「ナラティブ論」カテゴリーアーカイブ

ギュスターヴ・ギヨームの言語論?

フランスのちょっと異質な言語学者だというギュスターヴ・ギヨーム(Gustave Guillaume, 1883-1960)。文脈はそれぞれ別なのだけれど、このところその名前を何度か聞く機会があって、なにやら興味を持つようになってきた。たとえば昨年秋に少し読んでいたラスムス・ウーギルトの『テロルの形而上学』。これの第一部の末尾あたりで、ギヨームの言語論が紹介・援用されている。それによると、その第一の特徴は、スピーチアクトの考え方にアリストテレスの現実態・潜在態の議論を絡めているところにあるという。講義録からの例として挙げられているのだけれど、たとえば具体的な発話としての「表現」と、その潜在状態である「表現性」とを区別しているのだとか。両者が合わさって、言語活動の「一性」(全体性)が得られるということなのだけれど、この本の著者はテロリズムについて語られる「テロル」というものが、そうした現実態としての表現、潜在態としての表現性を合わせたものを超越する、なにがしかの余剰部分をなしていると見る。それは一種のゼロ記号でありながら、同時に余剰記号でもあるようなものだとして、この著者はギヨームの言語論の枠を越えた部分をテーマ化しようとしている(のだとみずから主張している)。うむうむ、これはなかなか面白そうだ。ギヨームを一度読んだ上で、再度この部分を読み直してみたいと思う。またギヨームはアンリ・マルディネなどにも影響を与えているそうなので、その筋からのアプローチも注目されるところだ。そんなこんなで、これはもうギヨームの実際のテキストを見てみるしかないでしょ、という感じ(笑)。

語りの階層

Memorabilia. Oeconomicus. Symposium. Apology (Loeb Classical Library)このところ、連休から翌週末は野暮用で田舎へと、なにやら小忙しく動いていた。そろそろ落ち着いて見たり読んだりしたいところ。ま、それはもうちょい先かもという感じだが……。それはともかく、前にもちょっと触れたように思うけれど、このところクセノフォン『家政学(オイコノミコス)』をぼちぼちと読んでいる(Loeb版:Memorabilia. Oeconomicus. Symposium. Apology (Loeb Classical Library))。家というかむしろ地所の管理をどうするのがよいのかという問題をめぐるソクラテスの対話篇だ。まだ三分の一程度のところだけれど、農業礼讃といった趣があってなかなか興味深いテキストだ。語られる対話が入れ子的に階層をなしているのも興味深い。プラトンの対話篇でも気になったことがあるが、ここでは3つの層ができている。まず、本来のソクラテスとクリストボロスとの対話がある。これが地になって(その対話の中で)、今度はソクラテスが、自身とイスコマコスとの対話を語り出す。すると今度はその中で、イスコマコスが妻との対話を回想するシーンが語られていく。うーむ、ここでは4層めはさすがになさそうだが、語りの階層としてありえなくはないかなという気もしなくない。何か、そういう4層めにまで入る事例はあるだろうか、というあたりがちょっと気になっている。

虚構の存在論

プラグマティズムの帰結 (ちくま学芸文庫)文庫化されたローティの『プラグマティズムの帰結 (ちくま学芸文庫)』(室井尚ほか訳)を読んでいるところなのだけれど、これの第7章が「虚構的言説の問題なんてあるのだろうか?」となっていて、フィクションに関する存在論的議論の一定のまとめとして興味深い。従来(とはいえこの章を構成する論考が書かれたのは1979年とのことだが)の諸説がここでは四つの大別され(ラッセル、サール、指示の因果説、マイノング主義)、それぞれに簡潔なまとめと批判が加えられる。それらを一通りめぐった上でローティは、なにやらあっけらかんとした「きわめて素朴な観点」を提示してみせる。つまり、以上の四つをすべて回避して、指示の観念など無意味だとし、「〜について語る」という常識的観念があればいいんじゃないの、その「〜」を決める規準など、話者が心の中にもてばなんだっていいじゃないか、と言うのだ。意味論を認識論から完全に分離せよ、ということなのだが、「ただやさしく単純なだけで完全に役に立たない」とみずからが言うこの立場を、しかしながらローティは「正しいと思う」と述べている(p.369)。なんという潔さ……こういうところがプラグマティストたる強みというか。「指示されるものは何であれ必ず存在する」というラッセルの掲げるテーゼは、いわば人為的に作られてきたものでしかなく、それに拘るのは、20世紀の意味論的伝統と、心的表象と実在をつなごうとする認識論の伝統との結びつきのせいだと喝破する。

Fiction and Metaphysics (Cambridge Studies in Philosophy)これに関連して一つ。少し前にざっと眼を通しただけなのだけれど、アミー・トマソン『フィクションと形而上学』(Amie L. Thomasson, Fiction and Metaphysics (Cambridge Studies in Philosophy), Cambridge Univ. Press, 1999-2008)も、これまた同じようにあっけらかんとした虚構の存在論を展開していて面白かった。これまた大雑把にまとめれば、フィクションに登場するキャラクターは抽象的な人工物として捉え、必要な支持が得られる世界においてのみ、存在論的な依存関係をもった実体であると見なされるべし、というのが前半。これも上のローティにつながるような議論かも。さらにそうしたキャラクターをも包摂できる立体的な範疇論を考えよう、というのが後半。範疇論の拡張を持ち出してテーマを拡げているあたりがなかなか巧みに思えた。もちろんその一方で、従来の指示理論などへの批判、あるいはマイノング主義のようにキャラクターを性質の集まりと見なす立場への批判などもあって(このあたりもまた上のローティに重なってくる)興味深い。虚構的なものを排除することが節減の原則に適うという一般的な考え方にも反論を加えている。従来説を異なる観点からばっさり斬っているみせるところが、とても小気味よいというか、「読ませる」ものだった。

アストロラーベの語源・起源?

