「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

ラモン・リュイ

物語 カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡 (中公新書)空き時間読書として眺めているのが田中耕『物語 カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡 (中公新書)』(中央公論新社、2000)。独立をめぐる住民投票以来注目を浴びたカタルーニャだが、同書はそのはるか以前、中世のカタルーニャ史をドラマティックに語る良書。史実や伝説が様々に散りばめられ、細かな「演出」が施されており、なかなか読ませる。こういうのは語りがしっかりしていないと「痛い」記述になってしまったりもするが(そういう本も案外多い印象だが)、同書にはそういう感じはない。最初はジャウマ1世(ハイメ1世)から続く一族の歴史に焦点が当てられる。それに続くのがラモン・リュイ(ライムンドゥス・ルルス)の生涯だ。なるほどルルスは、ジャウマ1世および2世に仕えたのだったか。すっかり忘れていたが、イスラム教徒を改宗させるためにあえてアラビア語を学んだり、アフリカへ渡ったりと、やや破天荒ともいえる「行動する人物」でもあった。ルルスはまた、「カタルーニャ語の父」とも言われていたのだったっけ。同書では騎士道物語として執筆されたルルスの「小説」が紹介されている。ルルスは思想史的にはアルス・マグナ(記号操作のある種の先駆的メソッド)のほか、神秘主義者として知られていたりするが、どうも後世において実像とかけ離れたイメージが拡散していったようで(錬金術やオカルトなど)、そのあたりの伝播の過程には前から興味をもっていた。おそらく詳しい研究もなされているだろうと思うので、比較的近年のものを中心に、少し論考を探してみたい気もしているわけなのだが、なかなか時間が取れないでいる。今年の目標の一つ(毎年そう思っていたりもするが……)としておこう。カタルーニャの地域的な特殊性との関連というのも、案外面白いテーマかもしれない。

科学主義の陥穽

世界 2017年 12 月号 [雑誌]やっと少し復調。というわけで、最近読んだものから。とりあえず岩波『世界 2017年 12 月号 [雑誌]から二つの記事をメモ的に取り上げておく。どちらも科学技術と環境をめぐるもの。一つは大久保奈弥「珊瑚の異色は環境保全措置となり得ない」(pp.126-136)。珊瑚礁の破壊をに対する環境保全の切り札的に取り上げられることの多いサンゴの移植が、実は宣伝されているような成果を上げていないことや、それでもなお日本の行政の悪い癖で、産学一体となった利権構造ゆえに、始まってしまった事業への資金注入がやめられず、無駄金が次々と注ぎ込まれる結果になっていることを指摘している。技術でなんとかなるという妄信が、実証的な論拠もなく幅を利かすという、お馴染みとなった構図。伝える報道媒体の責任ももちろんある。そうした媒体に煽られて、素朴に自分も貢献したいという一般のダイバーらの心意気が、最初からくじかれている・裏切られているかもしれないという話。行政は金がらみだが、そこから一歩でも引くようなスタンスで問題を見据えることはできないものなのだろうか、と暗澹たる気分になる。

もう一つもある意味似たような話。小澤祥司「電気自動車が<解>なのか?」(pp.143-152)は、欧州が電気自動車に舵を切る中、日本のメーカーが産学官でぶち上げた「水素社会」に拘泥し、後追いのかたちを取らざるをえない状況を描いてみせる。そしてまた、電気自動車についても、固体電解質のバッテリー開発が進むことが前提となっており、それはいまだ不確定要素としてとどまっている、と。投企の読み違えを修正することができないことが、そこでもまた大きくのしかかってくるという、これまたごくありふれた構図の再燃だ。

物神を分離しないということ

近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」邦訳が出たラトゥールの『近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」』(荒金直人訳、以文社、2017)を読んでいるところ。原著は2009年刊。ラトゥールの名前を、従来のブルーノではなく、仏語風にブリュノにしたところに、激しく共感を覚えるが、それはともかく(笑)。まだ前半部の第一部を見ただけだけれども、同書が突きつける問題もきわめて明敏なもの。軸線をなしているのは三つの逸話だ。一つめは、ギニアの黒人たちがポルトガル人に訊かれて、自分たちが崇める偶像を自分たちが作ったと語りつつ、それが本物の神々であると述べるという話。ポルトガル人はここで、みずからの信仰(キリスト教)を顧みることもなく、黒人たちが矛盾していることをしたり顔で指摘する。だが黒人たちはその矛盾を理解できずただ沈黙するしかない。二つめは、パストゥールの逸話。パストゥールは新しい酵母を研究室で作り上げる。けれどもその報告においては、それが作られたものであるということを認めつつも、その酵母がきわめて<自然な>プロセスでもって発酵をなすことを高らかにうたいあげるのだ。構成主義から実在論へと、矛盾を感じることもなくただシフトしていく。ここには、先の黒人たちとパラレルな思考の構えがあるのではないか、とラトゥールは問う。

