「古代後期からビザンツへ」カテゴリーアーカイブ

再びピロポノスの三次元話

ピロポノスの場所論(『自然学注解』の一部)と、その反・世界永続論に対するシンプリキオスの反論(こちらも『自然学』の一部)を英訳でまとめた一冊『場所、真空、永続性』(“Place, void and eternity”, trans. D. Furley, C. Wildberg, Cornel University Press, 1991)を古書店で結構安く手に入れた。どちらもガリカから落としてきた希語テキストも手元にあるのだけれど、注とかいろいろ参考になりそうなので英訳も持っておこうかなと思った次第。とりあえず、シンプリキオスの反論から読み始める。ピロポノスの議論を要約(あるいは引用)した上でみずからの反論を綴っていくというスタイルで、結果的にピロポノスの議論の大枠がかなり明確に浮かび上がる。とくに「反アリストテレス論」を盛んに引いているのでとても参考になる。

ピロポノスの基本的な議論は「天空も含めて世界は可滅的である」というもので、その根拠として、月下世界も天空もともに質料に依存し、複合体(形相との結合)である限りにおいて解体が可能であるとともに、有限性を宿し、分割可能でもある……といったことが挙げられ、したがって可滅なのだとされる。ピロポノスは天空と月下世界との構成要素(それぞれ第五元素と四元素)を分けずに議論を組み立てているようで、その点がなかなか斬新(笑)。天空の物体(天体)も複合体だという議論の中で、天体とて形相を取り払ってしまえば、後はその「三次元(の基層)」のみが残るのだから、その点では地上世界の物体となんら変わらない、とピロポノスは述べているのだという。この部分には訳者(ウィルドバーグ)の注があって、新プラトン主義的な第一質料の考え方への批判は例の「反プロクロス論」の中で展開していることが記されている。なるほどね。参考文献としてソラブジやウィルドバーグの書が挙げられているので、そのうち見ないと。

シンプリキオスは論点別に逐一反論を加えるわけだけれど、基本的には論理的不整合を指摘しまくるというスタンス。この間の八木雄二氏の本でも、「西欧の哲学の基本は論争のやりとりであって、日本のように人生観その他の理解が先に来るのではまったくない」みたいなことが繰り返し言われていたけれど、こういうやりとりを見ていると、改めてそのことが如実に感じられるかも。論争はリスペクトの裏返しだとも言われたりするけれど、もしそうならそれはうらやましい限り。なにしろこの島国では……(以下自粛:苦笑)。

ポルピュリオスの反キリスト教論

これも昨年末ごろから少しづつ目を通していたものだけれど、Bompianiの対訳本シリーズで昨年出たポルピュリオスの『反キリスト教論』(Porfirio, “Contro i cristiani”, trad. Giuseppe Muscolino, Bompiani, 2009)。どういう異論をぶつけるのかと思っていたら、直情的とも言える身も蓋もない反論の数々だった(苦笑)。ま、むしろそれだけに、ある意味面白くもあるのだけれど。ポルピュリオスのこの反キリスト教論は文書として残っているものではなく、例によって証言の数々を収集したもの。ドイツのプロテスタントの神学者だったアドルフ・フォン・ハルナックが10年ほどを要してまとめあげ、1916年に刊行した断片集がそれ。今回の対訳本は、ギリシア語部分のみならず、そのドイツ語序文ほかも含めて伊語に全訳したというもの。

それにしても鮮烈なのは内容だ。章立てだけ見ても批判対象の拡がりがわかる。使徒たちの性格や信頼性、旧約聖書の記述、イエスの言動、教義内容など、とにかく手当たり次第に歯に衣着せぬ物言いで文句を言う。たとえば最後のほうにある「復活の教義」をめぐる一節では、「火で燃やされたり虫に食われたりして朽ちた遺体が蘇るとはどういうことなのだ」と言い、「神には奇跡ができると言うけれど、ホメロスを詩人でなくはできないし、イリオス勢が負けないようにもできない。2x2を5にはできない。神とて全能ではない。善なる神は悪だってできない」みたいにあけすけに食ってかかる。ま、全体としては素朴な反論という感じではあるけれども、それにしてもプロテスタントの宗教家がなぜこうした書をまとめ上げたかという点もなかなかに興味をそそるものがあるかも。

雑感:質料の限定

昨年末からちびちびと読んでいるピロポノス『世界の永遠について』(『反プロクロス』)。基本的にはプロクロスのもとの議論に対してピロポノスが反論を加える形なのだけれど、プロクロスの議論は18あるとされている。で、Brepols刊の2巻本の第二巻は5つの議論(5章分)しか収録されていない。これ、残りは続刊ということになるのかしら。収録分は、原因(デミウルゴス)と結果(世界)とは等質ではない(永遠であるならば等質でなければならないというのが前提?)と強調する第1章、プラトン的なイデアの永続性を論拠にすることへの反論をなす第2章、現勢態・可能態の違いを説明する第3章、現勢化と運動について詳述する第4章(今ここの途中)と続いているのだけれど、個人的に関心のある質料形相論的な話は当面出てきそうにない(笑)。で、そんな中、ピロポノス関連の書籍にそのあたりの話を取り上げたものがあると聞き、Google Booksで覗いてみる。デ・ハース『ピロポノスによる第一質料の新定義』(Frans A. J. de Haas, “John Philoponus’ New Definition of Prime Matter: Aspects of Its Background in Neoplatonism and the Ancient Commentary Tradition”, Brill, 1997)というもの。

さしあたっては購入しないけれど(苦笑)、Googleの内容見本表示をざっと読んでみると、なにやらピロポノスは第一質料に三次元的限定を導き入れている、みたいな話のよう。ほとんどこれ、『反プロクロス』の11章の内容の詳述という感じなので、ちょっと原文のほうを見ないと何とも言えないけれど、もしそういう話だととすると、これってトマスが個体化論で述べていた(ちょっと前のメルマガで出てきた)、次元として指定された(限定された)質料という考え方の「源流」のような印象も受ける。もちろんトマスがピロポノスを読んでいたなんていう文献学的な話ではなくて(それはちょっとありそうにない)、トマスのテキストが醸すある種のわかりにくさを、ピロポノスあたりを併読することによって和らげられないかとか、あるいはまた、キリスト教の側からのアリストテレス解釈のある種の「型」が浮き彫りにならないかとか、そんなことを思っているわけだけれど。

連続か断絶か

相変わらず養生中。このところビザンツ関連ものに目を通しているけれど、これまた基本図書と思える一冊を読み始める。井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』(京都大学学術出版会、2009)。とりあえず第一部まで。ビザンツ世界がギリシア・ローマ文明と連続していたのか断絶していたのかをめぐって、ここでは都市の変貌から探りを入れている。4世紀から7世紀にかけて、ビザンツ世界では「ポリス」に代わって「カストロン」という語彙が都市を指すようになるというが、その内実はどう違っていたのかが取り上げられる。ポイントは二つで、一つは都市の自治の問題。もう一つは「パンとサーカス」と称される、パンの配給と娯楽施設の問題。いずれも都市機能的に大きく様変わりした様子が描かれている。他民族の侵入などはそうした変化のトリガーとして大きなものだったとされている。なるほど、都市の形態的な様変わりは、その都市が置かれた政治状況、文化状況をおのずと物語っているということか。