「主体、知性、スペキエス」カテゴリーアーカイブ

アヴェロエスと「悪魔的なもの」

Averroes L'inquietant (Romans, Essais, Poesie, Documents)以前、ちらっと言及したことのあったジャン=バティスト・ブルネ『不穏なるもの、アヴェロエス』(Jean-Baptiste Brenet, Averroès L’inquiétant (Romans, Essais, Poesie, Documents), Les Belles Lettres, 2015)を読んでいるところ。一般向けの小著で(140ページ強)、アヴェロエスそのものというよりはアヴェロエス主義(の離在的知性の話)の諸問題を、テーマ別に読みやすくまとめている。離在的知性の話がラテン中世において、どのような想像領域をいかに、またなにゆえにかたち作っていったのか、というのがメインテーマとなっている。専門の論文ではなく、かといって単なる入門用の概説でもない、両者の中間的な読み物という位置づけが面白い。人文系の老舗レ・ベル・レットルにしてこういうのを出すようになったのだなあ、と。

テーマは多岐にわたっているのだけれど、個人的に興味深かったのは8章。中世のどこかの段階以降(文献的に初出が特定されていないようなのだが)、アヴェロエス主義は悪魔的なものと明確に結びつけられてしまったという話。たとえば16世紀のヤコポ・ザバレッラはアヴェロエス派を批判して、離在的知性が身体に偶有的にのみ結びつくのだとしたら、それは悪魔憑きと変わらないではないかと述べているという。デカルトに対する批判などでも、その霊魂論(『情念論』)での身体と精神の結びつきが「偶有的」だとして、アヴェロエス派への批判を持ち出してくるものがあったという。また、有名な一群の絵画「トマスの勝利」でも、フィリッポ・リッピによるサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ教会の壁画の場合、トマスの足元に倒れているのはもはやアヴェロエスではなく、悪魔の象徴だという。

何がアヴェロエス主義と悪魔を結びつけたのか。著者はそこに、アヴェロエス派の人間観が抱えていた問題を見る。つまり、そこでの人間観は、離在的知性と認識する身体とは実質的に統合されておらず、間欠的に接続するだけで、人間は結局外部に対して無防備なまでにただ開かれている、ということになる。ゆえに人間は常に脅威にさらされているのだ、と。もちろん反アヴェロエス主義の側の人間観も、内的に神の働きかけを受けるという意味で人間は完全にはふさがっていない。けれどもそれは透過性をもちつつも個的な自律、基本的な統一性を保っている。これに対して、存在論的に知性が分離しているとなれば、それは外部に対して開けっぴろげになってしまう。当然、悪魔的なものがつけいる隙にもなる、と。文献的な論拠をさしあたり脇にどけておくなら、なるほどこれは確かに面白い視点だ。思わず小さく唸る……。

↓そのリッピによる壁画の一部。
Filippino_Lippi,_Carafa_Chapel,_Triumph_of_St_Thomas_Aquinas_over_the_Heretics_02 (1)

【再考】アヴェロエスと「思考」

アラン・ド・リベラの『主体の考古学』シリーズ。まだ個人的は3巻目を読んでいないのだけれど、すでにぼちぼちとそれを批判したり、その考察を深めたりするような議論も出てきているようだ。その一つが、ジャン=バティスト・ブルネの論考「アヴェロエスにおける思考、付帯的名称、変化:アリストテレス『自然学』七巻三章の解読」(J.-B. Brent, Pensée, dénomination extrinsèque et changement chez Averroès: Une lecture d’Aristote, Physique VII, 3, Archives d’Histoire Littéraire et Doctrinale du Moyen Âge, 82, 2015)という論考。以下、主要論点についてのメモをまとめておこう。

リベラの『主体の考古学』のメインテーマの一つとなっているのが「呼称の交差(chiasme de la dénomination)」の問題。「思考」という語が、対象としての「思考内容」から、主体としての「思考する者」へと、どのように移行(転移)したのかということなのだが、リベラはこれを二段階の激変として捉える。一つめは「対象(外的)から思考内容への転移」。そこでは思考する主体そのものは変化しないが、何か別のものが変化した、とされる。そして二つめがアヴェロエスの到来で、それにより「思考内容から思考する者への転移」がなされたのだ、と。

