「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

劇場のイデア

記憶術関連で結構重要なジュリオ・カミッロ(16世紀)の『劇場のイデア』(足達薫訳、ありな書房)を読み始める。いやー、これを邦訳で読めるというのは素晴らしい。本文とともに、後半を占める訳者による解説もしくは論考も並行して読み進める。カミッロの生涯から始まって研究史、彼が構想した「記憶の劇場」の構造などを順にめぐっていくもの。古代や中世への参照はあまりないけれども(それがあれば論考だけで一冊になっていただろうけれど)、同時代的な連関や後世の評価などが一覧でき、とても参考になる。論考自体が、一種同時代への旅という風で興味深い。カミッロという人そのものがどこか毀誉褒貶相半ばする人物だったらしく、また実際に作られた(という証言があるというのだが)その「記憶の劇場」も、同じく評価が分かれるものだったようだ。著者が引いているツィケムスの証言によると、その劇場というのは「人はいつでもすぐにそこからあらゆる論題を引き出すことができるといいます」とされていたりして、古くはライムンドゥス・ルルスが用いた「円盤」と基本的発想は似ている感じがする。いわばルルスの円盤の図像版・立体版のようなもの?イエイツほかの再構成案というのがあるらしいけれど、実際どのようなものだったかは諸説あるらしい。

そういえば本文のほうでも、ライムンドゥス・ルルスは『遺書』(これって偽書だよね)が引かれている。「神はまずひとつのマテリア・プリマを創造し、それを三つに分割し、そのもっとも優れたっぶんで天使およびわれわれの霊魂を、その次に優れた部分で天界を、そして第三の部分でこの地上界を創造した」(p.25)。うーん、ルルスの『遺書』も確認してみないと。

産業革命は中世にあり

思うところあって、ジャン・ジャンペル『中世の産業革命』(Jean Gimpel, “La révolution industrielle du Moyen Age”, Points – Editoins de Seuil, 1975-2002)を読み始める。邦訳は残念ながらとっくに入手不可。復刊ドットコムにリクエストが出ているみたいだ。この著者の名前の表記も二転三転しているみたいで、ギャンペル、ジンペル、ジャンペル、ギンペルなどいろいろ(笑)。実際にどう読むのか知りたいところだけれど(仏版wikipediaのエントリとか見ると、有名な画商一家の末っ子とか)、とりあえずここでは仏語的な読み方でお茶を濁しておこう(苦笑)。まだ最初の三章のみ。最初の章は水車の歴史。水力利用という点でも注目できるほか、水車の設置・メンテナンス事業が労働と資本の分離の嚆矢になったなんて話もあって(14世紀)、なかなか読ませてくれる。地元住民の反対運動なども、水車をめぐって起きているという(同じく14世紀)。なかなかにして近代的でないの(笑)。人力に代わる機械化の導入・普及には、シトー会の組織力が大いに関与しているという話も。

第二章は鉱物資源の話。英国のウィンチェスター城とかウェストミンスター寺院などの建造に使われる石が、フランス北西部のカーンから切り出され運ばれていたなんて知らんかったなあ。冶金と農業革命の関係なども端的に整理されている。で、第三章はその農業革命ということで、馬の利用(馬具の改良がなされて可能になった)や三輪作の考案、羊毛産業、食料生産の内訳などの話が続く。羊毛の輸出や醸造酒の製造でシトー会が果たした役割も強調されている。総じて具体的でヴィヴィッドな描写が多くて読みやすい感じ。それにしてもやはり、目立っているのはシトー会の動きかしら。ウォルター・オブ・ヘンリーという農学関係の文書を数多く残した人物が何度も言及されているが、これなども興味を湧かせてくれる。

シンプリキオス

エピクテトスの『手引きの書』(ἑγχειρίδιον)へのシンプリキオスの注解書を一般向けに論じたイルセトロ&ピエール・アドの『古代における哲学の修得』(Ilsetraut & Pierre Hadot, “Apprendre à philosopher dans l’Antiquité”, livre de poche, Librairie Générale Française, 2004)を、だいぶ前に一度読んだシンプリキオス『エピクテトス「手引きの書」注解』の希仏対訳本(第一巻)( “Commentaire sur le Manuel d’Epictète”, tome I, trad. I. Hadot, Les Belles Lettres, 2003)を引っ張り出しながら、眺めているところ。これ、基本的に中庸の倫理をひたすら説いているような印象だけ妙に残っているのだけれど(笑)、今改めて見てみると、細かいところがいろいろ面白い。アド夫妻本が導きの糸になってくれているからかしら?

