「生命、自然、コスモロジー」カテゴリーアーカイブ

空を見るということ

前回の続きになるが、再びインゴルド『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学から。第二部にあたる大気についての試論がなかなか印象的だ。そこでとくに目を惹くのが、アフォーダンスの提唱者ギブソンと、現象学のメルロ=ポンティとの、空の知覚をめぐる想像上の対話だ。天空は、それを見る者にとって巨大な半球として現れるとギブソンは言い、そこに雲や天体などが浮かんでいるように見えるのだとする。しかしながら、そうすると、そこに含まれる視覚対象の事物の中に、光そのものが含まれないという問題が生じる。見えるものは光によって明らかにされたものであって、光そのものではない、とギブソンは主張する。けれども、では空は?空には「表面もない」のに、なぜそれを見ることができるのか?

ここで登場するのがメルロ=ポンティだ。天空の光自体は知覚の対象にならないが、空と光はそもそも同じものであって、空を見るとは内側から光を経験することだとメルロ=ポンティは言うだろう(と、インゴルドは述べる)。さらにまた、空の青さが見る者の意識を満たしていく、と。視覚は「わたし」を「わたし」自身から不在とし、一方で感覚対象をおのれの目の中で輝かせるのであり、知覚する側と知覚される側とが出会うとき、それは一種のスパークが生じているのだ、と。これはすぐさま、ゲーテの「もしも目が太陽のようでなければ、目は太陽を見ることができなかっただろう」という言葉に重ねられる。空に輝く太陽は、わたしたちの目からも輝いているのだ、というのだ。そして生物学者のユクスキュルもまた、同じようなことを言葉を変えて述べる。いずれにしてもここには、対象を自己と切り離さない知覚の在り方(おそらくは本来的な?)、主体と対象(あるいは環境世界)とがもとより混合しているかのような世界観が示唆される。

アナロジーの照応の渦巻き?

ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学今週もあまり空き時間がない一週間だったが、息抜きとしてティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学』(筧菜奈子、島村幸忠、宇佐美達朗訳、フィルムアート社、2018)をときおり眺めている。前作『ラインズ 線の文化史』(ブログ記事も参照)に続く本作は、広義のエクリチュール論みたいな部分をさらに大きく超えて、気象・大気といった、哲学的にあまり顧みられない事象の考察へと足を踏み入れいれている。ライン(曲線をも含む)概念がそれらにどう繋がるのかといえば、ラインがなんらかの存在論的な資格を得るとすれば、そこにはラインを紡ぎ出すおおもとで、ラインと相補的な関係をもなす、これまた広義のブロブ(塊)がなくてはならず、そうした集積をなすアナロジーとして引き合いに出されるのが、たとえば気象現象としての台風のような渦巻く結節点だったりするのだ。そうした「渦巻き」は、ベルクソンが言うように(「生ある存在は生の流れの中に放り込まれた渦巻きのようなものである」)生物全般に見いだされる有機体の「渦巻き」とも照応する、とされる。それは大気にも、海洋生物にも、さらには人間集団の行動にも、同じように見いだすことができるのだ、とインゴルドは言う。アナロジーとしての相互の照応の連鎖。それこそが、インゴルドの「ライン学」を支える枠組みだといえそうだ。すべての事象を、ある意味「気象学」として、ラインと渦巻きの変成作用のごとくに読み解くこと。けれどもそれは、吹き荒れるアナロジーの暴風をみずから創り出して、その中に飛び込んでいくかのような、通常の論証などとは別筋・別次元の、どこか危うくもある企て、という気がしないでもない……(?)。

nyx 第5号とりあえず、まだ読了はしていないし、インゴルドの向かう先も今一つ掴めていないので、そうした判断は保留にしておくれけれども、それとは別に、このところなにやらデュルケムとモースの系譜の話を個人的にはよく目にするように思う。たとえば、夏頃に刊行されたnyx 第5号』(堀之内出版、2018)の第一特集「聖なるもの」でも、デュルケム=モースの系譜(それもまたラインだが(笑))が、「聖なるもの」が孕む諸問題の発出点として重要視されていたように思う。インゴルドにおいても、着想源の一つが両者の系譜にあるのはほぼ確かなようで、繰り返し何度か言及されていたりして、なにやらとても印象的だ。デュルケム=モースに少しばかり立ち返ってみるのも、有益かもしれないと思い始めているところ。

感覚に依らない美の感受?

