「生命、自然、コスモロジー」カテゴリーアーカイブ

ユクスキュル

空き時間読書に当てていたヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生命の劇場』(入江重吉ほか訳、講談社学芸文庫)を読了。生物は各々の種に特有の、特殊な世界の中でのみひたすら知覚し行動するという環世界論を説いた対話形式の書。この対話篇の形式といい、生物種があらかじめ世界の分節も含めた行動や知覚を規定されているという議論といい、プラトン主義的な色合いの濃い説なのだが、これが20世紀前半の議論だったというところがなんとも興味深い。実際、その環世界の説明部分で、動物種の固有の世界観がプラトンの「洞窟の比喩」に重ねられていたりもするし、最後のほうで明確にプラトンのイデア論が引き合いに出されていたりもする。対話篇の構成は、その環世界論を支持する生物学者の「私」と、それに反対する動物学者が中心になって議論を重ね、ほかの登場人物として大学理事、宗教学者、画家が登場し、個々の議論に加わって一種の調停役を演じるという形になっている。動物学者側は、ある種の機械論や、ダーウィンの自然淘汰・生存競争などの話を出してくるものの、生物の行動が限定的に規定されているという立場の環世界論とは当然ながら相容れない。とはいえ、後者のほうも、環境自体の変化などの要因によって生物の行動パターンが変化し、別様に(再)組織化される可能性は認めている。そもそもの生命自体にそうした組織化の原理を見ている立場なのだけれど、このあたりでハンス・ドリューシュなどの生気論的な話が出てきたりもする。

でも、案外そのあたりも含めて古さを感じさせない。そもそも環世界論はその後のアフォーダンス理論とか生命記号論とかと親和的だし(ユクスキュルは実際それらに影響を与えたとされている)、生気論なども、たとえば米本昌平氏などの仕事で一種情報工学的な見地からの再解釈がなされていることを思えば、ユクスキュルのこの著書にも、なにかもっと組織論的・秩序論的に精緻化されていく可能性がありそうな気がしないでもない。対話篇の末尾のところで、環世界からのアプローチの限界と、それに代わる生のドラマの統一的な見地についても示唆されているのだけれど、そのあたりの壮大な構想もまた、フランス系の思想などを経て今に引き継がれているのは間違いない印象だ。

パルマのブラシウス『魂の諸問題』

questiones_de_animaパルマのブラシウスによる『魂の諸問題』は、『魔術的中世』のヴェスコヴィーニの校注版が出ていることを知る(大橋氏のブログ『ヘルモゲネスを探して』のアーティクルで触れられている)。というわけで早速取り寄せてみた(Graziella Federici Vescovini, Le Questiones de anima di Biagio Pelacani da Parma, Leo S. Olschki Editore, 1974)。ブラシウスの『魂の諸問題』は、異端の嫌疑で糾弾される前の1385年のもの(ヴァチカン写本)と、糾弾された1396年の後のもの(トリノ写本)があるようなのだけれど、同書のテキストはこの前者を主として再録し、後者で補完している形のようだ。まだちゃんと中身を読んでいないのだけれど、ざっと序文を見た限りでは、その内容はかなりラディカルで面白そうだ。パドヴァの物質主義的なアリストテレス解釈の流れを酌んでいて、人間の知的霊魂は物質的なもので、不滅ではなく、生成・消滅が可能だとし、さらには星辰の影響をも被るとしているという。自然発生(これまた占星術的な星辰の影響によるとされるらしい)論を支持し、さらに神は「永続する生き物」(animal sempiternum)、世界全体を導く物質(第一質料、あるいは物質世界の全体)であると見なしているのだとか(この言は別の著作『魂についての結論』のものらしいが)。ここだけ見ると、なにやらすごいことになっている(?)。ジャン・ビュリダンの影響などもあるのだとか。本文をめくるのがなんとも楽しみだ。追って報告しよう。

