「スコトゥス研」カテゴリーアーカイブ

スコトゥスの「似像」論

L'image (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)春先くらいに、実在論的表象主義の可能性の話を取り上げたけれど、なにかそれに関連するものがないかしらと、スコトゥスの「イメージ論」を抜粋したという仏訳本を見てみたのだけれど(Duns Scot, L’image (Bibliotheque Des Textes Philosophiques), trad. Gérard Sondag, Librairie Philosophique J. Vrin, 1993)、残念ながらそういうものではなかった(苦笑)。これはむしろスペキエス(可知的形象)論の部分を抜き出したもの。正確には『オルディナティオ』第一巻、第三区分、第三部、問題一から四という構成。前に取り上げたのは代示(というか仮象)の話で、主な出典は『自由討論集』第九巻。そちらが収録されていないかと思ったのだけれど、空振り。でもまあ、久々にスコトゥスのスペキエス論を見直すのも悪くはない。スコトゥスは基本的にスペキエスを認める立場。魂の中の知的部分が主たる原因となって知解は生じるとされるけれど、そうした知解能力を超える対象(至福の対象、すなわち神)にあってはそちらが主たる原因となる。これが大きな思考の枠組みになっている。これに、たとえば問題四で扱われるような、三位一体の「似像」としての魂(記憶、知性、意志)といったイメージ論が連なる。こうしたあたりは最初に押さえるべき、またときおり見直すべき基本だったりもする……。

スコトゥスと時間概念

前回のエントリの続き、というわけでもないのだけれど、スコトゥスの時間概念についての考察を見かけたので取り上げておこう。パスカル・マシー「ドゥンス・スコトゥスにおける時間と偶有性」(Pascal Massie, Time and Contingency in Duns Scotus, The Saint Anselm Journal, vol. 3.2, 2006 )(PDFはこちら)。哲学プロパーの議論に踏み込んでいるので、ちょっとややこしいのだけれど、とりあえずまとめておこう。ここでもまずは、時間を運動の考察から切り離したことがスコトゥスの大きな転換だったとされている。スコトゥスは、運動のともなわない時間がありうるという議論(現実態の時間のほか、潜在的時間も存在するという)を示しているという。この観点からすると、たとえば「時間を超越している」とされる神にとっての「永遠」はどういうものになるのだろうか。ボエティウスなどは、「円の外周のどの点も中心から等しい」ように、神にとっては時間のどの時点も同様に現在をなしている、といった言い方をしているというのだが、スコトゥスはこれに異を唱える。この円周と中心のイメージを修正し、次のように言うというのだ。時間の円は最初に点の全体が与えられるのではなく、中心と任意の端部の点から成る直線がたえず動き続けるだけで、各瞬間には円周が存在してはいない。言い換えると時間の円は固定されているのではなく、幾何学者の想像力においてたえず描かれつつある。つまり、その永遠なるものは、潜在的な時間(ありうる円周上の諸点)とは共存(co-exist)していない。永遠概念が共存できるのはあくまで現実態の時間的存在(実際に動く端部)とのみなのだ。神にとっての現在(時間を超越した現在、つまりは永遠)は、現実態の時間、すなわち時間的な「今」とのみ共存可能なのだ、と。

というわけで、スコトゥスにとって唯一現実的なのは「現在」だけなのだというのだが、同時にそれは「直ちに過ぎ去る」という意味で流れゆくものでしかない。では永遠と時間との関係はどうなるのか。上の議論から永遠は時間全体と共存することはできないとされ(ちなみにそれらが共存できるとするのがトマス・アクィナスの立場)、スコトゥスの場合、共存できるのはその「現在」のみとされる。神が未来を知るという場合、神はそれを未来のこととして、つまりまだ現実態になっていないものとして知るのであり、神の自由意志において、そうでないこともありえるものとして知るというわけだ。現在とはしたがって、現実態になっていないものが神の判断という原因領域において現働化する契機を言い、ゆえにそれは「t」で表されるような任意の時間ではない。しかもそれはすぐに消えて流れ去る。ということは、私たちの「現在」においてのみ永遠は生じ、しかもそれは「現在」にとっての「他者」としてのみ生じ、その意味では「生じてなどいない」とも言える……。なにやらややこしいが、「現在」が生じることが、永遠を指し示し、かつまた永遠それ自体は時間の流れの外に<常に>あって、そもそも「生じて」などいないというわけだ。時間のうちに存在するものは、偶有的に存在しつつも、それが一度きりの存在だという意味で、永遠に「かつて存在した」ものとなる。これはまた、偶有性と運命性とが出会う場でもある。スコトゥスの議論からこうしたテーゼを引き出すのも、ある種の力業という感じがしないでもないが(笑)、いずれにしてもそれが、神の認識における「永遠」と、人間の時間的「現在」との通行路を開いてみせているのだとしたら、そこにこそスコトゥスの革新性を見て取るべしという話も、あながち外れてはいないのかもしれない。