Traite 31 Sur La Beaute Intelligible (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)前回取り上げたプロティノスの『第31論文』(Traite 31 Sur La Beaute Intelligible (Bibliotheque Des Textes Philosophiques))。ここで問われているのは、知性にとっての美や知解対象の美というものをどう考えればよいかという問題。当然ながらそれは感覚的な美ではなく、狭い意味での「見る」「聞く」といった感覚にもとづく美的な感性では太刀打ちできない。そもそもそうした知的な「美」とは何かといえば、プロティノスによると、どうやらそれは調和の取れた、組織立った(秩序立った)全体のことだとされているようだ。つまりそれはコスモス(宇宙)そのもの、世界そのものだということになる。そうした全体こそが知的に言うところの「美」そのものであるとするなら、それを感覚に依らずに味わう・捉えるとはどういうことなのだろうか。プロティノスは、そのような美を知るには、みずからがその全体に合一する以外にない、とする。みずからがその秩序・組織に与すること。感覚器官ではなく、全身・全体でその美に合一する、というわけだ。はき違えてはならないのは、その美はコスモスとイコールである以上、この上なく壮麗なもの、一点の曇りもない完全性だということ。神との一体性、と言ってもよい。全体とはまさに無限の総体であって、地上に現に存在するような、どこか不完全さをもつ諸「事物」の美などではない。合一的な思想はどこか危ういとか言われるけれども、それは一つには、そうした不完全さをもつ現実的事象を、無限の全体と取り違えてしまうからなのだろう。弊害はまずもってその全体の「矮小化」にあるのではないか……。

それにしてもこの合一の思想は、人間以外の生物、とくに植物など特定の感覚器官をもたないものに、世界を認識・感受する可能性を開く考え方でもある。さきのマラブーもそうだが、今や哲学的な知は生物学と、あるいは動物行動学などと密接に関連せざるを得ないところにまできているようだ。けれどもその場合、どうしても動物ばかりが前面に出てきてしまう。それは考えてみればある種の偏りにほかならず、別様の生命のありかたを考慮に入れない偏狭さを感じさせる。そうした偏りを是正するという意味でも、プロティノスが語る「合一の思想」は、重要な足がかりになりそうに思われる。プロティノスをリブートさせる?それも面白いプロジェクトになるかもしれない。

再びテオフラストス(『植物原因論』第二巻)

Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection Des Universités De France)引き続き読んでいるテオフラストス『植物原因論』(Théophraste Livres I et II: Les Causes des Phénomènes Végétaux (Collection des Universités de France), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2012)。第二巻がようやく読了手前。この第二巻は、植物の生育状況の差がどのような原因によって生じているかをテーマとしている。土地や水分、気候などが影響するのは、第一巻でも記されていた通り。もちろんバランスが重要という見識は全体を貫いており、諸条件は良すぎても悪すぎてもいけないとされる。面白いのは、ある程度悪条件であるほうが、植物の生育には好都合だという捉え方。たとえば水は植物にとって必須だが、多すぎると発育が阻まれ、実もならない。水はむしろ少ないほうが、生育のためには好都合であり、ある種のストレスがかかるほうがよい、といった話が繰り返し強調されている。また、たとえば実を豊かに成らせるには、そうした諸条件を適切にコントロールすればよいとして、人為的な介入の可能性が繰り返し示されてもいる。それに則って栽培法・農法の話が展開していくことになりそうだ。

テオフラストスの植物原因論

Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection Des Universités De France)

『植物誌』を少し後回しにして、テオフラストス『植物原因論』の冒頭を、Les Belles Lettres刊の希仏対訳版(Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection des universités de France), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2012)で読んでいる。対訳版第一分冊の前半にあたる第1巻をとりあえず読了。『植物誌』は形状や特徴の分類・体系化が主なトピックなのに対して、こちらは少なくとも第1巻に関する限り、茎、根、花、葉、果実といったそれぞれの部分について、発生論的な議論を中心とした観察の数々が提示される。当然ながら植物の種類によっても同一部分は様々に異なっているわけで、記述は事例の併記のようになっていかざるをえない。たとえば実がなるはずの木に実がならないとき、どのような原因で阻害されているのかを特定するのは難しいところ。発芽と結実の起源だけでも一筋縄ではいかない。植物そのものの属性や、環境要因が指摘されたりもする。若い木は二次的な発芽が盛んだが結実は少ないが、それらには湿地の木々と同様に水分が多いという特徴が指摘される。一方で実をなす木、若くない木はそれなりに乾いていると指摘される。さらにまた季節の要因、寒暖なども絡み、実際にどの木がいつどのように実をつけるかはきわめて多岐にわたる……。

しかしながら、たとえそうした多様性に手こずりながらも、テオフラストスの基本姿勢は、アリストテレスの学派の継承者らしくというべきか、自然への信頼という点で一貫して揺るがないように見える。テオフラストスもまた、自然はその「最善へと向かう傾向がある」(ἀεὶ πρὸς τὸ βέλτιστον ὁρμᾷ)としているが、さらに続けて、人が手を加えること(θεραπεία)もその傾向に従うと記されていたりする。こうした人的介入についての楽観的・性善説的なスタンスは、すでにして随所に散見される。栽培や農法については3巻から4巻で扱うらしいが、まずは続く2巻が気候などの要因をさらに詳しく取り上げているようなので、そちらに取りかかろうと考えている。