「ナラティブ論」カテゴリーアーカイブ

神話化のプロセス

以前、プルタルコスの『モラリア』から、動物の知性について論じた第63論文「陸生動物と海洋動物はどちらがより賢いか」を読んだが、個人的に、海洋生物についての記述の比重が高かったのがとりわけ印象的だった。観察にもとづくと思われる亀の産卵の工夫とか、伝聞・伝承によるものらしいイルカが難破船を救助した話とか。動物の知性を称揚するあたっては、この後者のように、ときおり神話・伝説の類に言及し、虚実織り交ぜての議論も目についた。今でこそ、そうした伝承譚は無害な神話・伝説としてカテゴライズされているわけだけれど、では新たな神話は生まれていないかといえばそんなこともなく、私たちは案外、多くの神話に取り巻かれて生きている……。

神聖なる海獣―なぜ鯨が西洋で特別扱いされるのかそういう感慨にふけるきっかけは、一つには次の本を読みかけだから。河島基弘『神聖なる海獣―なぜ鯨が西洋で特別扱いされるのか』(ナカニシヤ出版、2011)。これは現代の捕鯨問題についての歴史的背景を負った好著。かつての捕鯨国だったアメリカが反捕鯨に転じたことや、ほかの動物について不問にする不整合的な姿勢などについて、どういう史的な経緯でそうなったのかを、かなり具体的に説明づけようとしている。反捕鯨の現象面だけでなく(それでは表層的なジャーナリズムでしかなくなってしまう)、その裏側(動物の権利をめぐる思想的流れ)、力学(政治家たちの暗躍)、複合性(環境保護団体、ビジネス、マスメディアなどなど)といった様々な側面を捉えようとするところに、アカデミズム的な真摯さがある。様々な要素が組み合わされて出来上がった異物は、まさにさながら反捕鯨の一大神話だ。それは体系をなし、そう簡単には揺るがない。いったんそうした神話系ができてしまうと、それは自走しみずから拡張するようにさえなっていく……。

そういうものはもちろん捕鯨問題だけではなく、これは現代の神話化作用についての重要なケーススタディとしても読むことができそうだ。

「真実か否か」を超えるところ

実用的な過去

今週はヘイドン・ホワイト『実用的な過去』(上村忠男監訳、岩波書店、2017)を読んでいる。とりあえずざっと第三章まで。ホワイトは言わずと知れたアメリカの歴史学者。長大な主著『メタヒストリー』も昨年、邦訳が出ているが、まずは取っ掛かりのよさそうな本書から。基本的に歴史構築主義の立場を取るホワイトは、歴史というものを専門家が練り上げる過去へのアプローチと、それ以外の一般人が判断や決断の拠り所として利用する過去とを区別し、この後者を表題にあるような「実用的な過去」と定義する。その上で、前者のアプローチで用いられる言述がきわめて「文学的」であり、そこで事実とフィクションが明確に分けられないことを指摘する。しかしながら、そのことは、たとえばホロコーストのような前代未聞の事象を前にしたときに大きな問題を突きつける。そのような虐殺行為をめぐる証言や記述が真実か否か、確証が得られなくなってしまうのである。ホワイトは、歴史的記述が真実かどうかと問うことは適切であると認めつつも、それが平叙文以外の叙法をも許容するのはありふれていることを指摘している。

ではこのアポリアに対して、どういうスタンスを取るのがよいのか。ホワイトはここで、上のもう一つの過去へのアプローチ、実用的な過去を活用することを提起する。それは要するに、真実か否かを超えて、一つの証言や記述が、しかじかにあり得た(あるいはあり得る)可能性の条件を言いつのるものである、と捉えるということだ。オースティンの言語行為論にインスパイアされるかたちで、ホワイトは、言述とは話者と世界との関係や、世界の事物同士の関係などを変えていく言語行為にほかならないと考え、たとえばホロコーストの否定論への「正しい」対応とは、それが真実かどうかではなく、そのような言述をもたらす欲望の根底には何があるのかと問うことなのだ、と主張する。こうした「可能性の条件」の探求は、過去への二つのアプローチ、専門家と一般人のアプローチをつなぎ統合する鍵になりうるものでもある、というわけだ。歴史記述の批判的な受容の仕方を開く見識であり、個人的にも、大いに称揚されてしかるべき見解だと思われる。

