「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

文化遺産のゆくえ

遺産の概念 (叢書・ウニベルシタス)引き続き夏休み読書。これも最近出たばかりの本だが、J.P.バブロン、A.シャステル『遺産の概念 (叢書・ウニベルシタス)』(中津海裕子、湯浅茉衣訳、法政大学出版局、2019)をざっと通読。ここでの「遺産」は文化遺産のこと。原書は1994年刊だが、文化遺産をどうするかといった問題そのものは、つねにアクチャルな問いではある。内容的には、キリスト教中世から近世を経て近代までの、フランスにおける文化遺産をめぐる象徴史、というところか。訳文はやや硬め。文化遺産という概念そのものはまだ比較的新しいものだが、もともとそれは古来からの宗教的財産(聖遺物や礼拝堂など)という考え方の遠い残響に相当する。古代末期から中世以降、世俗の権力が影響力を増すと、そうした財産の考え方は教会の枠を超えて、王族の財産(レガリアこと聖別・戴冠式の道具、図書館、古代遺跡・城など)に影響を及ぼすようになる。さらに後には、財産保全の意識は貴族階級全般へと拡大されて、土地(さらには城館)などが重要度を増していく。ブルジョワジーにいたっては経済的価値のみが重視され、モダニストは容赦なく遺産の転覆を担うことにもなる……。

近代国家もそうした流れを踏襲する一方で、記念建造物、芸術作品などの保護が重視されるようになる(同書にはないが、国家的なもののある種の系統関係を維持するという目的からして、それは象徴的世襲と言ってもよいかもしれない)。とはいえ、国土整備とのかね合いもあり、何を修復・保存するかは恣意的な判断に委ねられてきた。中央集権的な行政の整備、および教育的普及にともなって、結果的に恣意的な「目録」が強化され、次第に地方文化への愛着が薄れていく(なるほどこのことは、先のパリのノートルダム大聖堂火災の後に見られた寄付の騒動などでも顕著だった)。最後の章の冒頭では、フランスの文化行政と対照的なものとして、日本の文化遺産への取り組み方が、やや理想化された解釈(ロラン・バルト的な)のもとで取り上げられている。寺院などを新しい建材で定期的に建て替えていくというメンテナンスの方法が、傷ついた古い建築物などを置き換えないままに保持しようとしてきた西欧の姿勢と対比されているのだ。けれどももちろん日本にも、景観の均一化、早すぎる再建・解体のサイクル、近代以降の記念建造物へのリスペクトの低さなど、様々な問題があることも事実であり、刷新や再建の問題はそんなに容易ではないことを改めて思わせる。

行為からの図像論

あいかわらず趣味のProcessingでの演習も続けている。近頃はちょっと気の利いたデザインや動きのある模様などをみると、Processingで再現もしくは似たようなエフェクトを作るにはどうすればいいかと考えるようになった。だいたいこんな感じかと思って実際に打ち込んでみると、うまくいったりいかなかったりし、不首尾の場合はさらにあれこれ考えるわけだけれど、そうした試行錯誤がまたなんとも楽しい(笑)。

そんなこともあって、最近は図像への関心(絵画にとどまらず)がさらに高じてきており、関連する論考なども改めて読んでいきたいと思っている。というわけで、今回は手始めにこれ。ゴットフリート・ベーム『図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか (叢書・ウニベルシタス)』(塩川千夏、村井則夫訳、法政大学出版局、2017)。個人論集だが、個々の論考から浮かび上がるテーマとして、図像というものを行為(見せる行為、描く行為)の側から捉えようという姿勢に貫かれている。

図像の哲学: いかにイメージは意味をつくるか (叢書・ウニベルシタス)そもそも図像(イコン)は「人間の奥深くに根ざした欲求」(p.35)であると著者は述べ、さらに「不在という影をもたない図像は絶対に存在しない」(p.36)と指摘する。図像は物質的な基盤でもって別の何かを呈示するという点で、その別の何かがその場に根本的に不在であることが前提されている、ということ。そこから、地(物質的な支持材)に対して図(別の何か)がいかにして浮かび上がるのか、いかにして浮かび上げるのかが問題になる。こうして様々な図像の検証が始まる。ただしそれは一貫して、図像を成立させる行為の視点からの解釈学的な議論になる(この点で、史的な考察を読み込みたいと思っていると、多少フラストレーションがないわけでもない)。たとえば図像としての地図。それは地平線を必要としないことから、風景描写などとは「まったく別種の視覚体験にもとづいている」(p.83)というが、ここでは両者がいかに歴史的に成立したのかといった根本問題は問われない。むしろ両者が史的にいかに離れ、またときに接近しりしてきたのか(ダ・ヴィンチやエル・グレコ、そして現代アートの例など)を、著者はまとめていく。

