「日曜哲学」カテゴリーアーカイブ

戦略としての語り−−3.11

「語ること」の力というものを、どこか素朴に信じている。けれどもそのためには、語りが絶えず刷新されていくことが前提条件となる。風化、忘却あるいはエントロピーに逆らうには、語りの、語のレベル、あるいは意味論、概念のレベルでの刷新が欠かせない。もちろん、ときには言葉同士のせめぎ合いもあってもよいし、あってしかるべきだろうが、言及そのものがなくなってしまうことは問題だ。「原発」の災害に言及しない首長の演説などまったくもって論外もいいところだ。区切りなどという問題ではすまされない(区切りという概念にもカウンターとなる抗う言葉が必要かもしれない)。

世界 2017年 01 月号 [雑誌]震災から6周年となったこの週末、このところあまりちゃんと目を通していなかった岩波『世界』の最近のバックナンバーを少し集中的に見ていて、改めてそんなことを強く思った。とくに昨年12月刊の、世界 2017年 01 月号 [雑誌](特集「トランプのアメリカ」と向き合う)は、そうした語り、あるいは言葉の問題を扱った記事が集中していて興味深かった。三島憲一「ポスト真理の政治」もしかり、前田哲夫「連載:自衛隊変貌第2回:境界線失う「武器の使用」と「武力の行使」」もしかり。ちなみに、ポスト真理ないしポスト真実の出所とされるラルフ・キーズの本は、Kindle版が安く買える(Ralph Keyes, The Post-Truth Era: Dishonesty and Deception in Contemporary Life, St. Martin’s Press, 2004)。そして極めつけは、尾松亮「連載:チェルノブイリからの問い:最終回−−ことばを探して」。チェルノブイリ法とその実施規則において、それまでのロシア語になかった言葉が数多く生み出されたという。市民が置かれた惨状を表す数々の言葉だという。そもそもチェルノブイリの事故のことすら、「事故」ではなく「カタストロフィ」と言うようになったのだそうだ。子どもたちを放射線源から遠ざけるために「保養」という言葉を使いもする。ほかにも「居住することのリスク」「被曝途中の人」などなど。日本語にはこれらの言葉がない、と著者は指摘する。情況を表すのに新しい言葉がないがゆえに、責任の所在もうやむやにされ、目に見える病気が生じていなければ影響を受けていることがテーマ化すらされない。ポスト・フクシマの言葉はどこにあるのか−−ここに抜本的な問題がある、との著者の見立ては説得力がある。語りの刷新はまったなしに必要だ。

The Post-Truth Era: Dishonesty and Deception in Contemporary Life

人類学のターン?

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ先日も触れたように、「人間不在の思想というのは可能か」ということを考えている今日この頃なのだが、そうした思想展開の事例として人類学(の存在論的転回?)があるという話(もしそうなら、それはそれでずいぶんと逆説的な話だなとも思うのだが)で、改めて確認してみようと思い、ほぼ一年遅れで、現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ』(中沢新一監修、青土社、2016)を眺めているところ。この中でとくに個人的に惹かれたのは清水高志「幹-形而上学としての人類学」という論考。レヴィ・ストロースの衣鉢を継ぐフィリップ・デスコラの文化の類型論を、ミシェル・セールがいわば換骨奪胎して取り込んでいるという話をもとに、新たな形而上学の幹細胞のようなもの(ゆえにそれは幹-形而上学と称される)として理論化する途を探っていこうとするもの。セールはこれまでも、ラトゥールの提唱する科学の人類学、とくにそのアクターネットワークの着想源(『パラジット』での準・客体論)として、人類学的なものに関係づけられてきた経緯があるというが、この幹-形而上学は、ラトゥールによるそちらの精緻化で取り込まれなかった別筋の思想的命脈を精緻化させようという目論みだという。で、同論考においては、そこにライプニッツが絡み、ジェイムズの根本的経験論、さらには西田幾多郎の純粋経験論が絡んでくるという後半の展開がまたいっそう興味深い。