改めてパルマのブラシウス

ヴァン・デル・ルクト本で取り上げられていたパルマのブラシウス(1345頃〜1416)は、とりわけ数学者として知られているということなのだけれど、当時の数学教育では自然学や医学なども一体化していたのだそうで、なるほど発生論を扱っているのも頷ける。で、この人物、変革期をしたたかに(?)生きた人物としてなにやら興味をそそるものがあり(笑)、少しこだわって眺めてみたいと思うのだけれど、あまり詳しそうな資料がない感じだ。でも、各種の文献に散らばっているらしい記述を拾っていくのも楽しそうではある。ネットで詳しいのはencyclopedia.comのアーティクル(エドワード・グラントによるもの)。フランスの出版社ヴランから、2000年代になって三冊ほど校注テキストが刊行されているので、いずれそれらも眺めていきたい。

発生論のほうでもラディカルらしいブラシウスだけれど、魂の問題についてもやはりそうらしい。基本的なリファレンス本の一つ、シュミット&スキナー編『ケンブリッジ・ルネサンス哲学史』(Schmitt & Skinner, The Cambridge History of Renaissance Philosophy, Cambridge University Press, 1988)の「知的霊魂」の章(15章)には、ブラシウスの「物質論的」霊魂論が紹介されている。知性は非物質的かつ身体から独立して存在しているのか、それとも身体との関係性においてのみ知性は存在しているのか(その場合、知性は身体の形相とされる)を決めるのは、身体から独立した形での魂の作用(操作)があるかどうかにかかっている。ところがそうした作用は観察ができない。そのため知解のプロセスを知覚とのアナロジーで考えるほかない。その場合、魂には対象が必要となるけれども、その対象にはなんらかの距離・外延がなくてはならない。そのためには質料が必須ということになる。とするなら、魂にとっての対象は物質的な対象(物質と結びついた形相)だということになる。外的対象のほか内的対象(想起されるものなど)の場合でも、知性が抱く概念はもともと質料のうちに表されるのでなくてはならない。外的世界での質料と形相の結びつきとパラレルな形で、知解もまた質料(この場合は身体)と形相が結びつく「自然」な作用にほかならないのだ、と。ここまで、ちょっと古い質料形相論に連なる感じだけれれど、この後、ブラシウスは一気にラディカルな方へと走り出す。認識対象と認識主体は同種でなくてはならないとされていたことから、ブラシウスは、知的霊魂もまた、質料(この場合は身体か)の潜在性から引き出される特殊な形相にすぎず、身体が滅べば消えてなくなると推論するのだ(!)。当然ながらこれは当時の哲学的な考え方にも、キリスト教の教義にも反する立場。ブラシウスは弁明を余儀なくされ、後に自説を引っ込めるらしい。でもその考え方、ヴェネツィアのパウルス(こちらもそのアヴェロエス主義的な考え方が面白そうだが)などがオッカム流の唯名論的に普遍を考え、外的世界の事物に根ざしてなどいないとするのに対し、改めて実在論を導いているような話になっていて興味深い。

発生論のもう一つの極

先日のヴァン・デル・ルクト『虫、悪魔・処女−−中世の異常発生論』のメモの続き。発生論に絡んで、同書では全体として自然と反自然、超自然の境界が問題にされているのだけれど、それを検証するためのテーマとして挙げられているのが、一つは悪魔の権能についてであり、もう一つはキリストの受胎についてだ。この後者では、まずもってマリアの処女性の解釈から始まって、キリストの胚胎論、さらにはマリアの貢献の度合いなどへと議論が及ぶ。12世紀から13世紀の初頭まで、問題の中心となっていたのはキリストの身体が受胎と同時に瞬時に形成されたという神学的教義をめぐるものだった。その教義を認めると、キリストの「人間性」の部分が損なわれるのではないかというわけで、アウグスティヌスなどは瞬時の形成に難色を示し、普通の胎児と同様、キリストの身体は漸進的に形成されたと主張し、12世紀ごろにも少数派ながらその支持者らがいた。けれども瞬時の形成説(ダマスクスのヨハンネス、ルスペのフルゲンティウス(6世紀)、大グレゴリウスらを嚆矢とする)を支持する側が多数派を占めていた。

