「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

現在という謎(そして時間という謎)

森田邦久編『<現在>という謎――時間の空間化批判』(勁草書房、2019)を読み始める。このところ個人的に見たいくつかの書で、時間をめぐる解釈が取り上げられていたこともあって、よく言われる科学者と哲学者の認識の隔たりというのを、もう少し見ておきたいと思ったからだが、最初の章からまさにそれが鮮明に浮かび上がっている。

物理学者からすると、相対性理論と量子力学をもとに、「現在」という時刻はあくまで「座標系に依存した便宜的概念」にすぎないとされる。物理学的には、未来に計測を行って初めて確定するような過去の出来事というものもあるといい、さらに絶対的な同時性といった概念も措定できないという。相対論からは、たとえば単に高低差があるような場所でも、地球の自転によって、時間の流れにすでにして差ができる。したがって、異なる場所の二人の人物に、絶対的な同時性はありえないということになる、と。

一方、哲学の側は「現に存在する」という感覚をもとに、「存在するイコール現在である」という定式を出したりもする。けれども物理学の側からは、そうした「いまある感」が、「いま見ているあなたが物体に投影している「いま」」にすぎないと指摘されている。要するに、主観的現在にせよ、個々のそうした主観的現在が同時であるはずだとする絶対的同時性にせよ、ある種の信念でしかなく、実在するものではないのだ、と。

なるほど哲学の側は分が悪そうに見える。けれども、たとえばかつてのストア派などにおいては、時間の措定が仮のものでしかないといった議論に及んでいた可能性もあるようにも見える。再びプルタルコスの対話篇を見ておくと、登場人物たちの話から察するに、ストア派の人々は、現在が過去と未来に挟まれた境界線上の一点をなすといくら仮構したところで、それはある程度の厚みをもった時間幅でしかなく、現実的なものとはいえないと考えていたように思われる。現実的には「いま」というものは実在せず、人が「いま」と想像するものは、未来と過去とに同時に属していると見るのがよい、とストア派は言う(『モラリア』第72論文、41章)。さらにそこからの帰結として、同時に生じたとされる出来事は、その出来事以前と、その出来事以後から成るとされる。すると厳密な同時性というのはありえないことになる(ように思われる)。さらにその帰結として、結局は「時間」というものが全体として廃絶されることにもなるのではないか、と。

対話篇の登場人物は、当然ながらこれが一般通念に反するとして批判しているわけだけれども、ストア派のそうした議論は、現代的な物理学のスタンスと奇妙にも響き合い、通底しているかのようで、アナクロニズムではあるけれども、そのあたりがなんとも興味深い。

個体化論は哲学を書き換えうるか

一昨年刊行されていたジルベール・シモンドン『個体化の哲学--形相と情報の概念を手がかりに』(藤井千佳世監訳、近藤和敬ほか訳、法政大学出版局、2018)。シモンドンのこの書(もとは1958年の博士論文)、内容的には大きく前半と後半に分かれ、前半では技術的事象の個体化、後半は有機的事象の個体化を扱っている。かなり以前に、前半と後半の一部(生命論のあたり)を原書のほうで読んだことがあったが、諸般の事情で後半の残り部分は放ってしまっていた。そんなわけで、ようやくその心理的事象を扱った部分(事実上の第3部か)を、この邦訳で見てみることにした。この書そのものは、個体が発生してくる力動的な位相に着目し、そのプロセスを一元論的に捉え、それを足場として従来の哲学的な諸概念の書き換えを目するという、実に壮大な可能性を感じさせる一篇だ。それだけに全体を通じて晦渋であり、すんなりといかない。邦訳でも同じことだが、そこを少し我慢して読み進めると、刺激的な世界が広がっているのがわかる。というか、その重要性が色あせていないことを改めて思う。

