「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

OOOによるANT批判

非唯物論: オブジェクトと社会理論ラトゥールのANT入門本もまだ終わっていないうちに、ANTに批判的なハーマンのOOO入門本をざっと読了(笑)。OOOとは対象(オブジェクト)指向存在論の略称。グレアム・ハーマン『非唯物論: オブジェクトと社会理論』(上野俊哉訳、河出書房新社、2019)。全体をざっくりまとめるならば、早い話、次のような構図になる。ANTがフラットな世界観を示し、モノに構成や要素への分解(掘り下げ)を与えることはなく、ただその連関を詳述するのみ(「彫り上げ」)の立場を取るのに対し、ハーマンはもっと起伏のある世界観、突出した事象(他の事象との「共生」がもたらす)をかたちづくる対象の哲学を対置し、なんらかの説明の付与を擁護してみせる(掘り下げと彫り上げを合わせた「掘り重ね」)。モノだけがあるのではない、という意味で、それは「非唯物論」とも称せられる。

けれどもどちらの立場も、事象の扱い方について疑問がないわけでもない。同書でハーマンは、オランダの東インド会社という歴史的事象を対象として、ケーススタディ的にその変容について語り、ANTとの違いやOOOの立論的スタンスを際立たせようとする。けれども、これにしてもとりたてて興味深い記述でもない気がするのはなぜなのだろう……?対象は特異点をなしているのであって、行為者が行為に及ぶ際に構成的に作られるのではない、というのは確かにその通りかもしれないし、関係性に先立って対象はあるのだ、というのも納得いく。またすべてを行為者(アクター)と見なすわけにもいかない、という点にも違和感はない。けれども、共生によって事象がせり上がってくるような瞬間についての記述は、どこか不可思議なはぐらかし感のようなものを伴うことも少なくない……気がする。

巻末の訳者解説では、ハーマンの概念体系の底流としてオルテガの隠喩論が示唆されている。対象に出会うときの自己は、対象とその周囲に広がっているという議論だ。さらにまた、マルブランシュの機会原因論もあるという。現象や因果関係はすべて、ある超越的なもの(マルブランシュでは神)の展開によるとするその議論を、ハーマンは換骨奪胎して、世俗的で神を伴わない、モノたちの感覚と性質を通じて無限の代替作用が生じるという新たな機会原因論を作り上げているという話。なるほどマルブランシュか。そちらのほうにも少し手を広げてみていくことにしようか……。

逆ベイズ推論とは?

ベルクソン『物質と記憶』を解剖する ―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続少し前から眼を通していた論集ベルクソン『物質と記憶』を解剖する ―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』(平井靖史、藤田尚志、安孫子信編、書肆心水、2016)。ベルクソンの『物質と記憶』がもつ現代的射程を再検討しようという主旨の論集。ベルクソンはあまり読み込んではいないので、この論集についても評価できる立場にはないのだけれど、研究領域としての面白さは感じ取れる。たとえばギブソンのアフォーダンス理論とのオーバーラップなどのテーマは興味をかき立てるものではある。檜垣立哉「<コラム>アフォーダンスとベルクソン」では、ベルクソンが経験論者としての側面をもちながらも、あっさりと「荒唐無稽に近い議論」「途方もない形而上学」(p.156)へと越え出でてしまうことを、どこか好意的に受け止めている(ように見える)。「純粋記憶は生体の外にある」という一見絶句しそうな文言は、時間が分割できない連続体であるということを選択したことによって導かれる「ロジカルな帰結」(同)なのだという。前回のパルメニデスではないけれど、ベルクソン哲学もまた、選択・決意によって織りなされているということか……。

郡司ペギオ幸夫「知覚と記憶の接続・脱接続ーーデジャビュ・逆ベイズ推論」という論考と、それに続く三宅岳史「<コラム>ベイズ推論と逆ベイズ推論」も面白く読んだ。前者は、ベルクソンの知覚=記憶の構造をもとに、「ベイズ推論と逆ベイズ推論を接続した推論モデルが構想できる」(p.323)としている。逆ベイズ推論とは?どうやらそれはこういうことらしい。ベイズ推論では、条件付き(あるモデルに従った)の確率でもって初期の条件なしの確率を置き換えていく。逆ベイズ推論の場合には、条件なしの確率でもって条件付きの確率を置き換える操作を想定している。けれども、ベイズ推論がモデル固定で漸進的に進みうる(新たな条件での確率・確からしさを定めうる)のに対して、逆ベイズはモデルの変更・選択をともなうため、そのままでは進んでいかない。再帰性にまつわる困難がここに待ち構えている。ベルクソンの有名な円錐の図に重ねると、ベイズ推論が知覚から記憶、逆ベイズが記憶から知覚への運動となるようで、記憶から知覚への運動には知覚の選択・誘導が必要とされるということになる。ではAIで扱えるように、逆ベイズ推論を実装するにはどうすればよいのだろうか。これは見るからに難題だ。三宅氏のコラムは、その逆ベイズ推論におけるモデル選択の条件について問いを投げかけている。

通詞の現象学 – 5

ロドリゲス日本大文典の研究 (和泉選書)昨年は長崎通詞の言語観や、明治初期ごろの近代の翻訳についての議論を参照してみたが、今度は見方を変えて、16世紀に日本にやってきた宣教師の側からの言語認識の問題を見てみたいと思う。そのための手がかりとなっているのが、小鹿原敏夫『ロドリゲス日本大文典の研究 (和泉選書)』(和泉書院、2015)。16世紀末に来日したイエズス会司祭のジョアン・ロドリゲスが、1604年と1620年にそれぞれ著した日本語の文法書『日本大文典』と『日本小文典』について、同書はその文法項目の立て方や個別の文法問題などを中心に読み解こうとする労作。様々なトピックが扱われているが、今回はまず全体像を扱った第一章から、「主語」「主格」の話(ほかに大文典と小文典との文法記述の違いなどを扱っている)を扱った第二章までを眺めてみたところ。

