としながらも、するどい観察眼でもってなんとか分類を果たそうと苦闘する姿を想像させる。『植物誌』は全部で九書から成るもので、第一書はそうした各部の差異と全体的なメソッドなどを示している。第二書は栽培された植物、第三書は野生の植物、とくに木々を取り上げ、第四書では環境と植物という話が展開する。第五書は木々の本質や伐採時期、利用方法など、第六書は低木など、第七書と第八書はとくに草の類を取り扱う。第九書はちょっと違っていて、植物の医学的利用法といった話になっている模様だ(以上は底本としている上の希仏対訳本の解説序文から)。テオフラストスにはもう一つ『植物原因論』もあり、機能論らしい(?)そちらもそのうち見ていこうと思っているが、さしあたり、まずはこちらの第二書に入っていく予定。

ストア派と「連続性」

前回挙げたネフの著書では、コネクションの問題を前景化(ライプニッツの前に)した嚆矢としてストア派が挙げられている。唯物論的でホーリズム的だと評されるストア派のコスモロジーでは、物体や物質は一続きになっており、それぞれの間に無はなく、プネウマがそこをしっかりと埋めている。そしてそのプネウマこそが、世界の整合性をもたらしているとされる。それはまた、物体の一体性を担う特性・傾向(ディスポジション)ともパラレルであるとされ、こうしてある種の混成・混在・接続でもって世界観が織りなされている、と。

Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library)こうした連続性、一続きの発想は、諸概念にも適用されていることがわかる。プルタルコスの『モラリア』の一部をなす対話篇『ストア派に対する、共通概念について』(Loeb版:Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library))は、主に倫理学的な問題、ストア派における善と悪の問題などを扱い、矛盾などを指摘しながら批判していくという一篇なのだけれど、逆にそこからストア派の考え方の一端が浮かび上がる。プルタルコスは、ストア派が自然本性にもとづく生を目標としながら、自然における諸力に従って右往左往するのは愚かしいとしていることなどを矛盾として取り上げるが、ストア派側からすれば、目標にそった生き方そのものもまた、それに至る前の愚かしいとされる生き方と一続きなのであり、悪から善へのいわば連続的・漸進的な差異があるだけで、それを知覚するかどうかもまた、連続的に移り変わるだけだということのように思われる。絶対的な悪はともかく、多少の悪は程度の差こそあれ人の生について回るほかないとされ、それらは善への志向と表裏一体であるとされる。こうした考え方は他の諸概念にも敷衍されていく(在・非在など)。

そんなわけで、以前に見たレクトンの概念もそうだが、このストア派の哲学には今なお、多少とも形を変えて新しい息吹(プネウマだ)を吹き込む余地がありそうに思われる。

プルタルコスによるストア派批判

Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library)プルタルコスの『モラリア』から「ストア派の矛盾について」をLoeb版(Moralia, Volume XIII: Part 2: Stoic Essays (Loeb Classical Library), tra. H. Cherniss, Harvard Univ. Press, 1976)で読んでいるが、そろそろ終盤に差し掛かってきた。というわけで、雑感メモ。ここでのプルタルコスは、クリュシッポスを中心にストア派が時として相矛盾するテーゼを示しているということを、テーマ別に、彼らの著書(現存してはいない)の随所からの引用同士を突き合わせて細かく指摘していく。その指摘は容赦なく、また細部を穿つ感じもあって、ある意味意地の悪いアプローチなのだけれど、逆にそれによって、限られたものではあっても、わたしたちは失われた著作の一端が伺い知れるという利点をもなしている。また現代的になら、矛盾する記述同士をどう整理して理解するかという観点からアプローチするところだが、プルタルコス(アカデメイア派に属している)はあくまでそれらを論難することに始終する。解釈によっては、もしかしたらプルタルコスとは別様の理解、別様の結論も導けるのかもしれないが、とにかく現存するコーパスが少ないという問題は残る……。テーマは倫理学が中心で、よりよき生、善悪のエティカ、悪の認識、快不快の問題、レトリックなどと進んでいき、そこから神学的・自然学的な議論に入っていく。

批判の例として胚の魂の生成にまつわる議論を上げておこう。クリュシッポスは子宮の中の胚を、植物と同じように自然によってもたらされたものと見、誕生の際にその火のような精気(プネウマ)が空気によって冷やされて魂となる、と考える。プルタルコスの指摘によれば、クリュシッポスはある箇所では生命の起源を火と見ながらも、また別の箇所ではその冷却をその起源と見ているという。ここにすでに自己矛盾がある、というわけだ。また、胚においてプネウマが冷やされ弱まって魂になるとなれば、魂は身体よりも新しいということになる。魂に備わる性格や傾向は、親に似るとされるのだが、するとそれは誕生時以降に備わることになってしまうし、また、親との類似性が身体の物質的な混成によって生じるとするなら、魂が発生した後に変化するということにもなる。アカデメイア派からすれば、それは到底ありえない話になってしまう。