「生命、自然、コスモロジー」カテゴリーアーカイブ

「魂」論の復習

再び『植物の世界』から。パオラ・ベルナルディーニ「人間の身体は植物的・感覚的・理性的:13世紀の『霊魂論』注解における植物的魂」(Paola Bernardini, Corpus humanum est vegetabile, sensibile et rationale. L’Âme végétative dans les Commentaires au De Anima au XIIIe siècle, pp.137-155)を読む。これは植物そのものについてどうこういうのではないのだけれど、「霊魂論」注解の歴史についての復習的なまとめとして役立ちそう。論文そのものの主旨は、13世紀後半にとりわけ盛んに議論された「人間の形相は単一か複数か」という質料形相論的な議論(ドミニコ会vsフランシスコ会という政治的な拮抗も絡んだ論争)の上流に、アリストテレス起源の「魂の三態」をめぐる解釈上の対立があったことを改めて示そうというもの。魂の三態というのは、植物的魂、感覚的魂、知性的魂のことで、アリストテレスの『魂について』(II巻、3章)には、下位の能力は上位の能力に内包されるという一節があり、そのため中世においては、それら三態がどのような様態で存在しているのかについて議論が分かれていく……。というわけで以下要約。

発端はやはりアヴィセンナ。人間のうちにあっては、植物的魂は個別の実体として分離されてはおらず、魂全体として一体化していると主張する。13世紀のジョン・ブランドなどはこのアヴィセンナの強い影響下にあり、植物的魂は魂全体の一部をなしていると論じている。これに対し、三態のそれぞれを実体的に捉えようとする立場も現れる。バックフィールドのアダム(フランシスコ会)などがそうで、太陽や火の光に譬えてみせる(「光は、輝きや熱などの実体においては異なりながらも依然として単一の光である。同様に、魂もまた実体において異なりながら単一である……」)。この譬えは三態が実体的に異なるという立場を取る論者に広く使われ、逸名著者によるいくつかの著書に散見されるという。すると今度はそれらの三態が互いにどう結びついているかが問題になる。それらが相互に結びついて併存するとする逸名著者の書もあれば、ペトルス・ヒスパヌスのように魂の一性をあえて掲げて曖昧に処理している場合もある。この併存説は1270年ごろ、魂(形相)は一つだとする論者たちと対立する形で、複数の形相を認める説としてフランシスコ会系の論者の間で一般化する(ヴェーバー説)、これはブラバントのシゲルスあたりまで広く波及するらしい。形相は一つだとする側の代表格はアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスなど。アルベルトゥスは、植物的魂や感覚的魂は実際上は魂ではなく胚の形成力の所産にすぎず、真の魂は発達の最終段階に外部から吹き込まれる知性的魂だけだとラディカルな説を唱え、これはこれでそれなりに影響力を及ぼしていく。とはいえトマスはそれとは別の形で、形相の単一性へと議論を引っ張っていく……。

↓wikipedia(en)より、ビュリダンによるアリストテレス『魂について』の注解本(14世紀)。

「植物論」

先日取り上げた『植物の世界』(Le monde végétal)から再び。先のヴォイニッチ写本の論文でも触れられていてとても気になっているダマスクスのニコラウス『植物論(De plantis)』だけれど、これについて、ルチアーナ・レピチ「古代・中世の伝統における偽アリストテレス『植物論』」(Luciana Repici, Il De Plantis Pseudo-Aristotelico nella tradizione antica et medievale, pp.77-94)という論考で詳しく論じている。中身は、どれも基本情報として押さえておきたいことばかり。この書はオリジナルとされるギリシア語版は失われていて、5種類の翻訳が現存し(アラビア語訳、シリア語訳、ヘブライ語訳、古いラテン語訳をもとにしたアウソニ某によるギリシア語への訳し替え版、アラビア語版をもとにしたサレシェルのアルフレッドによるラテン語訳(1200年頃))、どうやら各版の相違が激しいようで、もとのテキストが注釈だったのか要約だったのかといったことも見えてこないらしい(ちなみにこの5つの翻訳は校注版(?)がBrillから1989年に出ているようだ)。東方世界では、この書はダマスクスのニコラウスの手によるものとされてきたのに対し、中世の西欧ではこれはアリストテレスの著書と考えられていて、医学的な草木論としてではなく、むしろアリストテレスやテオフラストスなどの「理論」書に類するものと位置づけられていた、と。論考は『植物論』のテーマごと(生命活動、形状、構成と栄養補給、変容)にその特徴的な議論をまとめて示してくれているのだけれど、全体としてアリストテレスの自然学を思わせる記述が多いらしく、13世紀初頭ごろの、比肩しえない権威としてのアリストテレスというイメージの定着の一端が垣間見える、みたいなことを著者は結論で記している(表記通りではないけれど)。