まずロドリゲスは基本的に、ラテン語の文法書を参考に日本語の文法を説き起こしているという。その際に参照された当時のラテン文典として、アルヴァレス(ポルトガルの16世紀のイエズス会士)の文典と、ネブリハの文法書(15世紀末)があったと同書は述べている。そしてさらに、中世末期の思弁文法学というものが影響しているという。思弁文法学というのは、アリストテレス論理学にもとづいて文法学を解釈し直したもので、13世紀から14世紀中葉まで隆盛を極め、その後は唯名論の優位によって下火になった。けれどもその痕跡は、たとえば「主語(suppositum) – 述語(appositum)」という、もとは論理学の用語の導入などに残っているという。面白いのは、ロドリゲスのころには完全に下火だったにもかかわらず、彼がその「主語」概念を、伝統的ラテン文法の主格(nominatiuo)概念とやや混同しつつも(形式的主格と、意味的な主語との取り違え)、とりあえず用いていること。その意味でロドリゲスは、準拠していたアルヴァレスやネブリハの文典を逸脱してしまうわけなのだが、同論考ではそれを、ロドリゲスの思弁的文法学への理解不足、あるいは彼以前の宣教師たちからの影響でロドリゲスが思弁的文法学を持ち出しているだけでは、というふうに解釈してみせる。けれども、たとえばそうした逸脱を突きつける異質さが日本語にあったということなのではないか、といった設問も可能なのではないかと思う。そうしたアプローチを探っていけないかというのが、ここでの問題意識となる。もちろんすぐに深められるわけではないけれど、少しそのあたりを考えながら同書をゆっくり眺めていきたいと思う。

ラモン・リュイ

物語 カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡 (中公新書)空き時間読書として眺めているのが田中耕『物語 カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡 (中公新書)』(中央公論新社、2000)。独立をめぐる住民投票以来注目を浴びたカタルーニャだが、同書はそのはるか以前、中世のカタルーニャ史をドラマティックに語る良書。史実や伝説が様々に散りばめられ、細かな「演出」が施されており、なかなか読ませる。こういうのは語りがしっかりしていないと「痛い」記述になってしまったりもするが(そういう本も案外多い印象だが)、同書にはそういう感じはない。最初はジャウマ1世(ハイメ1世)から続く一族の歴史に焦点が当てられる。それに続くのがラモン・リュイ(ライムンドゥス・ルルス)の生涯だ。なるほどルルスは、ジャウマ1世および2世に仕えたのだったか。すっかり忘れていたが、イスラム教徒を改宗させるためにあえてアラビア語を学んだり、アフリカへ渡ったりと、やや破天荒ともいえる「行動する人物」でもあった。ルルスはまた、「カタルーニャ語の父」とも言われていたのだったっけ。同書では騎士道物語として執筆されたルルスの「小説」が紹介されている。ルルスは思想史的にはアルス・マグナ(記号操作のある種の先駆的メソッド)のほか、神秘主義者として知られていたりするが、どうも後世において実像とかけ離れたイメージが拡散していったようで(錬金術やオカルトなど)、そのあたりの伝播の過程には前から興味をもっていた。おそらく詳しい研究もなされているだろうと思うので、比較的近年のものを中心に、少し論考を探してみたい気もしているわけなのだが、なかなか時間が取れないでいる。今年の目標の一つ(毎年そう思っていたりもするが……)としておこう。カタルーニャの地域的な特殊性との関連というのも、案外面白いテーマかもしれない。

科学主義の陥穽

世界 2017年 12 月号 [雑誌]やっと少し復調。というわけで、最近読んだものから。とりあえず岩波『世界 2017年 12 月号 [雑誌]から二つの記事をメモ的に取り上げておく。どちらも科学技術と環境をめぐるもの。一つは大久保奈弥「珊瑚の異色は環境保全措置となり得ない」(pp.126-136)。珊瑚礁の破壊をに対する環境保全の切り札的に取り上げられることの多いサンゴの移植が、実は宣伝されているような成果を上げていないことや、それでもなお日本の行政の悪い癖で、産学一体となった利権構造ゆえに、始まってしまった事業への資金注入がやめられず、無駄金が次々と注ぎ込まれる結果になっていることを指摘している。技術でなんとかなるという妄信が、実証的な論拠もなく幅を利かすという、お馴染みとなった構図。伝える報道媒体の責任ももちろんある。そうした媒体に煽られて、素朴に自分も貢献したいという一般のダイバーらの心意気が、最初からくじかれている・裏切られているかもしれないという話。行政は金がらみだが、そこから一歩でも引くようなスタンスで問題を見据えることはできないものなのだろうか、と暗澹たる気分になる。

もう一つもある意味似たような話。小澤祥司「電気自動車が<解>なのか?」(pp.143-152)は、欧州が電気自動車に舵を切る中、日本のメーカーが産学官でぶち上げた「水素社会」に拘泥し、後追いのかたちを取らざるをえない状況を描いてみせる。そしてまた、電気自動車についても、固体電解質のバッテリー開発が進むことが前提となっており、それはいまだ不確定要素としてとどまっている、と。投企の読み違えを修正することができないことが、そこでもまた大きくのしかかってくるという、これまたごくありふれた構図の再燃だ。