論考は、とくにこの二つめの激変について、アヴェロエスに焦点を合わせつつ改めて検証し直している。そのために、まずはアリストテレスの「変化」概念に立ち返り、さらにそれについての亜アヴェロエスの注解を検討する。アリストテレスは認識する者は認識によって質的変化を被らないが、他方で何か別のもの(「魂の感覚的な部分」)が変化すると記している。学知の場合もそうで、学知を獲得する主体自体は変わらないが、一方で何かが存在するとき(現働化するとき)にその学知は生じる、としている、と。アヴェロエスはこれを、認識者そのものと、認識する部分との区別で説明づける。認識者そのものは変化しないが、認識する「別の部分」は対象およびその像を受け容れる限りにおいて「変化」を前提としている。人間が思考するときには、その身体とそれに関係づけられている下位の魂が変化するが、一方で本質を概念的に認識する知性そのものは「変化」しない、と。

アヴェロエスはまた一方で、「変化」の意味を下位区分することで、上の「変化」を別様に解釈してもいるようだ。変化と変化それ自体の目的との区別、さらには本質的変化と付帯的変化の区別を重ね合わせることで、付帯的変化(瞬時かつ不可分の)は、本質的変化(経時的かつ分割可能な)の目的をなすと説明づけているのだという。ロウソクで部屋を照らす場合、そのロウソクをもってくるなどの動きは経時的なものだが、それが到着して目的を達すること、すなわち部屋を照らすことは、瞬時になされ、しかもロウソクをもってくる前段の動きとは異質な変化となる。では人間の思考の場合はどうか。そこでもまた、それら変化の区別は有効で、結局、アヴェロエスは自身の離在的知性論に即し、思考とは複合的な動きとして人間に与えられていて、身体に影響する実際の変化(本質的変化)と、その目的をなし、付帯的呼称として知性を述語付ける付帯的変化から成る、と考えているのだ、と。ここから付帯的呼称の交差現象が起きるまでは、あともう少しでしかない……。一方、いわゆるアヴェロエス主義で言うような、人間と知性の存在論的分離(離在論の急進的な解釈)の図式では、思考が人間においてなされないということになってしまい(あるいはまた、知性が人間の本質ではないということになってしまい)、以上のような変化の構図が当てはまらない。アヴェロエスは(アリストテレスそのものもだが)実はもっとはるかに複雑なのだ、というわけか。

「描像」と決別するために

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)先頃出た、ドレイファス&テイラー『実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)』(村田純一監訳、法政大学出版局、2016)を読んでいるところ。とりあえずざっと前半。原書も2015年の刊行のようだから、とても素早い対応だ。それほどまでに今、実在論の復権というのはかまびすしい動きになってきているということか。ここで言う実在論は、古典的な唯名論に対立するものではなく、むしろもっと根源的に、西欧に綿々と受け継がれてきた、認識論の媒介主義、つまり現実世界をある種の「描像」を通じて把握するという考え方を否定しようという動きのこと。無媒介主義と言ってもよいかもしれない。媒介主義は、古くは中世のスペキエス(可知的・可感的形象)概念からあり、その後17世紀ごろのデカルトの「心的実体」論やロックの内的記述(同書の著者たちはこれを媒介主義の起源と見ている)、さらにはヒュームの心的印象論、そしてはるか後世の現代においても、ローティやデイヴィドソンなどがその系列に連なるのだという(!)。媒介主義はこのように、懐疑主義や操作主義など、西欧的なある種の独善的な思想を生み出す底流をなしているといい、著者たちはそれを脱構築するという、一筋縄ではいかない作業を引き受けようとする。同書はいわばそうした宣言書にほかならない。

もちろんそうした媒介主義を打破する動きもないわけではなく、カント(同書では「基礎付け主義」とされる)から始まってヘーゲル、現代にいたってはハイデガー、ウィトゲンシュタイン、そしてメルロ=ポンティなどがその代表的な論者とされる。それらの議論の要は、要するに事物が全体的な体系の内部でしか開示されえないというスタンスに尽きる。とくにメルロ=ポンティは、無媒介的な身体ベースの志向性が予めあってはじめて表象的な志向性が可能になることを示したといして、すこぶる高く評価されている。著者らは、媒介主義の基本原理を4つほど切り出してそれらを批判している(それが前半)ほか、次いで描像から抜け出すための処方箋も4つ描き出していて、後半はそれらの詳述ということになるようだ。個人的には、このメルロ=ポンティの評価の部分と、またしてもカント/ヘーゲル路線の再評価というあたりがとりわけ刺激的だ。