ここでの個体化とは、生成、発生、展開などを含む抽象概念で、不安定な環境から個体が、その不安定さを解消するために「せり上がってくる」(自己構成する)こと、個体のいわば一般的な前景化を言う。個体が発生することによって、個体を取り巻く環境とその個体そのものには、個体発生前の状態(前個体)と、個体発生後の不安定・不完全な状態(超個体)が生まれ、そのような分化によって「意味作用」が生じる。構成された個体(人間の場合)には、結果として個体内部から環境を眺める位相、すなわち「主体」ももたらされる。個体化に次いで今度は個体の内部で「個性化」が永続的に繰り返される。個体化と個性化の永続性の一貫性を担うものとして「人格」も成立する(第二部二章「心理的個体化」より)。

シモンドンが提唱するこの抽象的な図式をもとに様々な問題を捉え返すと、従来の考え方では不十分だという点が多々出てくることにもなる。個体化論は発生的な面を捉える真の一元論に位置づけられることから、翻って、たとえば心身二元論への抜本的な批判がありうる(ベルクソン哲学への批判)。唯物論的な一元論、唯心論的な一元論すら、実際には非対称的な二元論にすぎないとして一蹴される。また、個体発生は認識論やそれにともなう存在論に先立つとされ、むしろ個体の存在についての考察こそが、認識論に先立つものでなくてはならないということにもなる(デカルト哲学への批判)。集団論(社会論)もしかり。集団は諸個人が信念や神話を共有することによって成立するのではないとされる。信念は「グループの分離や変質の現象」(p.494)でしかなく、実在しておらず、同様に、集団を支えるとされる神話や臆見も、実は「グループの個体化の操作が力動的かつ構造的に延長したもの」(同)にすぎない。そもそもグループ自体が二次的な個体化にすぎず、個別の諸個体を重ねたものでしかなく、その意味でグループに属さない孤立した個体も、必ずしも不完全なものとは見なされない(否定されない)。「人間は社会的動物」というテーゼに、これはある意味真っ向から対立する(アリストテレス哲学への批判)。

同じように、自然が人間に対立するという考え方も否定される。自然はむしろ存在の最初の位相であるとされ、個体と環境の対立は二次的な位相だという(p.504)。自然は全体に対する個体の相補物、個体が不完全さを克服するために必要とする残余、個体を超え出るものだ。時間論も個体化の理論に立脚すると別様の図式になる。現在こそが過去との未来のあいだの転導をなし、過去と未来に対する意味作用をなす、と。言語についてもしかり。言語が人間に意味作用の獲得を可能にすると述べては不十分だ、と断じられる。言語を支えるための意味作用が先行して初めて、言語がありえるのだ、と。言語は情報を運ぶものにすぎず、意味作用は個体化がもたらすそのものである、と。情動もしかり。情動は個体化された存在の構造のうちにはなく、「集団的なものの個体化において意味作用として発見されるポテンシャル」(p.520)なのだ、と。

……このように、シモンドンは実に広範な議論の書き換えを提唱する。個別の議論はほとんどメモ書きのようでもあり、読む側がそれぞれ深めていくしかないように思われるが、いずれにしても新しい刺激的な(当時も今も)哲学的視座がここにはヒントとして示されているといってよい。それはまさにプロセス実在論と呼んでよいものだろう。

経験知・暗黙知と理想化

思うところあって、ハロルド・ギャティ『自然は導く』(岩崎晋也訳、みすず書房、2019)をざっと読んでみた。自然のただ中で迷った際に、様々な事象がナビゲーションのヒントをもたらしうるということを、具体的な事例で解説してみせた古典。最初の数章が概論で、残りはテーマ別に具体的な事例(やや散漫な感じもしないでもないのだが)を挙げていく。ポイントは、訓練を積むことで観察眼を養い、ナビゲーションに役立つ自然からの情報を目ざとく取得できるようになるということ。経験知がものを言う分野なのだが、おそらくそうした訓練も、どこか暗黙的な経験の積み重ねによるものと思われる。親世代の田舎の老人たち(今80代くらいの人々)には、ローカルとはいえ、山菜やキノコ狩りのために道もないような山に入って迷わず戻ってこれる経験知が少なからずあった気がするが、同書で記されていることのなにがしかの部分が実践されていたのかもしれない、なんて思ったりするのは楽しい。