しかもそれは、人間にとってなくてはならない構えかもしれない、と。そのことを示すのが、三つめの逸話。これはフィクションなのだが(インドの小説)、描かれている人間像はきわめてリアルではある。カーストの高い位に属する啓蒙家が、偶像になんの力もないことを示そうと、不可触民たちに物神となっている石を触らせようとする。だがその不可触民たちは恐れおののき、頑なにそれを拒む。啓蒙家は次第にわれを忘れ、激高し、人間性を失っていく……。ここから、黒人たちやパストゥールに見られる矛盾は、それを矛盾として示したからといって廃絶されるようなものではないことがわかるし、さらにそれを無理に廃絶しようとするならば、文字通り人間性すら喪失するほどの危機に見舞われる可能性があることも示唆される。つまり物神(崇拝の対象)と事実(対象が人の手によって作られたこと)とは<もとより>渾然一体となっていて、それが人間性を文字通り支えているのではないか。それを無理矢理分離するのではなく、そのまま受け容れることこそ、別様のパースペクティブをもたらす鍵があるのではないか。私たちを取り巻くそうした様々な「物神事実」(fait + fétiche -> faitiche)を、すべて回復させ、世界を描写し直すこと。ラトゥールが提唱する対称性人類学とはまさにそのようなものらしい。どこか中国思想(先のジュリアンの著書が念頭にあるわけだが)にも通じるかのような、どこか古くて新しい喜ばしき知恵という印象だ。

「考古学」というアプローチ – 3

L'archeologie Philosophique (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)リベラ『哲学の考古学』から、7回めの講義を。普遍論争を三派(実在論、唯名論、概念論)による三つ巴の戦いのように描くという動きは、近代においてブルッカーに始まるらしいのだが、ブルッカーはそれを、ヨアンネス・フィロポノスの師匠だったアンモニオス(アレクサンドリアの)の議論などに帰しているのだとか。つまり、プラトン、アリストテレス、ゼノンの対立関係で、普遍論争はそれが繰り返される形で行われている、と主張していたわけだ。一方、17世紀スコットランドのダガルド・ステュワートは、この三元論をより整理された形で示しているらしい。概念論は唯名論から派生したものと見なされ、普遍がそれ自体として実在しないという立場を共有しているとされる。ではどこが違うのか。ステュワートによれば、思考の対象をどう捉えるかにおいて、唯名論と概念論は決定的に分かれる。つまり、思考の対象は観念ではなく言語である、とするのが唯名論であり、言語を介在させずに類や種を直に対象とするのが概念論だというのだ。なるほど、オッカムの直接認識などを思い起こさせる。ちなみに、ステュワートやトマス・リードは概念論の旗手としてロックをやり玉に挙げていたというが、ステュワートからすると、リードもまた概念論寄りだとされる。

ステュワートのこの三元論は、もとを正せば上のブルッカーを参照し、さらには17世紀の学者ダニエル・ゲオルク・モルホフ(唯名論に三種類ありとしたのは、この人物が嚆矢とも言われる)をも引用しつつ進められているといい、必ずしもなんらかの原典にもとづいているわけではないらしい。あくまで二次文献に依拠し、しかもごく限られた記述をもとにしている点で、哲学史にこの三元論はそれ自体で批判の対象にならざるをえないのだが、リベラはそこに、考古学が切り込んでいくべき錯綜関係の糸口を見いだそうとする。たとえば、同じく三元論を唱えるフランスのクザンの場合などに顕著であるように、それは民族主義的な意味合いをも担っており、きわめて作為的なものにもなっている。考古学的視座によって、そのことはいっそう鮮明に焙り出されていく、ということなのだろう。同じくフランスのジェランドの場合、やはりブルッカーに依りながら、一方ではステュワートにも批判的で、中世の概念論と称されるものは、17世紀ごろからの「観念論」と呼ばれるものと同じであると主張する。ジェランドにとっては、アベラールは「普遍が対象物に現実的な基礎を置いている」とみなす点で、純粋に概念論的ではなく、実在論寄りでしかない。概念論は、アベラールの最も独創的かつアリストテレス寄り・実在論寄りな(とされる)部分を(普遍は事物に現実的な基礎をもつとする)を斥ける形で、アベラールの後に生じたのだというわけだ。ジェランドの依拠する文献には、ソールズベリーのジョンの『メタロギコン』があるといい、それが他の著者にない独自性とされるもの、論拠はその一点だけで、やはりその乏しさは否めない……。

