SISMELから出ている論集『中世からルネサンスの医学、占星術、魔術−−アーバノのピエトロを中心に』(Médecine, astrologie et magie entre moyen âge et Reinassance: autour de Pietro d’Abano, ed. J,-P. Boudet, F. Collard, N. Weill-Parot, Sismel, 2013)を見始めたところ。早速一つ面白い論考があった。シャンドリエ「アーバノのピエトロと医学−−14世紀初頭のイタリアにおける『調停の書』の受容と評判」(Joël Chandelier, Pietro d’Abano et les médecins : Réception et réputation du Conciliator en Italie dans les premières années du XIV siècle, pp. 183 – 201)。アーバノのピエトロは同時代人や後世の人々に多大な影響を及ぼしたと言われていたけれど、どうやらそういう評価が確立したのは15世紀、正確には1420年から40年くらいなのだという。この論考は、ではそれ以前の評価はどうだったのかというところに的を絞り、主著『調停の書』発表(1310年ごろ)直後のイタリアでの評価を追っている。ここでは主に二人の同時代人の評価が示されている。ジェンティーレ・ダ・フォリニョ(1348没)とディーノ・デル・ガルボ(1327没)だ。これらはいずれも、ピエトロの没後からほどなくしてその著書を自著で取り上げるも、高い評価を与えず、とくに後者などはアヴィセンナの『医学典範』にもとづいてガレノスへの回帰を説き、ピエトロやアヴェロエスなどからの批判を斥けているという。総じて、そうした低評価はしばらく続いていたようで、論文著者はそれを、ピエトロが大学の枠組みの中で孤立していたことや、占星術の修得を説いていることなどがその原因ではないかとしている。なるほどそれは、アヴィセンナ(ガレノス=アヴィセンナの路線がイタリアの大学の医学部の主流派だったようだ)が占星術の計算の価値について留保を示していたのと対照的だということか。逆に今度は、1420年ごろから16世紀初頭にかけて、印刷本を中心としてピエトロの主著が徐々に好評を博していったという理由も気になるところではある。
夏なので……というわけでもないけれど、ちょっとゆるめに論文読み(笑)。ドミニク・グレース「ロミオと薬剤師」(Dominick M. Grace, Romeo and the Apothecary, Early Theatre, vol.1, issue 1, 1998)は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で、ロミオがジュリエットの死(仮死)を知らされた後で、みずからも命を絶つための毒を買いに薬剤師のもとを訪れる場面について検討しようというもの。その薬剤師の店の描写がなにやら饒舌で、なんでそんなところが詳しく描かれているのか、プロット上、ロミオの毒の入手元というだけなのに、この手厚い描写は何なのか、というわけだ。で、シェイクスピアが描くその薬剤師は、貧困層の人物として描かれていて、シェイクスピアが元の素材として用いた、英国の16世紀の詩人アーサー・ブルックの詩でも同様だという。シェイクスピアは素材からの逸脱を公言しているらしいのだけれど、ではこの部分はそのままにしている、というかむしろ膨らませているのは一体なぜなのか、と。
モニカ・アッツォリーニ「星に健康を読む−−ルネサンス期ミラノの政治と医療占星術」(Monica Azzolini, Reading Health in the Stars – Politics and Medical Astrology in Renaissance Milan, Horoscopes and Public Spheres: Essays on the History of Astrology, vol. 42, 2005)という論文を読む。15世紀のミラノにおいて、医療占星術はどういった用いられ方をし、どう受容されていたのかを検討しようという論考。導入部分の掴みとして取り上げられている話がなかなかに興味をそそる。1492年にルドヴィーコ・イル・モーロ(スフォルツァ)は、教皇インノケンティウス八世の病状について占星術史のアンブロージョ・ヴァレージ(Ambrogio Varesi)に予言を依頼した。ヴァレージは教皇の死を予言し、教皇は日時的には前倒しで亡くなったものの、ルドヴィーコは別段その占星術の信頼性を疑うこともなく、一方で「次期教皇はスフォルツァ家に有利な人物になる」という予言に安堵さえし、さらに弟のアスカーニオもその予言を信じて政治的影響力を奮い、ロドリーゴ・ボルジアの選出(アレクサンデル六世)に一役買ったという……。
このように、日時占星術も歴史上重要な役割を担っていたことが窺えるというわけなのだけれど、論文はもう一つの宮廷占星術の中心とされる医療占星術を主に扱っている。そちらもまた、同時代的批判もあったものの、医者も患者も医療占星術を斥けるどころか、先端的な科学と見なされて信頼を得ていたらしい。パヴィア大学の医学部のカリキュラムは史料があまりないらしいのだけれど、論文著者はボローニャとの密接な関係から同じようなカリキュラムが採用されていたと推測している。学生はたとえばガレノスの『厄日について(De diebus criticis)』の三つの書を最初の三年間で学び、三年目と四年目では偽プトレマイオスの『ケンティロクイウム(Centiloquium)』、ギレルムス・アングリクスの『見えない尿について(De urina non visa)』などを占星術の訓練の一環として学んだのだろうという。さらに学生のノートには、多くのアラブ系の占星術文献からの一節が散見されるのだとか。論考はさらにパヴィア公の私設図書館の蔵書を取り上げ、最終的にミラノ公ジアン・ガレアッツォ・スフォルツァの病気と死について、同公がルドヴィーコやアスカーニオに宛てた書簡の分析を行っている。個人的に気になるのは、やはり同時代的にそれなりに存在していたらしい占星術批判だ。論文著者は注のところで、イタリアのエリート層や医師たちが実際にどの程度医療占星術を信頼していたかは、宮廷占星術のさらなる研究がなければ確証できないと述べた上で、医療占星術への批判を展開する著者がそれなりに多いことは、逆にその医療占星術がそれなりの人気を博していたことを示している、とも述べている。代表的な批判者として挙げられているのはピコ・デラ・ミランドラ、またさらに後の16世紀のフラカストロとトゥリニの論争なども言及されている。うん、いろいろチェックしてみたいところだ。