スコトゥスと実定的無限

Volonté et infini chez Duns Scotフランソワ・ロワレの大部な著作『ドゥンス・スコトゥスにおける意志と無限』(François Loiret, Volonté et infini chez Duns Scot, Éditions Kimé, 2003)を、少し前から部分的に見ている。細かく見ているわけではないのでナンだが、基本的な議論の一つに、無限概念についてスコトゥスが転換点をなしているという話がある。スコトゥスはアリストテレスの議論から意図的に離れ、それまでの否定的無限概念(共義的無限)に代えて「実定的無限」(自立的無限)を掲げた嚆矢の一人とされているほか、無限を「神」を述語づける属性の扱いから、神の存在自体に内在する様態へとシフトさせて、無限に存在論的な先行性を与えた、とも論じられている。実定的無限の提示はヘントのヘンリクスも行っているといい、なるほどスコトゥス思想とヘンリクスの関係性を改めて感じさせるところでもある。ここで言う実定的無限というのは、現実態としての無限の実在ということでもあり、著者ロワレによれば、否定的無限(ヘンリクスは否定的無限と欠如的無限を下位区分しているが)からは潜勢態としての無限しか導かれないのだという。そしてまた、スコトゥスの場合、この現実態の無限から存在の一義性の議論も導出されたのだ、と著者は論じている。このあたりはじっくり検証してみたいところではある。さらに、スコトゥス以前にはそうした実定的無限を提示しえなかったのはどうしてなのかも気になるところだ。

これに関連して(関連性は微妙なところでもあるのだけれど)、時間的な「永遠」概念の東西での差異について扱った論考を見てみた。デーヴィッド・ブラッドショウ「ギリシア教父における時間と永遠」(David Bradshaw, Time and Eternity in Greek Fathers, The Thomist, vol.70, 2006)。それによると、永遠の概念の場合、西欧ではアウグスティヌスやボエティウスを始めとして、「永遠」を神の本質・本性と結びつけて論じる伝統があったが、東方に対してそれらの論者が影響を及ぼすことはなく、東方ではむしろ、神の本質について何を述べてもよいわけではないと否定する偽ディオニュシオス的な議論の枠組みが支配的で(それはすでにしてカッパドキア系の教父たちにも見られ、さらにはクレメンスやアレクサンドリアのフィロンにまで遡れるとされている)、時間についても、それが神より流出する限りにおいて神と同一視できるというスタンスが温存されていたという。つまり、神は本質において永遠とイコールなのではなく、その力、流出、エネルギーといった観点において永遠とイコールとされていた、というわけだ。この議論からすると、西欧においてはそうした東方的な否定論的傾向があまり強くなかったがゆえに、永遠概念(それは時間的無限概念ということだが)は人間の立ち入られない神の領域の核心部分に据えられ、結果的にそれを実定的な理解から遠ざけていたという仮説も成り立ちそうに思える。もちろんこれも要検証というところではあるのだろうけれど、もしそうだとすれば、スコトゥスはいわばある種の「東方化」をもたらしていたと言える……なんてことにもなったりして?(笑)

スコトゥスと仮象

John Duns Scotus on Parts, Wholes, and Hylomorphism (Investigating Medieval Philosophy)精読したわけではないのだけれど、ドゥンス・スコトゥスについてちょっと面白そうな研究書が出ている。トマス・ワード『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスによる部分、全体、および質料形相論』(Thomas M. Ward, John Duns Scotus on Parts, Wholes, and Hylomorphism (Investigating Medieval Philosophy), Brill, 2014)。メレオロジー的な考え方を踏まえつつ、スコトゥスの質料形相論について全体的なパースペクティブでまとめ上げようという野心的な論集(と見た)。スコトゥスの質料形相論がらみでは、たとえば形相の複数性の話や、複合体である実体がまた別の実体の部分をなすといった議論、あるいはオッカムなどとの対比など、いくつかのポイントがあると思うのだけれど、同書はそうした細かい点をおおむね網羅していそうな印象。そんななか、個人的にすごく気になったのが、第七章の「suppositum」の問題。suppositum(代示)は普通、論理学の文脈では意味論的な関係性をなすものを言うのが常だったと思うが、どうもここでのスコトゥスの使い方はそれとは異なり、独特な存在論的身分が与えられている模様(なので、ここではsuppositumをさしあたり「仮象」と訳出しておくことにする)。で、それは何かというと、他に内在するでもなく、実体の本質的部分でも全体的部分でもない、位格のようなもの、最終的な現実態をなしている(実体に依存しない)ものなのだという。スコトゥスはこれに、たとえば天使(の存在様式)などを含めて考えている。そしてそのようなものは、別の実体の部分をなすことはできないとされる。他の実体の部分をなすのはあくまで実体だ、と。