そしてまた、その実在論寄りのアベラールという解釈も、そのもとになっているのはトマスによる『命題論註解』での「事物に現実的な基礎をもつ(cum fundamento in re)」という文言なのだといい、そこから派生しているものだとリベラは指摘する。それが回顧的にアベラールに投影されている、ということなのだろう。こうして、歴史記述の錯綜感は、なお一層鮮明かつ深まっていくかのようだ……。

【雑感】人の言語、機械の言語

このところ、ブログのカスタマイズのためにテンプレートを久々にいじったり、ネットに出回っているswiftのサンプルコードを書き写してみたりして遊んでいたのだけれど、プログラミング言語(広義の)について改めて考えさせられる事態に(笑)。WPでのquery_posts関数の引数は以前のものが推奨されなくなって新しくなっているし、swiftは現在バージョンが3.1とのことだが、ネットに出回っているサンプルの多くはswift 2で書かれていて、修正しないと動かない。当たり前のことだけれど、自然言語とは違いプログラミング言語はゆるやかに変化したりはせず、規約の変更・改訂にともなって一気に改変される。いきおい、プログラムの書き手は書かれたコードの修正・改変に追われることになる。自然言語とのこの差は大きい。でもこのところふと思うのだけれど、自然言語の側もときとして、いくぶん限定的ではあっても、変わるときには一気に変わるようどこか変容してきているのではないか、という気がしないでもない。

古くから言われている若者言葉は言うに及ばず、マスメディアが使う言葉、政治家などのレトリックなどなど、どれもその時その時に、用法・用例が割と短期間にがらっと変わるようになってきているような印象を受ける。流行だけの問題と見ていいのかどうか。どこかそれは作為的であったりしないのだろうか。言葉の人為的な側面への意識が高まっているということなのか……。考えてみれば、プログラミング言語というのは最終的に機械に命令を下す制御形式へと落とし込むために一種の中間処理を扱うものであり、その中間処理部分自体は単一である必要はなく、多様なプロセスで構成されうる。最終的な落とし込みの段階以外は、いくらでも操作可能であり、プログラミング言語の形式もまた多様化しうる。ならば、とここからは妄想だが、自然言語ももしかすると、そうした中間処理のモデルで見直すことが可能かもしれず、そうした場合、最終的な落とし込みというのはどう想定すればよいのか(そんな落とし込みが果たしてあるのかないのかということまで含めて)、といった問題が浮上しうるかもしれない。言語のある種の目的論・目的因論?そうなると、アリストテレス的な目的因の議論までもが、形を変えて復活しうるかもしれない、などとと妄想は尽きない(苦笑)。

記号と再帰 新装版: 記号論の形式・プログラムの必然これにやや関連して、以前読みかけて積ん読にしていた田中久美子『記号と再帰 新装版: 記号論の形式・プログラムの必然』(東京大学出版会、2010 – 2017)をひっぱり出してみた。これも改めて興味深い示唆を与えてくれるかもしれない一冊。関数型言語のHaskellとオブジェクト指向言語のJavaを、それぞれソシュール的な二元論(シニフィアン・シニフィエ)とパース的な三元論(対象・表意体・解釈項)の記号論に重ね合わせる(!)という荒技で始まる同書は、とくにそのパースの記号論とオブジェクト指向言語の例を通じて、最終的には「人間と機械の記号系の差」を考察するところへと至る。それによれば、人間の記号系が構造的であるとするなら、機械の記号系は構成的だとされる。前者では各要素が系全体に関わり、要素同士が比較的自由に結びついているのに対し、後者では小さな構成から大きな構成へとボトムアップ型に記号が積み重なるとされる。ここで上の妄想につなげるならば、前者の人間の記号系であっても、その一定の内部に、なんらかの部分的な「構成的」要素を作り出すような動きを想定することもできるのではないか、なんて。それはとりわけ、なんらかのイデオロギーや信仰に関わる、ある種の目的論的な言語様態を作り出すのではないか。もしかすると今、自然言語はそうした傾向性に、世界的に直面しているのではないか、と。