ただ、そのような暗黙知のような経験知を、本のようなかたちで書き出してしまうと、何か微妙な違和感を感じたりもする。多少とも抽象化されていて実物からはかけ離れてしまうカラーの植物図鑑の絵のように、それを実地の見分に応用するには、こちらの想像力で補うしかないかのようだ。長らく忘れていた、そうしたギャップを、久々にまざまざと思い起こすことになったが、それこそが同書を今読む大きな利点かもしれない。

少し前から断続的に読んでいる桑木野幸司『記憶術全史――ムネモシュネの饗宴(講談社選書メチエ)』(講談社、2018)も、同じような感触を喚起するものかもしれない。記憶術の基本として、基本的には場所(ロクス)や格子のような「入れ物」を思い描いて、それに記憶する対象をはめ込んでいく、などと言われる。伝統的にもそういう記述がなされてきたし、曖昧ながらそれはそれで納得できる部分もある。けれども優れた記憶をもつ人が実際に行っている心的操作というものは、具体的な方法を問われて語っているそうした形象ほど、明確なロクスなり格子なりの入れ物を形作っているのかどうかは定かでない。記述というものは、どこか理想化され抽象化されたものである可能性が、どこまでも残るものなのかもしれない。史的な記憶術の記述も、どこかそうした根本的な語りの作為性のようなものを引きずっている気がする。もちろん個別の記憶術の書は、この研究書が示すように、それ自体として興味深い図像学的対象でもあるだろうし、そこから分類法とか、百科全書的な方向、博物学の方向へと開かれる伝統をなしてきたのだとしても。同書が取り上げる図版の数々にしても、多くはある種の理想化を施したものではないのか、庭園の図などが実際の庭園をそのまま描いているのではないのではないか、といった疑問も浮かんでくる。当時の図版がどれほどの理想化を施したものなのか、査定するすべはあるのだろうか?

とはいうものの、それとは別の意味で同書もまた貴重ではある。つまり、16、17世紀の記憶術本の概要をいくつか載せている点だ。ロッセッリ『人工記憶の宝庫』、デル・リッチョ『記憶術』などなど。重要文献であっても翻訳出版など望むべくもないものを、概略的にではあっても伝える労苦は称えられてしかるべきで、一般向けの人文書は、まさにそういうところで命脈を保っていく使命があるようにも思う昨今である。

写経は難しい

Generative Design with p5.js - [p5.js版ジェネラティブデザイン] ―ウェブでのクリエイティブ・コーディングProcessingの姉妹編というか、派生形のp5.jsでもスクリプトを書いてみたりしているが、練習のためのコードの書き写し(俗にプログラミング界隈で「写経」と称される)で、こんなに書き間違うものかと思うくらいミスが出る(苦笑)。参考書としては、邦語のp5.js本としては現在事実上一択のGenerative Design with p5.js – [p5.js版ジェネラティブデザイン] ―ウェブでのクリエイティブ・コーディング』(ベネディクト・グロスほか著、深津貴之訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2018)を使っているのだけれど、これはプログラムで描かれる図柄がなかなかに美しい秀逸な本。とはいえダウンロードできるソースコードを見ると、章を追うごとに複雑になるのは当然として、徐々にどこか力業っぽくコードをぶん回す感じになってくる。そのため写経するのは苦行をともなうようになる。単なるスペルミスのほか、細かいところの理解不足によるミスなども頻発するが、ミスを誘発しやすい要因の一つに、長すぎる変数名その他が反復されるという点もありそうだ。そりゃコードを読むだけならそれほど問題にならないだろうし、日常語的な長い変数名は可読性という点でわかりやすくなるのだろうけれど、打ち込むとなると途端に苦行と化す(笑)。分野は違うとはいえ、写字生の苦労が偲ばれるのは確かだ。一方で、文字や画像を基本単位(ピクセルとか)にまで分割して再構成するという基本的な発想(アリストテレス的だ)は大いに参考になるところではある。