括りへの抵抗

哲学の“声”―デリダのオースティン批判論駁多少「今さら」感もなきにしもあらずだが、スタンリー・カヴェル『哲学の“声”―デリダのオースティン批判論駁』(中川雄一訳、春秋社、2008)を引っ張りだして読んでいる。邦訳では副題がついているが(少しミスリーディングな感じがする)、そのせいか出た当時はそれほど好意的な反応を見かけなかったように思う。個人的にも第一章を読んで、あまり乗れなかったため放置したままになっていたのだけれど、ちょっとしたきっかけでまた手にとり第二章を読み始めたら、これがなかなかに面白い。カヴェルはオースティンとデリダの両者にそれぞれ直に接する機会があったようで、そうした個人的な関わりなどから説き進めていく。一般的な哲学論っぽくない個人的・回想録的な読み物風スタイルが、やや違和感を抱かせもするけれど(実は原題は”A Pitch of Philosophy : Autobiographical Exercice”(哲学のピッチ:自叙伝的演習)となっていて、そうしたスタイルをちゃんと暗示している)、それがいつしかオースティンやデリダのテキストの解釈へと滑走していくところに、妙に誠実な議論展開が感じられる。

大上段の議論よりも、実体験に寄り添うかたちでの個別の関わり方を大事にするというこのカヴェルのスタンスは、ある意味安易な「括り」への抵抗のように読める。またそれは、カヴェルの眼を通して見たオースティンの基本スタンスとも重なり合う。カヴェルによれば、オースティンは当時の「実証主義」が唱える、言語についての型どおりの考え方に対して、個別の事例をもって反論しようとしたのだという(p.135)。それはまさに「括り」への抵抗だ。その意味では、既成の固定的価値を脱構築しようとするデリダにも、同じような「括り」に対する批判が見られるといい、オースティンとデリダはかくして相互に響き合うことになる。そもそもデリダはオースティンの仕事に「人間の声の根本的重要性を強調」(p.103)していたといい、デリダの議論はオースティンへの批判というよりも、応答を引きだそうとするものだった、とカヴェルは考えている。とはいえ、デリダは(オースティンが闘っていた当の)実証主義からも恩恵を得ていて、個別よりも普遍、個々人の行動よりもシステムが本源的だとする実証主義的な感受性が、脱構築の受容に大きな影響を与えていた、とカヴェルは指摘してもいる。オースティンが本来示していたとされる一般的なものへの拒絶は、それ自体がデリダによって一種捻れたかたちで一般論的に捉えられ、そうした一般化で排除されたものについての問いへと話が進んでいくのではないか、と。このあたり、もしかすると異論もありそうだが、いずれにせよ安易に括りに走らないことは、あらゆる学徒にとっての切実な戒めなのかもしれない。いつか必要になる括りは、いざというときのために取っておくべきなのかも……ということを、改めて感じさせられる。

