「主体、知性、スペキエス」カテゴリーアーカイブ

政治哲学の曙 1

今年の年越し本の一つが、アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』(André de Muralt, “L’Unité de la philosophie politique – de Scot, Occam et Suarez au libéralisme contemporain”, Vrin, 2002。これ、まだざっと三分の一を見ただけだし、中世プロバーの論考ではないけれど、すでにして、近代的な政治哲学の根っこが中世後期のスコトゥス、オッカムのラインにあることを示した好著、という印象だ。まずは認識論と意志論の考察。スコトゥスに端を発する(一応)とされる「主体が対象を認識する原因は、認識対象の存在にあるのではなく、むしろ神の照明(ないしはイデアの注入)にある」という考え方(これ自体はフランシスコ会派的なアウグスティヌス主義に連なる立場だけれど)は、オッカムにいたって主体から対象への志向性すら否定され、むしろ認識は対象と同時に主体をも構成する契機なのだと見なされるようになっていく。デカルト的なコギトの考え方の先駆がそこに見出されるというわけなのだけれど、いずれにしてもそうした流れは政治思想にも影響を及ぼさずにはいない。スコトゥス的な考え方には神権を起源とする政治哲学が、オッカム的な考え方には人間を起源とする政治哲学が導かれる。これはまあ、そうなのだろうなあと思う。

それと並行して進んでいくのが、主意主義の台頭。というわけで、同書もそこから意志論に入っていく。スコトゥスは神の意志は完全に自由であるとし、一方で人間の意志については自己愛や隣人愛をそこに含ませていると考えた。神の規定に沿うことが倫理の条件であるというわけだ。というこれに対してオッカムは、上と同様、(神でも人間でも)意志そのものは倫理的ではなく、倫理の条件は余所に見出されるという立場を取る。それは「神がアプリオリに与える義務」による規定だとされる。これはデカルトにも通じる立場で、それがすなわち法の根拠になる、と。けれども神の権威に立脚するこの法の考え方は、時代が下ると、神権政治的に深化するか(ルターなど)、権威から神を排除し人間理性を据えるか(カント)といった変化を起こす。けれども前者は形骸化を招き、後者は国家という形での民主化と議論の空間を導いたものの袋小路に入ってしまっている……。で、著者はここで再びステップバックして、今度は倫理が人間の意志に内在しているとする考え方を追う……。というのが今読みかけのところ。さて、どう展開するのだろう?

マルブランシュ……

空き時間読書ということで(まだまとまった時間が取れないのだけれど)、上村忠男『ヴィーコ – 学問の起源へ』(中公新書、2009)も読み始める。ずらずらっとすでに半分を超えてしまう(うーむ、仕事が遅れるなあ……)。ヴィーコの思想をテーマ別にわかりやすくまとめた良書なのだけれど、この5章目、「ヴィーコとキリスト教的プラトニズム」がちょっと目を惹く。なにしろそこでは、ヴィーコが関心を寄せていたというマルブランシュの「観念の神起源説」が取り上げられているため。マルブランシュは「人の内部で思考しているのは神である」「神が観念を人の内部に創造する」といった論を展開するというわけだけれど、あらためてそう言われると、なんだかこれはアヴェロエス思想の残照のような感じもしなくない……。つまり単一知性論ということだけれど、ラテン中世でそのあたりは少しねじ曲がっているみたいな印象があり、アヴェロエスがもともと考えていたことって、案外マルブランシュに近かったりして、なんてことを空想・妄想したり(笑)。たとえばデカルトの第一真理のはるか先駆者みたいな形でアヴィセンナが取り上げられることは珍しくなくなったけれど(もちろん、文献的な影響関係などではなく、思考のある種のパターンを抽出した場合の話)、ならマルブランシュのはるか先駆者はアヴェロエスとか?うーん、でも、マルブランシュはアヴェロエスとかを痛烈に批判しているみたいな話もあったような気がする……(?)。いずれにしても、やっぱりアヴェロエス、アラビア語で読まないとね。しばらくお休みしているアラビア語、再開しないと。あ、この際だからマルブランシュもちゃんと読もうっと(笑)。

「大乗起信論」論

井筒俊彦のもろ仏教方面の著書は読んでいなかったので、文庫化されている『意識の形而上学』(中公文庫、2001)を読んでみた。うーむ、仏教方面もまたいろいろとややこしい(苦笑)。それでも、存在論的アプローチの第一部の中心をなす「真如」概念や、認識論的アプローチの第二部の「心真如・心生滅」「空・不空」「アラヤ識」あたりまでは、まあなんとなくイメージできるというか(図もあるし)。しかし第三部の個的実存意識の話になると、九段もある「不覚」形成プロセスとか、なかなかに錯綜してくる。基本的に、同じ言葉が複数の意味を担っていたり、異なる意味の語が同じ事象の表裏一体をなしていたりするという話なので、原テキストを読み解いていくのは一筋縄ではいかないのだろうなあ、と。その意味では井筒氏のこの見事な捌き方は、いつもながら実にほれぼれするような切れ味、という感じ。

