「生命、自然、コスモロジー」カテゴリーアーカイブ

機械のなかの疑似生命たち

作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門本読みの時間があまり取れなかったが、今週の一冊はなんと言ってもこれ。岡瑞紀・池上高志・ドミニク・チェン・青木竜太・丸山典宏『作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門』(オライリー、2018)。AI人気の昨今ではあるけれど、こちらはさらに踏み込んだアーティフィシャルライフ(ALife)についての概説書。生命現象の様々な側面をシミュレーションするという研究領域の入門という感じ。プログラミング本ではあるけれど、打ち込んで学ぶというよりも、公開されているソースコードをローカルで実際に動かして、ALの主要な研究領域の入り口をざっと見る一冊か。たとえて言うならプログラミング絵本というところ。pythonの実行環境が必要だが、それさえ問題なければかなり刺激的なプログラムが並んでいる。当然いろいろな応用も考えられそうで、そうしたことを夢想するだけでも楽しい。

と同時に、ここには、生命現象のシミュレーションのどうしようもなく(というか絶対的に)パーシャルな性質というものを改めて突きつけられている気がする。析出され再構成される部分的な動作は、当然ながら部分的なものでしかないわけだが、それが別の部分とどうつながっていくのかといった経路は見えない。そのつなぐ部分というのが、もしかしたら現在ないしそれ以降の検討課題になっているのかもしれない……。そんなことに思いを巡らせてみるのも一興かもしれない。

古代の原子論に線を引く

原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響今週は次の注目の論集を読み始める。田上孝一・本郷朝香編『原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響』(法政大学出版局、2018)。まだ最初の章(金澤修「古代原子論」)だけなのだけれど、これに刺激というか、善い意味での軽い衝撃を受ける(笑)。ともすれば一枚岩のように扱われることの多い古代ギリシアの原子論に、分割線を引いてみようという一篇。まず一つには、レウキッポスとデモクリトスにおける空虚の考え方が興味深い。原子と対をなすとされる空虚は感覚対象でないという意味では「あらぬもの」でありながら、原子がその中で構成要素として働くという意味で、思考対象・構成原理としては「あるもの」ということになる、と論文著者は喝破する。これは「あらぬもの」を徹底して排除しようとするパルメニデスおよびエレア派に対立する立場ということになる(とはいえ、論文著者も示唆しているように、「あるもの」に空虚をも包摂させるとするなら、それは「あらぬもの」からは「あるもの」は生じないとするパルメニデス的思考を踏襲しその圏内にあることにもなるのだが……)。また原子論が生成・運動の理論、世界の多様性の思想をなす点においても、そうした生成をみとめないパルメニデスやエレア派と対立する構図となる、とされる。

注目される二つめの点は、同じ原子論の範疇に括られがちな彼らと、エピクロスとの差異だ。デモクリトスは生成の出発点に「渦」を起き、そこからの必然として生成を描いているとされる。一方でエピクロスは、一定の偶然(重みで下降する原子が、わずかに逸れることがある)をそこに見ていた可能性があるのだ、と論文著者は言う。これが重要なのは、そうした逸れから、すべてが決定されているとか、あるいは機械論的に連鎖するとか、というわけではない可能性、別様の理路が開かれることになり、これが自由意志の形成をもたらすことにもなるからだ。もちろんこれら二つの点は、いずれももとのテキストの散逸のせいで確固たる文献的な裏付けが必ずしもあるわけではないという。けれども状況証拠的な推論による最適解の可能性としてはとても興味深いものだといえる。

テオフラストスの『形而上学』

Metaphysique (Collection Des Universites De France)『植物原因論』は第三巻まで読み進んだところでいったん休止中。その代わりというわけでもないのだけれど、同じテオフラストスから、『形而上学』(の抜粋とされるテキスト)を、いつものレ・ベル・レットル版の希仏対訳本(Théophraste, Métaphysique (Collection des Universités de France), trad. A. Laks et G. W. Most, Les Belles Lettres, 1993-2002)で見てみた。植物論のような具体的な事象に取り組んでいるわけではないが、当然ながらそのスタンスには通底する部分が多々ある。基本的には学問的な対象や方法論をめぐる考察なのだが、冒頭からすでにして、感覚的対象(自然学の対象)と知的対象(形而上学の対象)とがどう結びつくのか、一般が個物の原因、とりわけ後者の運動の原因であるのなら、なぜ個物は休止ではなく運動を求めようとするのか云々といった、難問の数々が提示される。

そうした問いに、必ずしも答えが示されるわけでもない。総じてこれは、いくつもの差異から成るような多様な事象・現象を前にして、そこから共通項をどう導きだし、一般的な問題へとどう遡っていくか、どう接近していくかについて、ある種の困難を吐露した文章という印象だ。多様なものに理由を探ろうとすれば、いつしか理由そのものを見失い、知をも失いかねない。では、そうしたリスクがある以上、たとえば動物について探求する場合でも、生命そのものの考察に踏み込んではならないのだろうか、気象現象や天体の探求でも同様だろうか……。どこに制限を設ければよいのか。もちろん明確な答えはないが、このどこか震えるようなアポリアの感覚こそが、哲学的な問いかけの醍醐味であることを改めて感じさせもする。