語りと現象学

現象学のパースペクティヴ哲学と詩歌の関係性については、さらにいろいろ思うところもあるのだが、ちょうどツラツラと眺めている河本英夫・稲垣諭編『現象学のパースペクティヴ』(晃洋書房、2017)にも、そうした問題に触れている論考があり、いろいろと刺激を受ける。最終章にあたる、中山純一「現象学の文学化の試み」。現象学の近年の試みとして「現象学の自然化」(一種の形式化・数学化)の試みがあるというのだが、そのような方法では現象学の語りの豊穣さ、個別的・特異的な体験の語りが生かされないのではという問題から、これを批判的に捉え乗り越えようとするのが同論考の主旨。フッサールやフロイトの語りの失敗を取り上げ、さらにそれに対置されるべきものとして詩人的な語りを、ハイデガーや井筒俊彦、バシュラールなどを通じて復権させようという企て。面白いのはここに井筒が挙げられていることか。取り上げられているのは『意識と本質―精神的東洋を索めて』で出てくる、中世ヨーロッパに流出する以前のイスラム思想におけるマーヒーヤ(普遍的本質)とフウィーヤ(個別的本質)の区別。「もの自体が前言語的に語る」(p.192)とされる後者にこそ、ある種の詩人(リルケなど)のアプローチが重ねられる。このあたり、示唆されているのは手がかりにすぎないものの、そこで喚起される問題は、まさに深められてしかるべきもの。

編者の一人、河本英夫による「触覚性転換−−現象学的探求の拡張」にも、「経験が新たな局面に進んだとき、それを記述するためには、現象学者であっても、詩人であることを要求される」(p.71)と、同じような問題意識が示されている。論考は触覚の問題を扱っていくのだが、とりわけその記述の困難が重要なテーマをなす。対象から受ける直接的な身体感覚・運動感覚を伴わない点で、視覚こそが例外的・特殊なものだといった指摘がとりわけ印象に残る。メルロ=ポンティの再考というのもテーマとして興味深い。

大ヒッピアス

Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library)法概念を扱ったテキストということで読んでみたプラトンの対話篇『大ヒッピアス』(Loeb版:Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library))。けれども例によってこれも多様な読みができる一篇。基本的に美の定義をめぐる対話ということなので、意味論の方向へと開いていくというのがまずは順当な読み方になるのだろうか。この問題については、対話は美的な行いとはどんなものかという問いから入っていくのだけれど、そこから、美しいものをそのようなものとして成立させているのは美によってか、対象から離れての美はありうるのか、たとえば有用性は美であるか、美の強度(という言い方ではないにせよ)はどのようにして決まるのか、視覚・聴覚を介した快が美なのか、全体と部分の美的な通約可能性はあるのか等々が問われていく。

ロゴスと深淵―ギリシア哲学探究ざっとネットを見ても、これらの問いを分析哲学的に整理している次のような論考が見いだされる。土橋茂樹「居丈高な仮想論難者と戸惑うソクラテス」(中央大学『紀要』第42号、1999)。同論考はとくに、具体的な議論に入っていくところでソクラテスが一人語り的に導入する「仮想の論難者」(ある者からこう問いかけられた、というソクラテスの語りでその論難者は言及されるのだけれど、後にそれはどうやらソクラテス自身であるかのように示される)に注目していて、なぜソクラテスは最初、ヒッピアスに直接向き合わないのかという点について、面白い解釈を示している。要は、ヒッピアスの当初の立論の信念に対してソクラテスが示した対立的な信念に、ソクラテス自身がコミットしておらず、それにコミットする人物を立てる必要があったからではないか、というわけだ。これに関連してちょうど思い出したのだけれど、以前読んだ山本巍『ロゴスと深淵―ギリシア哲学探究』(東京大学出版会、2000)の最初の章「鉄の孤独と対話問答法」でも、対話問答の現場にいるヒッピアスとソクラテス、そしてそこで言及される第三者的なソクラテスの織りなしについて論じていた。この三者は「わたし」と「われわれ」の微妙な間をつくっていて、ちょうど、視覚の美と聴覚の美のどちらにも共通のものがないにもかかわらずどちらも美しいとされるというソクラテスの議論に、重なり合っているのではないかという解釈が導かれている。共通するものがないことを力説するヒッピアスに従うなら、「われわれ」にないことは「わたし」にもないことになってしまう。こうしてテキストの末尾においてヒッピアスは、「一人にしてくれたら、もっと厳密なことが言える」みたいに言うのだが、対するソクラテスはそれを二人でともに探求することを促す。ソクラテスの対話志向・二人幻想のようなものが、美をめぐる議論にも投影されているということになるというわけか。