今週は印刷博物館の「ヴァチカン教皇庁図書館展II – 書物がひらくルネサンス」を観てきた。教皇庁図書館を描いたプロジェクション・マッピングの上映がなかなかよくできたアトラクションになっていた。展示自体は初期印刷本の数々(聖書、様々な古典)を中心としていてある意味地味なのだけれど、そのせいか同アトラクションこそが動的な見所という感じで異彩を放っている(笑)。でも展示の中にも、たとえばペトルス・アピアヌスの『コスモグラフィア』など(これは印刷博物館所蔵)があって、書物の中での動的世界を想像させるものも必ずしもないわけではない……と。

で、それに関連してというか、ちょっと古いけれど、これまた興味深い論文を見てみた。デヴィッド・キング「中世イスラム文献によるアストロラーベの起源」(David A. King, The Origin of the Astrolabe According to the Medieval Islamic Sources, Journal of the History of Arabic Science, Vol. 5, 1981)。古代からの天文観測機器であるアストロラーベは、発明者などは未詳とされているわけだけれど、アラブ世界の文献からその語源や発明についての言及を集めたもの。わずか数ページの序文でさえ、すでにいろいろと面白い指摘がなされている。アラブ世界ではastrulabと言い、初期のアラビア語文献では、これが「星を取る」という意味だと説明されているという(星を表すギリシア語のἄστρονに「取る」を意味するλαμβάνεινの過去形の語根がついたものというギリシアでの解釈に対応するものだ)が、ほかにも「太陽の均衡」とか、「太陽の鏡」などを意味するといった説もあったという。発明者についても、イドリス(預言者エノク)の息子ラーブであるという話があるものの、これは完全なフィクションで、少し下ったほぼ同時代の別の論者による批判もあるのだとか。astrulabを「ラーブの線描」の意味だとする民間語源もあるといい、また、ラーブをヘルメスの子とする話もあるそうで、このあたり、説話論的にもとても興味をそそる現象だ。さらにはプトレマイオスがアストロラーベの考案者だという話もあって(これもフィクション)、面白い逸話になっている。天球儀をもって動物の背中に乗っていたプトレマイオスが、その天球儀を落としたところ、動物がそれを踏みつぶし、できたのがアストロラーベだった、と(笑)。ほかにもヒッパルコスが考案者だという話もあり(タービット・イブン・クーラによる)、実際ヒッパルコスの時代には立体射影がすでに知られていたともいうのだが、この話を紹介する文献には上のラーブの話も載っていたりするそうで(つまりはギリシアがその文献の出典元ではないということになる……)、このあたりの錯綜感もまた、なにやら説話的に気をそそる。

wikipediaより、16世紀のアストロラーベ
wikipediaより、16世紀のアストロラーベ

サイエンス外フィクション?

Métaphysique et fiction des mondes hors-scienceメイヤスー『形而上学とサイエンス外世界フィクション』(Quentin Meillassoux, Métaphysique et fiction des mondes hors-science, Aux Forges de Vulcain, 2013)という小著を読む。基本的には講演をもとにしたものらしい。メイヤスーの極限的な偶然世界論は、まさに極北たる哲学的世界観でもってなにやら現実世界の向こう側(妙な言い方になってしまうけれど)を思わせるものだけれど、それを何らかの形で現実世界の諸相へと繋ごうとする試み……なのかしら(?)。ここではさしあたり自説を説話的世界へと持ち込み、文学的なジャンルの刷新を促そうとしている。ヒュームの懐疑論(法則の一定性はどう担保されうるのかという問い)を受けて、メイヤスーはポパーの認識論的な不定性による回答や、カントの超越論的な批判を斥ける。いずれも、突き詰めれば法則が支配する安定的世界、あるいは法則が変わろうとも意識は不変だという世界を前提としているからで、メイヤスーはヒュームの問いかけに、法則と意識の両方について定常性がない世界を描き出すという別種の想像力を見る(ここまでは前著の通り)。で、これを説話の世界に応用すれば、従来のサイエンス・フィクション(それも法則もしくは意識の安定性を前提とした小説世界だ)とは別様の、「サイエンス外フィクション」もしくは「サイエンス外世界フィクション」なるものが成立しうる、というのだが、うーん、それは作品的にはどうなのだろうか……(笑)。その先駆的作品として、メイヤスーはアシモフの短編『反重力ビリヤード』を挙げており、仏訳版が同書の巻末に収録されている。ほかにも、一部そうしたサイエンス外フィクションに足を踏み入れている「移行的」SF作品として、ロバート・チャールズ・ウィルソンの『ダーウィニア』(これは未邦訳?)、ダグラス・アダムズ『銀河ヒッチハイク・ガイド』、フィリップ・K・ディック『ユービック』などが挙げられている。後者二つはもちろんファンも多い作品。さらにプロトタイプ的なサイエンス外フィクションとして、ルネ・バルジャベル『荒廃』(未読)も取り上げられている。サイエンス・フィクションの世界設計ををさらにずらしていくことが、その要件ということのようだが、それが新たなジャンルになるかと言われれば、うーむと唸るしかしないような……(苦笑)。