この情勢が大きく変わるのは1240年を中心とする10年間(1235〜45)。神学者たちはキリストの誕生について新たな身体的・生理学的議論をするようになる。これはちょうどアラブ経由での学知の流入を受けてのことだったらしい。とくに議論の対象となったのはマリアが果たした役割について。アリストテレス思想に準拠するドミニコ会と、ガレノス主義を採択するフランシスコ会が、マリアの役割をめぐって対立する。発生に関して女性が受動的に質料をもたらすだけだとする前者に対して、後者は女性も種子を放出するとしてより積極的な関与があると主張する。もちろん実際には、それぞれの陣営の中でも見解に幅があり、ときにはオーバーラップしたりして(フランシスコ会派内のアリストテレス寄りの論客など)、各論者のスタンスはもっと錯綜している。とはいえ、いずれにせよキリストの受胎はこうしてより「発生学的に」論じられるようになる。当然その背景には、神学におけるアリストテレス思想の一般化や、世俗的なものも含めたマリア崇拝の隆盛などがある。自然観も変質し、それまで(12世紀)世界は神の所業ということで自然と非自然(奇跡など)が地続きの関係にあったのに対し、13世紀中盤には両者の間にはっきりとした区別ができるようになる……。

こういう大局的なまとめにしてしまうと、同書で最も面白い個々の細部の議論は割愛するしかないのが残念なのだけれど、とにかく興味深いのは、キリストの誕生を部分的にせよ自然の事例として捉えようとする(異常発生の範疇で扱われる)中世的なディスクールにおいて、キリストが虫(腐肉にわくウジなどの)に喩えられたり、マリアがミツバチ(同様に雌馬、ハゲワシ、真珠などにも)に喩えられりしていたこと(同書のタイトルもそのあたりから来ている)。いずれも単為生殖の例(虫もミツバチもそのような例とされた)でのアナロジーなのだけれど、そのように語られる伝統が一部にあった、ということのようだ。キリストのその喩えは詩編22(同書では21となっているが、22が正しい)の7行目「わたしは虫であって人ではなく」という部分がもとだとされる。後の予型論的解釈で、詩編作者(ダビデ王)はキリストを指すものとされたわけだけれど、古くは単にキリストの恭順を表すという解釈だったその「虫」の一節を、アウグスティヌスが発生論的な解釈をしてみせたのが始まりとなって、キリストを虫に喩えるその定型句は中世盛期に人口に膾炙するようになる。カンタンプレのトマスやヴァンサン・ド・ボーヴェなどもこの譬えを用いているという。で、キリストの単為生殖についての喩えにすぎなかったものは、やはり1240年前後を境に自然学的発生論としての様相を呈し、ドゥンス・スコトゥス、ペトルス・アウレオリ、ジョン・ベーコンソープなどの議論を経て、14世紀になるとチェコ・ダスコリの悪魔的発生論、パルマのビアッジョ(ブラシウス)の人間の単為発生論などに代表されるように、神学よりもむしろ哲学・医学方面に、個別的かつ興味深い議論が散見されるようになるのだという。うーむ、このあたりの推移への目配せなどはまさに読みどころだ。

中世盛期の「異常発生」論

これも年越し本になってしまった一冊。まだ途中まで(三分の二ほど)なのだけれど、年末年始からとても得した気分になるほど面白いので(笑)さっそく記しておく。マイケ・ヴァン・デル・ルクト『虫、悪魔、処女−−中世の異常発生論』(Maaike van der Lugt, Le Ver, Le Démon et La Vierge – Les Théories médiévales de la génération extraordinaire, Les Belles Lettres, 2004)。ちょっとエキセントリックな題名で、なんとなく敬遠していたのだけれど、読んでみると中身はしっかりした研究だった。12〜13世紀の中世の動物発生論、とりわけ「異常発生」(つまり通常の生殖によらない発生)の問題圏めぐって、当時の議論を手堅く整理している感じだ。人口に膾炙した伝承の類や聖書にもとづくエピソードなどについて、当時の識者たち(主として神学者たち)がどのように解釈していたかをまとめ、わかりやすく紹介している。この、説話と学識層の議論とを行き来する様がとてもいい。というか、対象の選定としても論考の展開としても、ある種理想的な研究に思える。こういうのがやれれば本当にいいよねえ、と思う(笑)。

