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スアレス『形而上学討論集』から 5

続きの部分。今度はフォンセカによる概念の区分だが、フォンセカ自体の資料が手元にないので、細かい点が確認できていないのだけれど、とりあえず字面にそって訳出してみる。ちなみにフォンセカ(ペドロ・ダ・フォンセカまたはペトルス・フォンセカ:1528〜99)は16世紀ポルトガルのイエズス会士。アリストテレス注解などを残しているいう。単一形相論を支持しているという話もあるようなので、ひょっとしてトマス主義に近い立場を取っているのかもしれない(このあたり、詳細は不明)。

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4. これに近いフォンセカの見解 ーーフォンセカはこれとさほど違わず、存在者の概念を三つ区別している。すなわち分離的概念、混在的概念、そして中間的概念である。この最後のものは部分的に混在し部分的に分離しているものである。分離的概念とは、存在者が直接的に意味するあらゆる単純な実体を、他と区別し明示的に表す概念であり、単数ではなく複数の概念をなす。混在的概念とは、あらゆるものを混在的かつ非明示的に表す概念であり、それは単数の概念である。中間的概念は部分的には混在的概念、部分的には分離的概念であるようなもので、任意の自然本性、たとえば実体を限定的に表す。他にもその概念は、量や質などを、なんらかの類比にもとづき、実体にそぐう限りにおいて暗示的・非限定的に表す。また、それは単数の概念であると言われる。

5. それほどの区分の多様性が、明晰さの助けになる以上に妨げとなっていること ーーだがこのような区分は、根拠のない多様化であり、事物を説明づける以上に混乱させているように私には思われる。というのも、ここで私たちが語るべきなのは、存在者の形相的概念についてだからだ。つまり、かかる言葉のもとで理解されるすべての事物について、言葉そのものとしてではなく、その言葉が意味するものとして認識され理解されうるもののことである。さらにその概念は、存在者の概念について、それを存在者として表す言い方ではなく、実在する、あるいは可能態であるようなあらゆる事物の概念について、それらがかかる事物として互いに区別される限りにおいて表す言い方であり、同著者が正しく指摘したように、神のみを例外とし、いかなる者も単一の形相的概念でもってそれを明確に概念化することはできないのである。だがその意味では、実体ないし生物の概念がそのような方途で明確化され区分されるのであるなら、そのような概念は、あらゆる実体、あらゆる生物がしかじかのものとして明確に概念化される、拠り所の概念となるだろう。かくしてただ神のみが、実体や生物を区分する形相的概念を有することができるだろう。

スアレス『形而上学討論集』から 4

また間が空いてしまったが、とりあえず粗訳。形相的概念と対象的概念のペアにはいろいろなヴァリアントがあるようで、今回の箇所はフランチェスコ・シルヴェストリ・ダ・フェラーラ(1474-528)による区分が取り上げられている。シルヴェストリはイタリアのドミニコ会士で、トマスの『対異教徒大全』の注解書で知られる人物とのこと。

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3. 第二の見解はむしろ前述の見解の説明になっているが、それはフェラーラ(フランチェスコ・シルヴェストリ)の『対異教徒大全注解』第一巻三四章のもので、二つの概念を区別している。フェラーラは一つを名称的概念と称し、もう一つを事物的概念と称している。彼は前者を、存在するものの概念の一つでありうると述べ、一方の後者は少しもそうではないとし、両者とも存在の類比にもとづくものとしている。また、そのような在り方を、共通する類比の考え方から説明づけている。類比は二つの意味で理解されうる。一つは、名称によって意味づけられる実際の固有な概念の場合である。この場合、類比とされる限りにおいて、実際の概念を一つではなく複数有している。そのことは類比的な比例関係でも、比例関係もしくは帰属関係の場合と同様に明らかである。たとえば今、「笑っている」という言葉を聞いて、意味される事物の固有の概念が形成されるとするなら、それは一つではなく二つの概念となる。一つは固有性および形として笑っている人物の概念である。もう一つはなんらかの比例関係のみによってそのように称された、野獣の概念である。仮にこれらの概念の両方ではなく、一方のみが形成されるとするなら、類比の全体にもとづいてその言葉が理解されることにもならないし、事物を指す共通の意味にもとづいて理解されることにもならず、単に人間を一義的に表すだけか、あるいは単に意味を移しかえただけで、隠喩的に野獣を意味するかのいずれかでしかない。帰属関係の類比の場合も同様である。「健康な」を例に取ろう。意味される事物に固有の概念が形成されるのであるなら、それは単一ではなく複数となる。一つは、形および固有性において健康であるような動物の概念である。もう一つは、様々な慣例もしくは呼称によって動物の健全さについて外的に健康と称する場合の、他の事物の概念である。だがいずれの場合でも、その類比からは、事物よりもむしろ言葉の意味を表す一つのきわめて不明瞭な概念が形成されうる。「健康な」という言葉を聞いて、健全さへの秩序を理解するような場合である。目下示している場合でなら、「存在するもの」という言葉を聞くことで、なんらかの存在があること、あるいは存在への習性があることを表す、不明瞭な概念が形成されうるのだ。だがこれは名称的概念であるにすぎない。一方、実際にその名で意味される事物が概念化されるのであれば、形成されるのは一つではなく複数の概念ということになる。