エピクテトスのもとの書は、弟子のアリアノスが師の講義を編纂した2つの書のうちの1つ。アドによれば、1世紀以降の教育形態は、それ以前の討論形式に代わり文書の説明が主になっていたとのことで、それに質疑応答(対話)が続くのが普通だったといい、アリアノスが編纂したのはその対話部分らしい。師の教えをおそらくは凝縮して伝えることが執筆目的だったのだろうという。で、時代がだいぶ下ってからのシンプリキオスの注解は、その執筆自体がすでにして一種の瞑想の修練だった可能性があるという。序文などは後期の新プラトン主義陣営の注解書の形式を踏襲しつつ、モラル的な面ではストア派と逍遙学派、プラトン主義のいわば折衷的なスタンスを取っているというわけで、うーん、なんだかそれは非物質界と物質界との「中庸」域をめぐる考察とでもいう感じ。実際、プラトン主義的には、エピクテトスの『手引きの書』は、非物質界の認識へと高まるための初級・中級段階(手引き書の内容もまた二部に分かれる)、ただし高みを目指すなら必須の課程という位置づけなのだという。なるほど、このあたりは漫然とテキストを見ていてもなかなか思い至らないところ(苦笑)。

リクールの記憶論……

昨日の続き。イザベル・ボシェの小著が最後に扱っているのがリクールの記憶論。リクールは記憶の帰属を三種類にわけて考えているというが(自分自身、近親者、他者)、この三分割の着想のもとにもアウグスティヌスがあったとされている。「精神(mens)」の内部に三位一体の像を求めていくというアウグスティヌスのそもそもの出発点が、リクールの記憶論にとっての出発点にもなっているという話。もちろんその後の展開は大きく異なる。アウグスティヌスは「記憶、知解、意志」の三分割にそのイメージを求めていくのであり、あくまで個人の魂を単体で考える。それに対しリクールの場合は、間主観性をも含んだ内省の面に三位一体のイメージを求めているのが独自なのだという。近親者に帰属する記憶というのは、要するに自己承認の記憶のこと(親や兄弟姉妹を通じて自己承認が得られる、と)。でそれは、個人の記憶(自分自身に帰属する)と、集団的記憶(他者に帰属する)の中間体であり、両者を架橋する媒体をなしているのだという。うーん、これはとても面白そうな議論だ。その自己承認の記憶という概念自体も、アウグスティヌスの『告白録』10巻から着想されているのだという。それはまた、記憶を支える「蓄えの忘却」というとても刺激的なテーマ(これも直接的にはベルグソンなどが着想源とされるけれど、間接的にアウグスティヌスの影響も考えられるという)へとも繋がっていたりもするらしい。こりゃ個人的にもリクールのテキストをちゃんと読まないと(苦笑)。

うーむ、それにしてもやはりアウグスティヌスは宝の山だなあ。三位一体のイメージの読み込みにしても、アウグスティヌスの三分割(記憶、知解、意志)は、リクールが記憶をさらに三分割してみせたように、分割されたそれぞれの項に、さらに入れ子状態に取り出すことができたりとかしないかしら……なんて(笑)。ま、それは単なる思いつきだけれど、さしあたりはリクールなどを通じて見たアウグスティヌス、という感じでもう少しこだわってみたいと思う。

異本の論理

……とりとめもなく。

昨日はテレビで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』をやっていた。ちょうど日経新聞夕刊の映画短評が劇場公開中の『破』を褒めていて(絵も演出も素晴らしいみたいに書いている)、いやー、なんだかとても時代の空気の変化を感じますねえ……。『序』のほうは、なにやら細部は違うみたいだけれど、基本的にはテレビ版に準じていて、個人的にはいまさらあまり高揚感もなかった(苦笑)。基本的には異本という感じでしかないのだけれど……。結局、異本を読む(広い意味で)というのは、異本群(単に原本だけでなく)にそれなりの思い入れのあるマニアないし研究者でもない限り、それほど高揚できる所業ではないわけで。一方、作り手サイド(二次的な作り手も含めて)はというと、これは完結した作業について必ずどこか改訂したいという思いを抱き続けるものだと思う(たぶん)。こうして作り手と受け手の間に微妙な温度差が広がっていく……のかしら?あるいはそれが対流をなしていくとか?

そういえば、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』は、中世において広く流布したテキストだとされるけれど、本人自身が何度かかなりの加筆を行っているというし、流布したテキストというのもかならずしもどれかの完全版ではなく、一種の抄録版みたいなものがむしろ出回っていたみたいな話だった。テキストの受容は、その全貌でもって受容されるわけではない、というある意味ありふれた話なのだけれど、そういう一般的な作品受容という観点からすると、今の時代の映像作品も、時代も場所も対象も違っているといういのに、大きな流れとしては同じような道をたどるということになってしまっているのが興味深い。受容のパターンはそれほど違っていない……これって作品と人の関わりという意味で、媒介学的に(?)とても面白い現象・問題かも。