オレームの個体化・再生論

前回取り上げた論集『アリストテレス『生成照明論』に関する注解の伝統』からもう一本。今度は14世紀のニコル・オレームをめぐる論考。ステファノ・カロティ「「生成は誘発されうるが、遅くはできない」−−ニコル・オレーム『生成消滅論の諸問題』における原因の秩序と自然の必然」(Stefano Caroti, “Generatio potest auferri, non differi.” – Causal Order and Natural Necessity in Nicole Oresme’s Questiones super De generatione et corruptione, pp.183 – 205)。オレームと、その同門のインヘンのマルシリウスやザクセンのアルベルトなどの「原因の連鎖」論を中心に見ていくという趣向ではあるのだけれど、どうしてもそこに、師匠であったビュリダンの話が絡んでくる。一言で言うなら、オレームは自然の存在をすべて固定された原因論的秩序に位置づけようとし、スコトゥスの論理的可能性の概念をもとに、時間の中での個体化(自然の潜在性が時間の中で性質を発露していく)を、外的な要因の導入を避け、また完全な決定論に陥らないよう注意を払いながら理論化していくという話なのだが、この個体化問題はもとはビュリダンの議論が下敷きになっているらしいのだけれど、ビュリダンの場合は13世紀の個体化問題を振り返ることに重点を置いているようで、生成消滅論の前面にその問題を注ぎ入れて扱ったのはオレームの功績らしい。ビュリダンの示唆を受けて、オレームが解決策を構築しているというかたちだ。個体化問題と生成消滅論とを接合させて論じるというのは、確かに興味深いところではある。さらにそれが時間絡みとなるとなおさらだ。同論考によれば、オレームは、同一の存在が異なる時間に産出されることはありない、つまりは生成の遅れはありえず、「自然の(本来の)」瞬間に生成さるのではなければ、その存在は決して実在できない、と主張し、後にアルベルトやマルシリウスもそれを踏襲していくようだ。彼らはまた、消滅した事物が数的に同一であるようなかたちで再生できることを完全否定する(もちろんこの場合、神の全能性は別問題になる)。

オッカムの「本質主義」?

L'essentialisme De Guillaume D'ockham (Etudes De Philosophie Medievale)ちょっと毛色の変わった研究を、序文と結論部だけ先にざっと見てみた。マガリ・ロック『オッカムのウィリアムの本質主義』(Magali Roques, L’essentialisme De Guillaume D’ockham (Etudes De Philosophie Medievale), Vrin, 2016)というもの。オッカムのウィリアムはなんといっても本格的な唯名論の嚆矢なので、たとえば事物の共通本性などを心的な像もしくは概念に帰してしまうため、一般にそこで「本質主義」が云々されることはまずなかった(と思う)。つまり、複数の個物が同一視される場合、それは、そうした個物を同一視する者の概念的な理解を介在するがゆえなのであるとされる。そのため、個物になんらかの共通な本性・本質が備わっていると見なすのかどうか、というあたりのオッカムの議論というのは、ほとんど取り上げられていない(というか、そもそも改めて取り上げる価値がないとされてしまう?)印象が強い。ところがこの研究では、現代哲学の本質主義、あるいはアリストテレスの現代的な解釈(クワイン、クリプキ、キット・ファインなど)を一端経て、それらとオッカムの「現実的定義」なるものに注目し両者を照らし合わせることで、いわばこれまで明るみに出てこなかったオッカムの「最小限の本質主義」みたいなところに光を当ることを、大胆にも試みているという次第なのだ。中世哲学プロパーな議論ではないことも含め、方法論的にどうなのかという疑問もないではないが、例によって議論の詳細はまだ追っていないので、さしあたりそのあたりはコメントできない。時間が取れるようになったら確認したいところではあるけれど。