それにしても、最初のほうの真如を扱った箇所で、それが仮名であるという話ついでに、同種の仮名としてプロティノスの「一者」が定義が引かれているのが興味深い。さらには老荘思想の「道」も、ウパニシャッドの「梵」も、アル・アラビーの存在一性論も同様に、根源的な無分節を基礎としているとされ、広義のアジア圏に広く共有されている思想パターンらしいことが示されている。うーん、なるほど、アジア的なものとしてのプロティノス……いいっすね、『エンネアデス』もしばらくご無沙汰しているけれど、ちょっとまた読み直したくなってくるっすね……。

天使の場所

久々にブログ「ヘルモゲネスを探して」をまとめ読み。「針先で踊る天使たち」というシリーズが続いていて興味深い。ちょうど『中世の哲学的問いにおける天使』(“Angels in Medieval Philosophical Inquiry”, ed. Isabel Iribarren & Martin Lenz, Ashgate, 2008という論集を読み始めたところで、これに、以前天使論の言語研究とかを出していたティツィアーナ・スアレス=ナニがスコトゥスがらみでの分離実体の場所論(位置論)を寄せていて、その前段部分が天使の場所論についての簡潔な整理になっている。

画域的(circumscriptive)場所と限定的(definitive)場所という概念を導入したのはペトルス・ロンバルドゥスなのだそうで、とりわけ非物体的被造物について言われるこの後者の概念の理解をめぐって、後世の議論が巻き起こるという。トマス・アクィナスは天使の場所のと関係は、その天使の知性的・意志的な作用から生じるとし(ゆえに天使は画域的にではななく、限定的に場所に関係する)「最小限」の場所性を唱える。ローマのジル(エギディウス・ロマヌス)はその説を踏襲し、天使が及ぼす作用(行為)は必ず場所に結びついており、よって天使も場所的に限定されるというふうに敷衍する。後のペトルス・ヨハネス・オリヴィになると、天使は行為のほかに、共存在や運動においても場所に関係するとし、作用のみに限定されない、場所との本質的な関係があるとする。同世代のアクアスパルタのマテウスは、作用による場所との関係説を斥け、被造物にはそもそも空間的な限定が内在していると論じるようになる。メディアヴィラのリカルドゥスも同様。こうした流れの中で、ドゥンス・スコトゥスの独特の場所論が登場し(場所を性質・本質とは見ずに、むしろ数量と形状として考える)、天使は必ずしも場所(自然の場所)では限定されないというテーゼが展開するのだという……。うーむ、スコトゥスの場所論・天使論はちょっと興味のあるところなので、近々メルマガのほうで取り上げようかとも思案中。

14世紀のアヴェロエス主義

アラン・ド・リベラの『主体の考古学』第2巻は、フランスのこういう連作ものにありがちなように、スタイルもアプローチも1巻目とは大幅に違っていて、個人的にはなにやら取っつきにくい。主体問題がとりあえず喫緊の問題ではないのだけれど、行きがかり上というか、もうちょっと中世にきっちりこだわった議論が読みたいと思い、オリヴィエ・ブールノワ編『主体の系譜学 – 聖アンセルムスからマルブランシュまで』“Généalogies du sujet – de Saint Anselme à Malebranche”, ed. Olivier Boulnois, Vrin, 2007)を見始める。これ、従来の論集に比べて特徴的なのは、どの論文もトマスやドゥンス・スコトゥスなどの主軸の人物たちではなく、アンセルムスはともかくとして、多くが14世紀の後期スコラを論者たちを主に扱っているところ。少し研究風土が変わってきたのかもしれない(?)。

ちらちらと見た限りでは、ジャン=バティスト・ブルネの論考が興味深い。「主体」としての個人意識の高まりが「アヴェロエス主義」への反動を契機として強まった側面を、トマス以後の14世紀の思想的風景の中に描こうというもの。たとえばアヴェロエス擁護派のジャン・ド・ジャンダンは、ブラバントのシゲルスを触発される形で、トマスが詰問したアヴェロエス的な能動知性の分離の考え方に、人間は身体と知性から成る集合体で、その理解も個別的理解と普遍的理解の結合した二重性にあるという新しい視座を出してくる。これに対して反対するのがリミニのグレゴリウスで、そういう二重性の人間像は日常的経験に反すると論究するのだという。これにさらに続くアヴェロエス擁護派オリオールのペトルスも、ジャンダンに近い議論を展開し、結局この集合体論・二重性論はそれなりの統一性があるものと見なされて、知性の分離の議論もかつての議論とは相当違った様相を見せるのだという……。

そういえば余談だけれど、このところブログ「ヘルモゲネスを探して」さんが、リミニのグレゴリウスによる興味深いスペキエス論について取り上げている。これは必読っすね。