「スアレス研」カテゴリーアーカイブ

「スアレスと形而上学の体系」 4

形而上学的な抽象知に、神学的な直観知を対立させるスコトゥスは、認識についての理論の新たな途を開いたのだという。つまりこういうこと。直観知では、精神による直接的な把持が問題になるため、対象の「現前性・実在性」(プレゼンス)は捨象される。ところがそうすると、そこから現前性・実在性に依存しない新しい「現実性」の概念が描き出されるようになる。で、はるか先のスアレスにまで至るのだ、と。というわけで、第二部第一章の中心的テーマはその直観知のリアリティだ。抽象知はかならず何かを媒介にする認識形態。当然そこにはスペキエス(認識の媒体)論の長い系譜があるわけだけれど、一方でスコトゥスは、その「スペキエスによる代示」に対して「おのずと現出する対象」を区別する。直観知が把握するのは一般にモノの本質、何性だとされるわけだけれど、そういう本質、何性は「おのずと現出する」というわけだ。でもこれは結構曖昧な規定だ。そしてこの曖昧な規定が、その後長く議論の俎上に上り、直観知をめぐる考察を深化させていくらしい。

たとえばペトルス・アウレオリ(フランシスコ会、スコトゥスの弟子?)。「知解とは一種の運動である」と考えるアウレオリは、その運動はまず「対象との対峙」という現象学的な側面をもつと考える。この現象学的な対峙に、対象の代わりとなる意志が現れるのだとし、そこに対象の現実的な現前が捨象されることを見てとる彼は、「直観知も一種の抽象知なのだ」という説を唱えるようになる。で、そこで対象を媒介するのは、現れるものの「対象性」そのものにほかならない、と彼は主張する。これはまさに一大転換で、スペキエスは「何かを担う」ものではなく、「対象として現れる」ものになる……。この説はリミニのグレゴリウスジャン・ド・リパなどの批判を経て、結果的にスペキエス概念を脱してくのだけれど、一方では精神的な事象からの客観的対象の遊離という議論も出てきて(ミドルトンのリチャードなど)、スペキエスは「偽の形象(figmentum)」という扱いになっていく。そしてこれを事実上葬るのがオッカムの唯名論ということになる。

けれどもオッカムは、経験的「現実」の直接的理解と言うだけでその内実についての議論はしていないという(うん、その話はどこか余所でも聞いた気がする)。そこで持ち出される「esse-existere(実在的存在)」という概念は、逆説的ながらガンのヘンリクスの(アヴィセンナから着想された)「esse-essentiale(本質的存在)」(本質に固有の存在を認める立場)に戻っているようにも見えると著者は指摘する。なにやらとても実在論っぽいというわけだ。その新しい「現実」を精緻化する人物としてあげられているのは、むしろサン=プルサンのドゥランドゥス(ドミニコ会)だったりする。対象がもつ真実性について考察するドゥランドゥスは、対象概念に事物の純粋な外在性ではない中間物、いわゆる縮減的有(ens diminutum)を見るという。これは14世紀以降の思想史的な流れでもあったらしい。

スアレスはというと、このドゥランドゥスの議論(中間物の議論)は斥けるものの、「対象性」を前面に出して、それをもとに真実性の文脈に位置づけるという基本的スタンスは温存しているという。結果として、スアレスの「レス」概念はまさにそうした、「対象性」に縮減された限りでの「モノ自体」なるものに帰着するのだという。スアレスは唯名論には批判的なのだけれど、そのレス概念は上のガンのヘンリクスにも似ているし、さらにはオッカムに至る唯名論サイドの議論にもやたらと近いということにもなるらしい。そのためエティエンヌ・ジルソンなどは、「スアレスの本質主義」といった言い方さえしているのだとか。うーむ、このあたり、なかなか複雑そうなだけに、ぜひ原テキストで確認したいところ。さらに、こうなってくると知性論にとどまらないスアレスの形而上学的なスタンスにも関心が出てくる。で、それがまさに次章のテーマらしい。

「スアレスと形而上学の体系」 3

J.F.クルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』第1部4章はまだ前段で、「トマスの周辺」という表題。トマスが屹立させた、とりわけ存在論を扱う学問としての形而上学だが、ではその師匠や弟子たち、対立する派などはどう捉えていたのか、という内容。まずはアルベルトゥス・マグヌスの場合。著者によるとアルベルトゥスは形而上学を、「存在者である限りの存在者(ens inquantum ens)」を扱う学問と見なしていたといい、基本的に存在論である限りにおいてのみそれは神学的であるとしていたという。つまり形而上学が扱う第一原理は「端的な存在」であって、神はいわばその「主題」の原因として形而上学に結びつくということになるらしい。学問の統一性をもたらすものとして存在論を考えているところが、トマスと共通のスタンスだという話。

次に登場するのはエギディウス・ロマヌス(トマスの弟子)。エギディウスは、一見トマスの議論に忠実に従うかに見えて、実はそこに根本的な違いを導き入れているのだという。トマスが(アルベルトゥスも)神は存在の原因として外部的にのみ形而上学に関わってくるとしていたのに対し、エギディウスは、学知の扱う主題には最終的な考察対象(つまり神)も含まれるべきだとして、神は形而上学の一つかつ特権的な対象となると考えていたらしいという。形而上学のいわば神学化だが、同時にそれは、「存在そのものとしての存在者」を考察するという学知に神を落とし込む(限定的な学知に収まらない部分をすべて排除する)という意味で、神の存在論化を決定づけるものでもあった、というのが著者の考えるエギディウスの立場だ。