擬アリストテレスの植物論

Pseudo-aristote, Du Monde: Positions Et Denominations Des Vents; Des Plantes (La Roue a Livres)レ・ベル・レットル社から出ている擬アリストテレスのシリーズから、『世界について・風の位置と名前・植物について』(Pseudo-aristote, Du Monde: Positions et Dénominations des Vents; Des Plantes (La Roue à Livres), trad. Michel Federspiel et al., Les Belles Lettres, 2018)を見ている。このところの流れで、個人的な注目テキストはやはり『植物について』。この書はギリシア語原典が失われ、シリア語版が残り、そこからアラビア語版、ラテン語版、ギリシア語版などが派生しているもの。今回のテキストはラテン語版からの仏訳。アリストテレスの真正のテキストではないというのが一般的な見解で、おそらくは逍遙学派の誰かが著したのだろうという。同書の解説序文によれば、テオフラストスの植物論にも一部呼応しているという。

で、この擬アリストテレス『植物論』だが、解説序文でもまとめられているが、全体は第一書と第二書にわかれ、第一書はさらに前半と後半にわかれる。つまり全体で3つの部分から成り、最初が植物における感覚の有無の問題や存在論的位置づけなど、二つめの部分が植物の分類、三つめは環境などを含む植物の生成に関する議論、という感じになっている。このうち、とりわけ注目されるのは第一の部分。逍遙学派の立場では、植物には感覚などはなく、呼吸や睡眠もなく、きわめて静的な生命であるとされていて、こうした議論それ自体はさほど面白くないのだけれど、そこで示され反駁されている異論のドクソグラフィ的な言及には大いに興味がわく。とくに言及されているのはアナクサゴラスやエンペドクレスの説。両者は植物にも快不快などの感覚があると考えていたという。アナクサゴラスは、植物も呼吸をすると考えたようだし、エンペドクレスはまた、植物は雄雌が一体化していると説明していたらしい。ちなみにこの『植物論』の逸名著者は、その性別の一体化を認めると、植物を動物以上に完全な存在になってしまうとして、この説を斥けている。いずれにしても、アナクサゴラスやエンペドクレスのほうに、植物についての現代的な知見は再接近しているように思われる。

植物的認識とは……

植物について哲学的に語るのはなかなか難しそうだ。そのことを改めて思わせるのが、フランスのヴラン社が刊行している『カイエ・フィロゾフィック』2018年第一四半期(no. 152)2018第二四半期(no. 153)号。同誌はその2号連続で、「植物、知と実践」という特集を組んでいるのだが、そこに収められた論考は、そうした語りにくさを如実に表しているような印象を受ける。先のコッチャの著書のような先鋭的なスタンスにはもちろん遠く、小麦などの個別の表象史であるとか、人類学的なアプローチで人間と植物の関連性を描こうとするとか、あるいは遺伝子組み換え作物のようなアクチャルな問題を取り上げるとか、周辺的なところから攻めているものが多い印象だ。その意味では、少し残念な気もしないでもない。ちなみに同誌no.152の書評のページでは、先のコッチャの著書も紹介されていて、評価と批判的指摘などが記されている。

そんな中、no.153のほうに、とくに眼を惹く論考があった。モニカ・ガリアノ「植物のように考えるーー行動学的生態学および植物の認識的性質に関するパースペクティブ」という論考。これはこの特集において突出して興味深いものになっている。植物学の世界でこの20年ほど進んでいる研究に言及しながら、植物にとっての「認識」がどのようでありうるのかを示唆する内容だ。それによると、最近の研究で明らかになっているらしいのは、植物にも同種を見分ける認識能力、あるいはなんらかのシグナルを発する能力が存在するらしいということ。そこでの認識能力は、もちろん動物のような神経系によるものではなく、環境とのインタラクションにもとづくもので、詳しいメカニズムはまだ解明されていないとされるが、すでにして、人間心理をモデルとしてきたこれまでの動物行動学的な視座を問い直す契機になるのではないかという。

論文著者はそうした植物の認識メカニズムを、「アフォーダンス」的な観点から捉えることを提唱している。植物が発するある種のシグナルは、コウモリなどの反響による位置特定メカニズムにも近いものとされ、植物も同種の個体が近くにいることや、自分が置かれた環境(場所)がどのような状態にあるかといったことを、感覚器官によらずに取り込んで認識している、という。植物的生命というのは、アリストテレスが考えたような静的なものではまったくなく、人が思い描く以上に、はるかに複雑で繊細な機能を備えている、と著者は指摘する。ほかの個体が発する匂いや音(あるいは震動)、さらには外見の様子にいたるまで、植物は、それらを直に情報として取り込んでいる可能性があり、それが認識論についての全般的な再考を促す可能性があるというわけだ。この分野もまた、眼が離せない状況になっているということか。