「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

テオファニーの理論

相変わらずオリヴィエ・ブールノワの『イメージを超えて – 中世5世紀から16世紀の視覚の考古学』からメモ。3章、4章は神の顕現についてのまとめ。扱う時代は12世紀。ここにブールノワは、アウグスティヌスから枝分かれする二つの系譜を見て取る。一つはスコトゥス・エリウゲナで、これはプロクロスからディオニュシオス・アレオパギテス(の偽書)を経て連なる系譜。下位のものはなんらかの仲介物を経なければ上位のものを観想できない、というのがプロクロスの知性論にあり(クザーヌスが読んでいたという『パルメニデス注解』のほか、結構重要そうなのが『国家注解』)、それを受け継ぐ形でディオニュシオスは仲介物の遮蔽の面を強調するわけだけれども(『天上位階論』のほか、書簡が重要らしい)、エリウゲナはこれを仲介物のもう一つの面である共感・共有のほうへと大きくシフトさせ、聖書に記された象徴のみならず、被造物全体を象徴(仲介物)と捉えようとするのだという。まさに「世界は一つの本」という考え方の源流がここにあるというわけだ。

もう一つの系譜はアウグスティヌスを受け継ぐサン=ヴィクトルのフーゴー。アウグスティヌスが感覚的視覚とは別のものとの区分した知性的視覚という考えを継承し、フーゴーは仲介物を経ない直接知の理論を構築しようとする(ある意味、ディオニュシオスとも響き合う)。象徴とは別の道によって神に到達しようというわけで、神の顕現とは魂が光によって照らされることにほかならないと考える。このあたり(上の象徴論も含めて)、ほとんど現象学への入り口に立たされる思いがする。

余談だけれども、上のエリウゲナの話において、著者ブールノワはちらっとニュッサのグレゴリオスの「エペクタシス(ἐπέκτασις)」概念に触れている。延長・拡張を意味する言葉だけれど、グレゴリオスでは「神を直接見られないこと、限定された像を必要とすることが、かえって対象をいっそう知ろうとする欲望をかきたてる」ことなのだという(出典は『人間の始まりについて』とか)。これもまた、なんとも現象学的なテーマだ。ちょっとこのあたりも、もとのテキストに当たってみたいところ。

魔術批判者たち……

「ピカトリクス」関連ということで、エウジェニオ・ガレンの『生命の黄道帯 – 14世紀から16世紀の占星術論争』(Eugenio Garin, “Lo zodiaco della vita – la polemica sull’astrologia dal trecento al cinquecento”, Editori Laterza, 1976-2007)を読み始める。大御所ガレンの著書は、もはや古典の風格かも(笑)。まだ2章目までなのだけれど、これまでのところで目につくのは、占星術と魔術の結びつきについての批判者として取り上げられているイブン・ハルドゥーン。『ピカトリクス』についてもいろいろ書いているらしい。とりわけ、占星術と魔術の安易な混同・混淆を強い調子で批判しているのだという。先の『魔術的中世』もそうだったけれど、このまったく拒絶するでも迎合するでもない批判者たちの系譜というのはなかなか面白い気がする。理性の外にあるものをなんとか理性の支配圏へと引っ張ってこようとしているというか、あるいはまた領域を区分けすることで、踏み込まない聖域を確保しよとしているというか……。その裏にはもちろん自然学的・神学的な微妙な立場などもあるのだろうし。うーむ、いずれにしてもイブン・ハルドゥーンも読んでみたいリスト入りだ(笑)。

……それとは関係ないけれど、ガレンはピコ・デラ・ミランドラとの関連で、その一節を引用した後、「人間(ホモ)は、ファベルという点で、魔術への天性の適性があるように思えてくる」みたいなことを書いている。うーむ、「ファベル」にはもしかして、何かこう、場合によっては人知を越えたものなどにすら訴え、理屈がわからなくても使ってしまうみたいな意味合いすらも含まれていたりするのかしら、なんてことをふと思う。