それでも興味深いトピックはいくつもある。たとえば素描の問題。図像のいわば「始まり」でもある素描は、まさに地から図が浮かび上がる原初の風景だ。素描に刻まれる痕跡は「可視性が形成される過程をまるごと包み込んでいる」と著者はいう。その上で著者は、「地と図の相互作用の諸要素」(p.154)を探ろうと訴える。素描として刻まれる痕跡は、「形式ならざるものと多義的なものとが自ら可視的なものに変貌を遂げる」(p.164)プロセスだとされ、そこでは線がどう動いたかを示しながら、同時にそうした動きの前後関係で規定される時間性を出し抜いて、時間的な総合をももたらすとされる。平面として、そうした時間的な動きは一度にそこに晒される、ということだ。素描に示されるのはそうした総合をなす「平面の力学」なのだという。

ほかにも、図像における輪郭線のゆらぎの問題などもある。地に対する図というかたちで先鋭化するイコンは、一方で輪郭がぼやけることで非イコン化することができるし、実際に近代以降から現代アートまで、そうした例には枚挙にいとまがないほど。この非イコン化のプロセスの原因を、著者は「未規定性」と称し、近代絵画(印象派など)を例に、そこに図像を導く別様の力の可能性を見てとっている。そうした未規定性の潜在力は、ライプニッツの微小表象やポランニーの暗黙知にも重ねらられ、さらには「未規定なものとの関係を通じてこそ知覚が確立される」というフッサールの議論(p.224)が引き合いに出されている。こうした主題のそれぞれがさほど深められている印象はないけれど、いっそうの考察を促すという意味で、同書はまさに導入の書というにふさわしい。

OOOによるANT批判

非唯物論: オブジェクトと社会理論ラトゥールのANT入門本もまだ終わっていないうちに、ANTに批判的なハーマンのOOO入門本をざっと読了(笑)。OOOとは対象(オブジェクト)指向存在論の略称。グレアム・ハーマン『非唯物論: オブジェクトと社会理論』(上野俊哉訳、河出書房新社、2019)。全体をざっくりまとめるならば、早い話、次のような構図になる。ANTがフラットな世界観を示し、モノに構成や要素への分解(掘り下げ)を与えることはなく、ただその連関を詳述するのみ(「彫り上げ」)の立場を取るのに対し、ハーマンはもっと起伏のある世界観、突出した事象(他の事象との「共生」がもたらす)をかたちづくる対象の哲学を対置し、なんらかの説明の付与を擁護してみせる(掘り下げと彫り上げを合わせた「掘り重ね」)。モノだけがあるのではない、という意味で、それは「非唯物論」とも称せられる。

けれどもどちらの立場も、事象の扱い方について疑問がないわけでもない。同書でハーマンは、オランダの東インド会社という歴史的事象を対象として、ケーススタディ的にその変容について語り、ANTとの違いやOOOの立論的スタンスを際立たせようとする。けれども、これにしてもとりたてて興味深い記述でもない気がするのはなぜなのだろう……?対象は特異点をなしているのであって、行為者が行為に及ぶ際に構成的に作られるのではない、というのは確かにその通りかもしれないし、関係性に先立って対象はあるのだ、というのも納得いく。またすべてを行為者(アクター)と見なすわけにもいかない、という点にも違和感はない。けれども、共生によって事象がせり上がってくるような瞬間についての記述は、どこか不可思議なはぐらかし感のようなものを伴うことも少なくない……気がする。

巻末の訳者解説では、ハーマンの概念体系の底流としてオルテガの隠喩論が示唆されている。対象に出会うときの自己は、対象とその周囲に広がっているという議論だ。さらにまた、マルブランシュの機会原因論もあるという。現象や因果関係はすべて、ある超越的なもの(マルブランシュでは神)の展開によるとするその議論を、ハーマンは換骨奪胎して、世俗的で神を伴わない、モノたちの感覚と性質を通じて無限の代替作用が生じるという新たな機会原因論を作り上げているという話。なるほどマルブランシュか。そちらのほうにも少し手を広げてみていくことにしようか……。

逆ベイズ推論とは?