スアレス『形而上学討論集』から 3

第二討論第一部の続き。ずいぶん間が空いてしまっているが、暇をみて訳出していくことにしたい(苦笑)。本文はここから諸説の検討に入っていくようだ。まずはカエタヌス(1469〜1534)の説。ドミニコ会士でバリバリのトマス派ということで、基本的には存在の類比説を取っているらしい。同じく言及されているフォンセカ(1528〜99)はスアレス同様イエズス会士。

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2. 最初の見解は、存在者に形相的概念−−それ自体一つであるとされ、特定の存在者を表す他の概念から区別された概念−−が与えられることを絶対的に否定するというものだ。これは、小著『名前の類比について』第四章と第六章でカエタヌスが示した見解である。それは不明瞭な形で述べられており、完全な概念と不完全な概念を区別してはいるが、一方でその区別は、次に取り上げるフォンセカの区別と一致する。注意深く読むならば、まさにそれが(フォンセカの)見解であるように思われる。フォンセカは、『形而上学註解』第四巻第二章第二問第二部において、それは真理に達しているか、あるいは真理に限りなく近いところにあると述べている。もしそうでないなら、存在者は一義的であって類比的ではないことになってしまうから、というのが(この見解の)根拠だが、われわれが後に検討するようにそれは偽である。その結論部分は、名前が共通する事物はどれも一義的だという理由で論証されている。アリストテレスが『範疇論』の冒頭で述べているように、名前に実体が割り当てられる根拠(ラチオ)は同一である。だが、存在者という名前はすべての存在者に共通する。したがって、名前の根拠には同じ一つのものがあるのみで存在者は一義的であるか、あるいはまた、根拠は一つではなく存在者の形相的概念も一つではありえないかのいずれかとなる。なぜなら形相的概念は、しかるべきものとしてそれが指示する一つの事物、もしくは一つの概念的思惟から、その一体性を得ているからだ。それゆえ、かかる概念がしかるべき存在者を表す言葉もしくは名前であるならば、その名前で意味される存在者以上に一体であることはありえない。

denominatio extrinseca


スアレスにも出てくる「denominatio extrinseca」。先の山内志朗『「誤読」の哲学』では「外的名称規定」と訳され、対象(オブジェクト)をめぐる探求の途上で重要な位置を占めていた。けれども、これは主体(サブジェクト)の問題においても要の一つとなっているらしい……。前半の途中で投げ出してしまっていたアラン・ド・リベラ『主体の考古学II – 同一化の探求』(Alain de Libera, La quête de l’identité (Archéologie du Sujet II), Vrin, 2008)の後半部分に、そのあたりを追った議論があることを最近改めて知り、そんなわけでとりあえずざっと読んでみた。この『主体の考古学』第二巻は、一巻目とは趣を異にし、近世や近代と中世を自在に行きつ戻りつしながらリベラお得意の図式化などが多用されるため、なかなか読むのがしんどい。ちゃんとした理解になっていない感じはするが、とりあえず大枠だけメモしておこう。denominatioとは呼称のことだが、ある対象物を述語づけるときに、その述語が本質・内在に立脚している場合と、外部的事象に立脚している場合に分け、前者をdenominatio formali(形相にもとづく名づけ)、後者をdenominatio extrinseca(外的事象にもとづく名づけ)と称している(extrinsecaは、その対象物に本質的に属していないという意味で、付帯的なもの、偶有的なものを意味したりもする)。当然ながらこの概念にも変遷の歴史がある。が、リベラはそれを直線的でない形で示そうとしている。それほどまでに複雑に錯綜しているということ……なのかしら。