↓Wikipedia(en)より、ディオスコリデス『マテリア・メディカ』の15世紀の写本。クリュニー美術館蔵。

ヴォイニッチ写本から

積ん読の山から年越し本の一冊として、ゲリー・ケネディ&ロブ・チャーチル『ヴォイニッチ写本の謎』(松田和也訳、青土社、2006)を引っ張り出そうと思っていたら、つい先日ヴォイニッチ写本についての論考が紹介されていたことを知る。というわけで、こちらから先に読んでみる。リンカーン&サウンドラ=リー・タイズ「ヴォイニッチ写本の生物学編:中世の植物生理学の教科書?」というアーティクル(Lincoln Taiz and Saundra Lee Taiz, The Biological Section of the Voynich Manuscript: A Textbook of Medieval Plant Physiology? in Chronica Horticulturae, Vol.51:2, 2011)。ヴォイニッチ写本といえば、不思議な文字記号が並ぶ、誰も解読できていない謎の写本。以前から各ページの写真を載せているサイトというのはあったけれど、最近は本家のイェール大学が全ページ公開している。ま、それはともかく。この写本は文字ばかりか、挿絵のほうも描かれている具体物がなかなか特定できない難物だという話だったと思う。で、この論考は図像学的な見地から、6つに分かれているうちその「生物学」編の挿絵について可能な解釈を打ち出そうとしている。で、なんとも興味深いことに、その推論のベースになっているのは中世の植物学関連の諸文献。

中心となるのはダマスクスのニコラウス『植物論(De plantis)』。ロジャー・ベーコン(かつてヴォイニッチ写本はベーコンが暗号で記した書だとされていた)が大学で植物についての講義をした際(『植物論の諸問題(Questions supra de plantis)』、その『植物論』がベースになっていたとされ、またアルベルトゥス・マグヌスも、同書の諸問題を補完する形で『植生論(De Vegetabilibus)』を著したとされる。で、その『植物論』に、アリストテレスやガレノスの消化過程をベースとした植物の栄養摂取過程の説明があり、ヴォイニッチ写本のf.78rの挿絵は、裸の女性たちを取り除いて考えると、どうやらその消化過程にうまく重なるらしい。さらに種子の産出過程の説明に適合するとおぼしき挿絵もある、と……。

ではその裸の女性たちは何なのか?この点についても、著者らは一応の仮説を立てている。つまりそれは、アリストテレス的な生命力、植物的魂を表しているのではないか、というわけだ。古代からの伝統として女性は植物と密に関連づけられてきたし、アリストテレスによれば動物は分割できない単一の魂をもつものの、植物は分割可能な魂をもっているとされ、これが挿絵として視覚化されたものなのではないかという。うーむ、真偽はともかく、推論としてはとても興味深い。思想と図像の連関というのは、やはり興味の尽きない分野だ。