ベルクソン『物質と記憶』を解剖する ―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続少し前から眼を通していた論集ベルクソン『物質と記憶』を解剖する ―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』(平井靖史、藤田尚志、安孫子信編、書肆心水、2016)。ベルクソンの『物質と記憶』がもつ現代的射程を再検討しようという主旨の論集。ベルクソンはあまり読み込んではいないので、この論集についても評価できる立場にはないのだけれど、研究領域としての面白さは感じ取れる。たとえばギブソンのアフォーダンス理論とのオーバーラップなどのテーマは興味をかき立てるものではある。檜垣立哉「<コラム>アフォーダンスとベルクソン」では、ベルクソンが経験論者としての側面をもちながらも、あっさりと「荒唐無稽に近い議論」「途方もない形而上学」(p.156)へと越え出でてしまうことを、どこか好意的に受け止めている(ように見える)。「純粋記憶は生体の外にある」という一見絶句しそうな文言は、時間が分割できない連続体であるということを選択したことによって導かれる「ロジカルな帰結」(同)なのだという。前回のパルメニデスではないけれど、ベルクソン哲学もまた、選択・決意によって織りなされているということか……。

郡司ペギオ幸夫「知覚と記憶の接続・脱接続ーーデジャビュ・逆ベイズ推論」という論考と、それに続く三宅岳史「<コラム>ベイズ推論と逆ベイズ推論」も面白く読んだ。前者は、ベルクソンの知覚=記憶の構造をもとに、「ベイズ推論と逆ベイズ推論を接続した推論モデルが構想できる」(p.323)としている。逆ベイズ推論とは?どうやらそれはこういうことらしい。ベイズ推論では、条件付き(あるモデルに従った)の確率でもって初期の条件なしの確率を置き換えていく。逆ベイズ推論の場合には、条件なしの確率でもって条件付きの確率を置き換える操作を想定している。けれども、ベイズ推論がモデル固定で漸進的に進みうる(新たな条件での確率・確からしさを定めうる)のに対して、逆ベイズはモデルの変更・選択をともなうため、そのままでは進んでいかない。再帰性にまつわる困難がここに待ち構えている。ベルクソンの有名な円錐の図に重ねると、ベイズ推論が知覚から記憶、逆ベイズが記憶から知覚への運動となるようで、記憶から知覚への運動には知覚の選択・誘導が必要とされるということになる。ではAIで扱えるように、逆ベイズ推論を実装するにはどうすればよいのだろうか。これは見るからに難題だ。三宅氏のコラムは、その逆ベイズ推論におけるモデル選択の条件について問いを投げかけている。

通詞の現象学 – 5

ロドリゲス日本大文典の研究 (和泉選書)昨年は長崎通詞の言語観や、明治初期ごろの近代の翻訳についての議論を参照してみたが、今度は見方を変えて、16世紀に日本にやってきた宣教師の側からの言語認識の問題を見てみたいと思う。そのための手がかりとなっているのが、小鹿原敏夫『ロドリゲス日本大文典の研究 (和泉選書)』(和泉書院、2015)。16世紀末に来日したイエズス会司祭のジョアン・ロドリゲスが、1604年と1620年にそれぞれ著した日本語の文法書『日本大文典』と『日本小文典』について、同書はその文法項目の立て方や個別の文法問題などを中心に読み解こうとする労作。様々なトピックが扱われているが、今回はまず全体像を扱った第一章から、「主語」「主格」の話(ほかに大文典と小文典との文法記述の違いなどを扱っている)を扱った第二章までを眺めてみたところ。

まずロドリゲスは基本的に、ラテン語の文法書を参考に日本語の文法を説き起こしているという。その際に参照された当時のラテン文典として、アルヴァレス(ポルトガルの16世紀のイエズス会士)の文典と、ネブリハの文法書(15世紀末)があったと同書は述べている。そしてさらに、中世末期の思弁文法学というものが影響しているという。思弁文法学というのは、アリストテレス論理学にもとづいて文法学を解釈し直したもので、13世紀から14世紀中葉まで隆盛を極め、その後は唯名論の優位によって下火になった。けれどもその痕跡は、たとえば「主語(suppositum) – 述語(appositum)」という、もとは論理学の用語の導入などに残っているという。面白いのは、ロドリゲスのころには完全に下火だったにもかかわらず、彼がその「主語」概念を、伝統的ラテン文法の主格(nominatiuo)概念とやや混同しつつも(形式的主格と、意味的な主語との取り違え)、とりあえず用いていること。その意味でロドリゲスは、準拠していたアルヴァレスやネブリハの文典を逸脱してしまうわけなのだが、同論考ではそれを、ロドリゲスの思弁的文法学への理解不足、あるいは彼以前の宣教師たちからの影響でロドリゲスが思弁的文法学を持ち出しているだけでは、というふうに解釈してみせる。けれども、たとえばそうした逸脱を突きつける異質さが日本語にあったということなのではないか、といった設問も可能なのではないかと思う。そうしたアプローチを探っていけないかというのが、ここでの問題意識となる。もちろんすぐに深められるわけではないけれど、少しそのあたりを考えながら同書をゆっくり眺めていきたいと思う。