「操作」の思想

ずいぶん久しぶりにスティグレール本を読む。『偶有からの哲学』(浅井幸夫訳、新評論)。新評論から『象徴の貧困』ほか数冊が出、主著『技術と時間』第一巻の邦訳も出たことは承知していたものの、どうも近年のスティグレール話は少し自分の関心とは違っていたこともあって(特に映画の援用とか)、邦訳にはあまり食指が伸びなかった。でもまあ、この『偶有……』はスティグレールのテーマ系がコンパクトにまとまっているという評判だったので、原書刊行時(2004)にもちょっと気にはなっていた。もとはラジオインタビュー。『技術と時間』第一巻の懐かしい話とかも出てくる(笑)。エピメテウス神話とルロワ=グーランの考古学的な知見から紡ぎ出される、人間の様態としての根本的欠如と、それを補綴するための諸機能の外在化(それが広義の技術ということになる)という問題領域。今読むと、欠如は前提ではなく外在化とともに成立するもので、エピメテウス神話はそのあたりのプロセスを実は隠すもの、という印象もあるのだけれど、ま、それはともかく。むしろスティグレールのそもそもの出発点がプラトン研究というところが興味深い。プラトンの「想起」を支えるものとして、人為的「記憶(ὑπόμνησις)に着目するなんていう解釈は、詳しい話を読んでみたいところ(『技術と時間』4巻がそれに当てられる予定、みたいな話が出ている)。技術論的な面でちょっと気になるのは、外在化や人為的記憶などのタームで語られる話において、操作の概念がさほど直接的には扱われていない印象を受けること。ヒトの世界との技術的な関わりとなれば、どうしても「操作」とはそもそも何かといったことは避けて通れないのでは、なんて。スティグレールが批判する「ハイパーインダストリアル」な社会も、過度の操作、操作対象の過度の拡大、操作の質的変貌などから見直せるような気もしたり……。

個人的な最近の関心から言うと、中世の魔術的思考なども、一方では普遍的で(「野生の思考」というか、ヒトがいつもやってきた側面をもつという意味で)、かつ他方ではかなり特殊な(時代的・文化的な文脈に依存したという意味で)「操作」の一様態と見ることもできる。そのあたりの関心から少しづつ異教的世界へのアプローチもしかけていきたいところだ。

技術論の地平……

読みかけというか、飛び飛びに読んでいる堀越宏一『ものと技術の弁証法』(岩波書店、2009)。物質生活や技術の視点から生活誌を描くという一冊。一言でいえば便覧のような本。総論的なスタンスでもって、中世の物質生活の全般を細かなディテールを交えながら記していくというスタイルなので、項目別に読むことができる(笑)。飛び飛びに、というのはそういう意味。なるほど技術について史学的にまとめるとすればこういう形になるのも納得できる。けれども、個人的にはその先にあるはずの各論のほうへと関心が向く。というか、関心を向かわせるような配慮の記述が目につくというか。たとえば先のジャンペル本でも出てきたシトー会の技術力の話。労働の組織化という点で、シトー会はとても興味深い対象。で、同書では、修道院経営のあり方などについて言及されていて、研究・調査の手引きよろしく、どういった史料が使えるのかも示唆されていたりする。

……と、そんなことを書いていて、この「ヨーロッパの中世」というシリーズ全体がそういう感じの編集方針なのか、と思いいたる(苦笑)。全8巻というこのシリーズ、いつの間にか全巻刊行は目前で、6巻の「声と文字」(タイトル的には面白そうだ)を残すのみとなっている。

バスティード研究本

基本的に地図とか図面とか見るのが好きなのだけれど、そういう意味でもこれはとても楽しい一冊。伊藤毅編『バスティード―フランス中世新都市と建築』(中央公論美術出版、2009)。雑誌大の大型本で、写真や図面などを多数収録した「見て楽しい」研究書。前半はバスティードの総体を多角的に論じる総論、後半は代表的なバスティード都市を個別に詳述する各論という感じ。バスティードというのは、13世紀ごろから作られ始められたという中世の新都市のことなんだとか。領主間契約の存在とか、広場を中心とした格子状の町並みとか、いろいろ定義はあるらしいが、その輪郭は意外にぼやけているのだという。ローマの都市に代わるようにして成立してきたというそれらの都市群に、同書は様々な視点からのアプローチをかけている。これはなかなか面白そうな研究領域だ。編者が序文で述べている「都市イデア論」的な視点からのアプローチというのに、個人的には大いに興味をそそられる。