↓wikipedia(ja)から、そのf.78rの写真を。

シャルトル大聖堂の聖母扉

去りゆく夏に思いを馳せつつ文献読み(笑)。ごく短いペーパーだし、ちょっと古いのだけれど、とりあえず面白かったので挙げておこう。ティトゥス・ブルクハルト「自由七科とシャルトル大聖堂の西正面扉」というもの(Titus Burckhardt, “The Seven Liberal Arts and the West Door of Chartres Cathedral”, Studies in Comparative Religion, Vol. 3, No. 3 (1969))。「Chartres and die Geburt der Kathedrale」という著書からの抜粋らしいのだけれど、わずか4ページ(正味3ページ)で、シャルトル大聖堂の西正面扉口にある、聖母マリアを囲む自由七科の擬人化とそれらに対応する学知の要人たちについてきっちりとまとめられていて勉強になった(笑)。なぜ自由七科がマリアと関連づけられているかというと、自由七科は学知と同時に魂の才をも表しているのだそうで、マリアは魂にあらゆる才を併せ持つとされていたからとか。で、シャルトルのティエリーは三学科(文法、論理学、修辞学)を表現の学とし、ほかの四学科を知性の学と分類したというが、いずれにしてもそのティンパヌムでは、学そのものを表す女性像と、その学の偉人が配列されていて、文法はドナトゥスとプリスキアヌス、論理学はアリストテレス、修辞学はキケロ、算術はボエティウス、音楽はピュタゴラス、幾何学はエウクレイデス、天文学はプトレマイオスとなっている。ふむふむ、以前、フレスコ画「アクィナスの勝利」での学科と偉人の対応を取り上げたことがあったけれど、やはりそちらとは少し違うようで。個人的には、ダンテが古来からの伝承にもとづき『饗宴』で自由七科を七惑星に対応させた(文法→月、論理学→水星、修辞学→金星、算術→太陽、音楽→火星、幾何学→木星、天文学→土星)のを、3つある扉のうちの左側がなぞっていて、ティンパヌムが蒼天を表しているという話のほうがいっそうの興味をそそるのだけどね(笑)。著者のティトゥス・ブルクハルトは、伝統的な形而上学・コスモロジー研究の著名な大家(詳細がこちらに)。

↓Wikipedia(en)より、シャルトル大聖堂の西正面扉口。この右手の扉が聖母(聖処女)の扉。

こんなときだからこそステップバックを

これを読むことは、ある意味とてもタイムリーだと思われる。中世思想の研究者、八木雄二氏による、文字通り「試み」としての哲学的「エッセイ」、『生態系存在論の構築』(知泉書館、2004)。三部作のうちの「中編」にあたるもの。現代社会の科学技術への依存・過信の大元は、突き詰めるとアリストテレス的な原因の理解に行き着く、と著者は言う。物事の存在を、アリストテレスは機能主義的なものの見方で捉えようとし、それが西欧の科学技術を開く端緒になってたという議論は以前からある(割と新しい例ではシモンドンなど)。実際のところ、物事(対象)を原因にまで分解して組み直すということは、つまりはその対象を理解し制御することにつながるわけだ。けれども、今回の原発事故が示すように、それは必ずしも十全たる制御を約束しない。それはなぜか。そこには人間という種の限界についての考察が欠如しているからではないか。的確な認識が得られていないからではないか……。著者はかくして、アリストテレス流とは別の「存在理解」が必要だと説く。それはつまり、「ある」をそのまま肯定的に受け取るという理解、パルメニデスの存在論だ。

パルメニデスの存在論を、著者は現代の知見を絡めて練り直そうというのだ。なんとも意表をつくステップバックだ。しかも意外さはそこにとどまらない。パルメニデスの断章は詩的で難解なものだが、著者はそこで語られる「ある」がままの存在を、人間を根本的に成立させているもの、すなわち生命という事象、生態系をなす生命環境の総体に重ねてみせる。こうして同書では、パルメニデスと生態学というこの一見唐突な組み合わせが、ある種の強度をもって語られていく。「競争原理は種の進化を説明しない」「人間は複雑化した生態系の整理のためにもたらされた種ではないか」「植物こそが種の王座にあるのではないか」「生命研究には目的因の視点がいまだに有効ではないか」などなど(以上は原文の通りではないけれど)、刺激的な放言の数々が、雄弁かつ理知的に繰り出されていく。空論ではないかとか、教条的なエコロジーの議論ではないのかといった反応もあるかもしれないが、ここにはそれを押して余りある知的なしなやかさ、思索の糸口があるように思う。もちろん、活かすも殺すも読む側次第。原発事故がつきつけているのは、単に経済とか生活様式とかの問題ではないかもしれないことを、この際だから真摯に考え直したい。