第一部は中世盛期の発生論のまとめ。ガレノス流に女性にも種子を認める立場と、アリストテレス流の男性のみに種子や形成力を認める立場との対立として各論者たちの布置を描き出しているのだけれど、個人的にエギディウス・ロマヌスのテキストなどはもっと錯綜感があったような印象があり、そんなにきれいに分かれるんだっけかなあと思ってしまった(笑)。いずれにしてもこれは序の口。本論は第二部から。まず紹介されるのは、アヴェロエスの『医学集成(Colliget)』にある話。近隣の女性の証言としてアヴェロエスは、悪意ある男性が射精した湯に浸かったら妊娠したという話を記しているというのだけれど、これに関連した様々な論者の説がまとめられていく。もともとその話はユダヤ起源のものとされ、反ユダヤ的な姿勢に結びつけられて(たとえば尊者ペトルスなど)一蹴されていたものの、やがて、性交がなくても女性の妊娠があり得るかという議論に移り変わり、多くの論者たちがその可能性を認めるにいたったという。続いて、動物の場合(たとえば雌馬)の「風による妊娠」話など、単為生殖にまつわる伝説とそれらをめぐる識者たちの議論が紹介される(サレルノのウルススやアルベルトゥス・マグヌスによる反論など)。生物の自然発生の伝説も俎上に乗る。たとえばエボシガイ(barnacle:貝)からコクガン(barnacle:野生の雁の一種)が生まれるという中世起源らしいとされる伝承。サレルノのウルスス(ウルソ)がその話に合理的説明を付けようとしたりするものの、13世紀になるとアリストテレス説に基づきそうした伝承は否定されていく。

そうした伝承についての議論で問われるのは、どこまでそうした自然発生を認めるかという限度の問題だ。一部の動物に自然発生を認めるという考え方(アリストテレス)は、アヴィセンナなども継承しているわけなのだけれど、西欧においてはそのコスモロジー思想の最下層に位置する「形相付与者」(dator formarum)の考え方が問題視される。それを認めてしまうと天使や悪魔にも創造の力があることになってしまうとして、後に糾弾されることになる(タンピエの禁令など)。とはいえ、やはり急進的な考えをもつ人もいないわけではなく、なかなか事態は複雑だ。ちょっと個人的に面白そうだと思ったのは、14世紀末ごろのパルマのビアッジョという人物。ラディカルな合理主義・自然主義を貫き、魂の不死を否定し、知的魂すら質料の中から引き出されると考えていたという。発生論的には、一部の動物は空気の中間領域から生じるとしていたらしい(!)。

続く第三部は悪魔がらみの発生について。ここでまず問題になっているのは、中世の説話に登場する魔術師マーリンの出生譚。母親が悪魔(夢魔:incubus)によって受胎したとする説話だ。さらに聖書に出てくる巨人族の出自が悪魔にあるとする教説もある。これらはいずれも神学者たちからは否定されていくのだけれど、その際に悪魔の身体性が問題とされるようになる。悪魔が人前に姿を現すときの身体は雲の形成に喩えられるような仮の身体(corpus assumptus)とされ(トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥスなど)、実質的には人間への影響を及ぼせないという説が一般化するのだけれど、それ以前からもすでに、そうした仮の身体での咀嚼や生殖は議論の的になっていた。悪魔が生殖に及ぶ場合に擬似的な種子を作るといった説(ヘイルズのアレクサンドルス、オーベルニュのギヨーム)も出るものの、これは後に斥けられ(サン・シェールのフーゴー)、かくして仮の身体や擬似的な種子では人間を形成する力が得られないという議論が大勢を占める(形成力は親の魂に由来するとされる)。代わりに出てくるのが、悪魔が人間の精子を盗み、一種の「人工授精」を行うという考え方で(トマス・アクィナス)、中世末ごろまでそれは定説として一般化する……。こうした諸説はペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の注釈という形で議論されているのだけれど、著者によれば14世紀になると、発生論に関連した注釈はほとんど姿を消してしまう。特にフランシスコ会派がそうだといい、一因は命題集への註解の仕方がそもそも変容してしまうからだというが、とにかく発生論の議論全体が下火になるらしい。15世紀になって悪魔学が天使論から切り離され、魔術の言説と結びつくようになって、オーベルニュのギヨームなどの説がまた引き合いに出されるようになり、発生論がらみの議論も一種のリバイバルが起きるのだとか。

いや〜、実に面白い。キリストの受胎を扱う第四部についてはいずれまた。