同書によれば、オッカムにも似たような見解を示している箇所があるという。けれども異なるスタンスは当然あって、オッカムの場合、複合体をなしていたいずれかの部分が分離される(つまり部分でなくなる)と、それは仮象になると考えているのだという。実体に組み込まれている間は部分として実体の一部をなしているのに、ひとたび分離されれば、それは同じ「モノ」でありながら、そのまま自立的な存在として仮象でしかなくなるというのだ。したがって仮象とは偶有的に生じる属性(形相と質料の両方にとっての)なのだとされる。こうしてみると、最近のエントリやメルマガで触れた、トマスやヘンリクス(ヘントの)に見られる実在論的表象主義の、ある種存在論的に進んだ(深まった)形がここに見られるのかもしれない、という感じがしなくもない(ホントか?)。もちろんこれが、意味論的、あるいは概念論的な表象的実在とどう関係するのかは再考が必要になるだろうけれど……。同書によれば、この仮象(今度はスコトゥスのもの)概念が重要なのは、カルケドン公会議以後のキリスト論、つまりキリストは一つの人格ながら神と人の二つの性質を併せ持つという議論を、アリストテレスの範疇論と突き合わせたときに生じる齟齬について、なにがしかの解決をもたらしうるからなのだという。なるほど、神学に立ち入る部分は、中世思想の場合外すわけにはいかない(当たり前だが)。

ヴィエンヌ公会議とフランシスコ会系論者たち

55065『霊魂論と他の諸学、学際的相互作用の一事例』(Psychology and the Other Disciplines: A Case of Cross-disciplinary Interaction (1250-1750) (History of Science and Medicine Library: Medieval and Early Modern Science, 19), J. M. Bakker et al., Brill, 2012 )という論集から、ウィリアム・ドゥーバ「ヴィエンヌ公会議以後の霊魂論:複数形相説と複数霊魂説についてのフランシスコ会系神学者の見解」(William Duba, The Souls after Vienne: Franciscan Theologians’ View on the Plurality of Forms and the Plurality of Souls, CA 1315-1330)というやや長めの論考にざっと目を通してみた。ロバート・パスナウが『形而上学的テーマ』で示したテーゼを受けて、14世紀のフランシスコ会派の論者たちによる、複数形相説をめぐる様々な異同をまとめてみせるという意欲作。ヴィエンヌ公会議(1311年)はテンプル騎士団がらみの裁定が有名だけれど、一方で「知的魂そのものが基本的に肉体の形相をなしている」ということも宣言していて、名指しこそしないまでも、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの見解が事実上糾弾されている。オリヴィの見解は、知的魂は肉体の形相ではありえず(直接結びついてはおらず)、それは感覚的魂を通じて肉体と結びついている、というものだった。パスナウは、この公会議での決定は重大な影響を与え、フランシスコ会派のその後の論者たちを一様の見解へと向かわせ、アリストテレスの形而上学的推論への疑問を発することを妨げたと見ている。けれどもドゥーバは同論考で、公会議とほぼ同時代の14世紀前半の論者たちの見解を再考し、そこに基本は一様ながら多様なニュアンスの差を見出している(しかもその一様な部分も、外部の圧力というよりはパリ大学関係者たちの共通の講義内容を産出しようとする努力だったと見る)。

個別の議論は煩雑になるので割愛するが(少し詳しい紹介がこちらのブログ(「オシテオサレテ」)にある)、結論部のまとめを見ると、論文著者は大きく三つの流れを分けている。一つめはニューキャッスルのヒュー、メロンヌのフランソワ、ガルダのヒンベルトの一団で、基本的に複数の魂が、これまた複数の形相から成る肉体に与えられているという立場を取る。二つめは、ランドルフォ・カラッチオロ、マルキアのフランチェスコ、ゲラルドゥス・オドニスらで、肉体に宿るのは単一の知的魂だが、肉体のほうは別の形相と質料からなる複合体と見る立場。三つめはペトルス・アウレオリの、知的魂を特殊な形相と見る立場とされる(アウレオリは公会議前後で多少とも見解を変えているらしい)。最初の二つはドゥンス・スコトゥスの複数形相説が出発点をなしていて、前者は複数の部分的な形相の議論、後者は実体的形相が連続的に階層をなすという議論に力点を置いているのだとか。個人的に興味深いのは、著者が論考内のいくつかの箇所で取り上げている、スコトゥスによるゲント(ガン)のヘンリクスへの批判。ヘンリクスは知的魂とそれ自体実体をなす(形相と質料から成る)肉体といういわば二形論を取り、スコトゥスのほかその弟子筋のニューキャッスルのヒューなどがそれを批判している。ヘンリクスが二形性を論じるのは、知的魂には空間的な延長(広がり)がなく、一方で肉体は空間的延長を必要とするといった理由によるといい、スコトゥスは知的魂が機能として含む感覚的・植物的魂が空間的延長を担っているとして、肉体固有の(別の)形相は不要だとしているのだという。マルキアのフランチェスコなどもその議論をさらに敷衍し、たとえば感覚的魂も空間的延長をもたないと論じているのだとか。とはいえ、同フランチェスコやゲラルドゥス・オドニスなどはニ形論的な立場を取っていたりもするようで、このあたりはやはり微細な差異がとても興味深い。ぜひ確認を取ってみたいところだ。