たとえば、「ある物体が熱い」と言う場合、それはその物体を形相的に名づけたことになり、一方で「ある物体は熱くなった」と言う場合、それは外的事象にもとづいて名づけたことになる、とされる。こうした「形相にもとづく」と「外的事象にもとづく」の違いの議論は、たとえばヘルヴァエウス・ナタリス(14世紀のドミニコ会士)の「全論理学大全(Summa Totius Logicae)に見られるといい、リベラによると、そこでの区分では、作用を及ぼす側か、作用を受ける側かの区分に重ねられているといい、さらには作用が内発的・自律的か、作用が推移的・他動的かの違い、あるいは形相因・作用因の違いにも重ねられているという。『「誤読」の哲学』でも指摘されていたが、「外的事象にもとづく」とされる場合の「主体」(上の例なら「ある物体」)は、作用を被る対象としての位置関係にあるという意味で、現行の主体概念との逆転が見られるのが特徴的だ。で、少し後世のカエタヌス(16世紀初頭のドミニコ会士)になると、思考の対象が現実的・潜在的に「外的事象にもとづいて」知解可能であると「名づけられる」ための条件が規定される。ここから、対象が思考となる契機がそのまま「外的事象にもとづく名づけ」とイコールになっていくらしいのだが、それはたとえばデカルトの『省察』への反論で知られる(寡聞にして知らなかったが)ヨハネス・カテルスなどの議論などに見られるらしい。そこでは、「観念になる」とは、知解に対象として入ること、対象という形で知解の作用を終わらせることとされる。これなどは、スアレスの「概念」の区別にも重なるスタンスだ。「外的事象にもとづく名づけ」は、その後も意味の場を拡げるようで、18世紀のサミュエル・クラークやトマス・リードにまで受け継がれ、属性の理解や知覚対象にまで拡大されていくのだという……。

主体の考古学という同書あるいは同シリーズの全体からすると、この概念の変遷を追うだけではまだ道半ばということで、ここからいかにして思考の主体・思考する主体が現れてくるのかが問題となっていくらしいのだけれど、それは続くあと二巻(と宣言されている)に委ねられる。うーん、なかなか壮大な計画ではあるけれど、時代を縦横に行き来するこの記述スタイルも、やはりこのまま維持されていくのかしら?(苦笑)

スアレス『形而上学討論集』から 2

第二討論第一部。その第一節の残り部分。前回の冒頭の箇所をざっと眺めてみると、形相的概念と対象的概念という対は、視点を変えただけで同じ一連のプロセスが表されているかのような印象を受けもする。というわけで、まずは先を見てから考えることにしよう。

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(承前)そこから、形相的概念と対象的概念との差異が得られる。つまり、形相的概念はつねに真かつ肯定的な事象[res]であり、被造物においては精神に内在する性質だが、一方の対象的概念は、必ずしも真かつ肯定的な事象ではない。というのも、私たちはときに欠如や、知性のうちにのみ対象的な存在をもっているがゆえに私たちが「考えられた存在」と呼ぶものを、概念として抱くからである。さらに、形相的概念はつねに単一で個別的な事象である。その事象は知性によって生み出され、知性のうちに内在するからだ。一方の対象的概念は、ときには単一で個別的な事象でもありうる。精神において対象に据えられうる限り、また形相の作用によって概念として抱かれる限りにおいてだ。だがそれは多くの場合、たとえば「人間」や「実体」、その他類似のもののように、普遍の事象、あるいは混淆した共通の事象なのである。ゆえにこの討論では、私たちはとりわけかような存在の対象的概念について、その全体的な抽象、すなわちそれゆえに私たちが形而上学的な対象であると述べた理由にもとづき、説明づけたいと考えている。だが、これはきわめて難しく、私たちの概念形成に多く依存していることから、私たちはまず形相的概念について考えることにする。そちらのほうが馴染みやすい、と私たちには思えるのだ。