書き換えられた聖書 (ちくま学芸文庫)そうした書き写しのミスの話にも関連するが、このところ見ていたのがバート・D・アーマン『書き換えられた聖書 (ちくま学芸文庫)』(松田和也訳、筑摩書房、2019)。これ、文庫化の元となった単行本『捏造された聖書』も購入したように思われるのだが、どこかに積まれて発見されず、文庫も改めて買いなおしたもの。個人的にはルネサンス以降の新約聖書を扱った3章以降が参考になる。聖書の「改ざん」の具体的な事例を挙げているあたりも、身につまされる話だったりもする。

紹介されている各種の逸話も興味深い。個人的にとりわけ印象に残ったのがエラスムス。西欧初の印刷版のギリシア語聖書は、スペインの枢機卿ヒメネスが発案した『コンプルトゥム版多国語対照聖書』になるはずだったが、その刊行の計画を知っていたエラスムスが、それに先んじて、ちゃっかり初の印刷版ギリシア語新約聖書を刊行してしまうというのだ。かなり急いだ雑な仕事だったようで、わずか一冊の写本に依拠していただけだというから驚く。そうまでして初の印刷本という誉れをかっさらってしまうあたり、エラスムスの人間臭さというか俗なところがかなり前面に出ているかのようで、そういう面からのエラスムス像というのは新鮮な気がする。

文化遺産のゆくえ

遺産の概念 (叢書・ウニベルシタス)引き続き夏休み読書。これも最近出たばかりの本だが、J.P.バブロン、A.シャステル『遺産の概念 (叢書・ウニベルシタス)』(中津海裕子、湯浅茉衣訳、法政大学出版局、2019)をざっと通読。ここでの「遺産」は文化遺産のこと。原書は1994年刊だが、文化遺産をどうするかといった問題そのものは、つねにアクチャルな問いではある。内容的には、キリスト教中世から近世を経て近代までの、フランスにおける文化遺産をめぐる象徴史、というところか。訳文はやや硬め。文化遺産という概念そのものはまだ比較的新しいものだが、もともとそれは古来からの宗教的財産(聖遺物や礼拝堂など)という考え方の遠い残響に相当する。古代末期から中世以降、世俗の権力が影響力を増すと、そうした財産の考え方は教会の枠を超えて、王族の財産(レガリアこと聖別・戴冠式の道具、図書館、古代遺跡・城など)に影響を及ぼすようになる。さらに後には、財産保全の意識は貴族階級全般へと拡大されて、土地(さらには城館)などが重要度を増していく。ブルジョワジーにいたっては経済的価値のみが重視され、モダニストは容赦なく遺産の転覆を担うことにもなる……。

近代国家もそうした流れを踏襲する一方で、記念建造物、芸術作品などの保護が重視されるようになる(同書にはないが、国家的なもののある種の系統関係を維持するという目的からして、それは象徴的世襲と言ってもよいかもしれない)。とはいえ、国土整備とのかね合いもあり、何を修復・保存するかは恣意的な判断に委ねられてきた。中央集権的な行政の整備、および教育的普及にともなって、結果的に恣意的な「目録」が強化され、次第に地方文化への愛着が薄れていく(なるほどこのことは、先のパリのノートルダム大聖堂火災の後に見られた寄付の騒動などでも顕著だった)。最後の章の冒頭では、フランスの文化行政と対照的なものとして、日本の文化遺産への取り組み方が、やや理想化された解釈(ロラン・バルト的な)のもとで取り上げられている。寺院などを新しい建材で定期的に建て替えていくというメンテナンスの方法が、傷ついた古い建築物などを置き換えないままに保持しようとしてきた西欧の姿勢と対比されているのだ。けれどももちろん日本にも、景観の均一化、早すぎる再建・解体のサイクル、近代以降の記念建造物へのリスペクトの低さなど、様々な問題があることも事実であり、刷新や再建の問題はそんなに容易ではないことを改めて思わせる。