さらにトマスの弟子筋として取り上げられるオーベルニュのピエールは、また反対の方向にトマスの論を引っ張っていくらしい。存在論と、その存在の原因の考察との関連を断ち切り、被造物についてのトマス主義的な存在論(存在の類比)を暗に否定しているというのだ。存在論としての形而上学の主題に神が関わってくるとすれば、それは存在の原因としてであるというよりも、あくまでそれ自身が存在である限りにおいてなのだという。なにやらややこしいが、これも一つの「学知への神の落とし込み」ということではありそうだ。

で、その後に登場するのはまったく異なるアプローチのドゥンス・スコトゥス。形而上学の考察対象をめぐり、それを神と分離知性であるとするアヴェロエスと、存在そのものであるとするアヴィセンナの、ちょうど狭間を足場としようとするスコトゥスは、神の直接認識から演繹的に推論する立場はむしろ神学的であるとし、一方では神はそもそも原因としてあるのではない(意志でもって自由に作用する)として、存在の原因とするトマス主義的な立場を否定し、存在論としての形而上学には神学としての形而上学が先行していなくてはならないのではないか、一般的・普遍的な<形而上学的>規定の中に同時に特殊な<神学的>規定(存在の第一者)が必要なのではないかと、いわば形而上学の二重化を示唆しているのだという……。スコトゥスはなにかこう、形而上学の核の部分を神学として取り出すことで、矮小化にも聞こえる「学知への神の落とし込み」ではない、超越性の復権みたいなことを考えているように見える。うーむ、このあといよいよスアレスの思想へと話が及ぶわけだが、こうした形而上学と神学の関係性の問題がどうなっていくのか興味深いところ。

「スアレスと形而上学の体系」 2

アヴィセンナによる(と著者は言う)哲学者にとっての神学と、聖なる教義としての神学の区別を、別の形で受け継いでいるのがトマス・アクィナス。というわけでクルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』の第1部2章、3章はトマスが主役。基本的にトマスは、抽象性(非物質性)の高い対象を扱うほどその学問は高度なものになるという考え方のもと、形而上学を「共通に(一般に)存在するもの(ens commune)」を扱う学問として位置づけている。その際の「共通」を「述語によるもの」と「因果関係によるもの」とに分けて考えることで、神的なものの学知は、「われわれにとっての」学知と「それ自体での」学知に区別されるわけだ。で、ここで両者の関係が大いに注目される。アリストテレス的には、知性の自然な光から発する学問(幾何学や算術)と、それらの学問によって照らされるがゆえに派生的に生じる学問(光学や音楽)があり、後者は前者に依存する。とするなら、一見「われわれにとっての神学」は「それ自体としての神学」に依存するかのように見える。ところが対象が神であることで、その関係性は大きく変わってしまうのだ。「われわれにとっての神学」というその副次的に見える学知は、神という対象によって照らされるものであるがゆえに(とトマスは考える)、それは比類なき最高の学問となってしまう。このいきなりの逆転によって、哲学としての神学(われわれにとっての神学)は屹立する。そしてまさにこのことから、「一般に存在するもの」を対象とする存在論、存在神学の成立が可能になる……。

要するに著者によると、トマスの貢献というのは、神学(そのものとしての)との明確な区別を通じて、ある意味逆説的に形而上学の至高性を高めた、ということになるらしい。アリストテレスは、神的事象へのアプローチを賢慮と学知という二重性で規定しようとしていたということだけれど、トマスはそれを修正し完成させたのだ、というわけだ。この、アリストテレスの企図の修正者としてのトマスという評価は、意外に検討されていないと著者は述べている。

「スアレスと形而上学の体系」1

さてさて月も変わったことだし、個人的にはスアレスについても(フランシスコ・スアレス:16世紀後半から17世紀初めにかけて活躍したイエズス会の神学者)もうちょっと取り組みを本格化したいところ。そんなわけで、まずは手始めにジャン=フランソワ・クルティーヌの『スアレスと形而上学の体系』(Jean-François Courtine “Suarez et le système de la métaphysique”, PUF, 1990)を読んでいくことにした。メモ風にまとめていくことにする。この本、裏表紙に「これはスアレスについてのモノグラフではなく、<スアレス・モーメント>を形而上学の歴史に、つまり様々な変貌に彩られたアリストテレスの形而上学の伝統に位置づけるべく、長大な期間を扱った研究である」と記されている。少し搦め手のような感じもするけれど、逆に哲学史的にはまっとうで面白そうなアプローチかも。

まずは第一章。これは序章なのでスアレスはまだ登場せず。形而上学の伝統という点から常に問題になるのは、それが他の学問とどう違うのかということ。言い換えると、形而上学はいったい何を「sujet」(主題)にするのかという問題。もちろんそれは「神」ということとされるわけだけれど、これに関してはアヴィセンナがほぼ規範となる定式化を行い、スコラ学とそれに続く長い伝統がそれに準じるのだという。で、そのアヴィセンナの定式化だけれど、まず彼は「神が形而上学固有の主題にはならない」と言い放つところから始める。限定的な個別の学問がその存在を論証したり、対象として理解したりすることはできないというのだ。とはいえ、形而上学は「神についての」探求であるということを認めるアヴィセンナは、結局、学知の「positum」(基本前提 = 主題?)と、探求の対象とを区別するのだという。つまり敷衍するならば、学問(一般)は基本前提が統一されていさえすれば個別の学問の対象がいろいろ異なっても構わないというわけで、そこには神(つまりはその存在)も含まれるということになる。形而上学は、あくまで限定的なアプローチで神の存在を捉える営み、という感じになるのだろうか。そしてこれゆえに、神学者が考える「聖なる教義」としての神学とは異なる、哲学者にとっての「神学」がきっちりと区画されることになるのだという。うーむ、なるほど。このあたり、異教的な「神学」と、カトリックの教義としての神学とが併存している中世のある種独特な混在状況の、背景説明の一端をなしているかもしれない……(?)。