ミシェル・セール: 普遍学からアクター・ネットワークまでそういえばこの著者はミシェル・セールについての書籍をいくつか書いている人だっけと、積ん読の山から、清水高志『ミシェル・セール: 普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社、2013)を引っ張り出してみた。で、同書の第5章から第6章(それら二つの章が第三部「人類学」をなしている)を眺めてみた。第5章はセールの『パラジット』の内容を、「腐る貨幣」による根源的(かつ別様の)交換というテーマを軸にまとめている(たしかにセールの同書では一種の腐敗・発酵のテーマが様々に繰り返され変奏されていたように記憶する)。第6章では『作家、学者、そして哲学者は世界を一周する』を取り上げている。セールのその本は未読なのだけれど、デスコラの文化の四類型をセールがどう取り込んでいるかが示されていて興味深い(その類型を、枠組みとしてではなく、混淆したり分岐したりする現実世界の複雑な関係を捉えるための手段・方法として見ているのだという)。また、メイヤスーなどの立場との関連性なども明らかにされている。主体・客体の相関主義よりも手前にあるモノを捉えようとすることで、セールの問題系とそれは一部で重なり合うのだ、と……。(でもこれは、人間不在というのとはちょっと性質の異なる議論ではある……)

「人間不在の思想は可能か」

ダーク・ドゥルーズ
少し前に出たアンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』(大山載吉訳、河出書房新社、2016)を、先日ざっと読んでみた。少しばかり消化不良というか、内容の細かな部分にはとくにコメントはないのだが、やや全体的に違和感も覚えたりする。表面的には、解放のための思想として読まれることが多かったドゥルーズを、むしろその否定的側面、既存秩序の破壊的な面から読み直すということを訴えたマニフェストなのだろうけれど、それ以上にドゥルーズはダシに使われている感じもし(?)、むしろ力点は既存秩序を越えて現実世界の徹底破壊を説こうとすることに置かれているかのようで(そちらのほうに読み方を引っ張っていく)、そのあたりにある種の共鳴しにくさを覚えるのも確か。そこでは人間性の諸問題を見据える・前提とするといった問題機制・視点があまり感じられず(……なんて言うのがそもそも古いのかもしれないが(笑))、例によって(この種のマニフェスト的な思想書にありがちということだが)提唱する変革・破壊の先に何があるのかは明確には示されない。それではいくら抜本的な革命を説こうとも、言説は空転するばかりになってしまうのでは……と、つい老婆心的な物言いをしたくなってしまう(じじい的だが(苦笑))。こう括ってよければ、こうしたある種の人間不在のスタンスは、正直なところどう判断すべきか悩むところ。そもそも人間不在の思想というものがありうるのか、それは議論として正当化できるものなのか、それは何か意味をもちうるのか……。メイヤスーやハーマンなども、ある意味人間不在感を沸々と沸き立たせるような議論を展開しているし、なにやらそうした思想潮流のようなものが、どこか不気味な預言的・終末論的胎動を感じさせることも否定しがたい。

非人間的に論理性を突き詰めるある種の分析哲学的ビジョンですら、その前提には人間の認識能力、推論能力への信頼みたいなものがあって、どこかで人間性に「繋がっている」。ところが別筋のほうから、それすらが希釈化され、下手をすると抜け落ちてしまうというような見識が、なにやら徐々に浮上しつつあるような感触さえ覚える……というわけだ。けれども、そういう不気味さにいつまでも拘泥しているわけにもいかない。で、そうなると考えてみたいのは、ではそうした呪術・預言めいた部分をそぎ落とした形でもなお、人間不在の観点、人間を基礎に据えないビジョンというのが喧伝できるのかどうか、できるとすればどういう論拠にもとづいて可能なのか、というあたりのこと。少しそうした問題をめぐる文献に目通しする必要もあるかもしれない。そのようなものとして、さしあたり、三類型くらいはあるかなと思う。1. 世界の破壊(を伴う変革)のビジョンを中心に据えるもの、もしくはそれを前提とする議論、2. 人間性から離れたところで、ある種の唯物論のようなものを徹底化するもの、3. 人間以外のもの、人間を越えた何かをビジョンの中核にすえようとするもの。この三つめなどは、古来からの神学思想の世俗版などが考えられる。

自由についての再考……

時間と自由意志:自由は存在するか (単行本)青山拓央『時間と自由意志:自由は存在するか』(筑摩書房、2016)を、巻末の補論を除いて読了。自由意志は本当にあると考えてよいのかどうかというテーマを、ちょっと面白い問題設定から出発して再考している。自由意志が発揮される局面、つまり選択による分岐問題だ。この分岐という考え方も、突き詰めていくと、確かにその分岐点というものがどう位置づけられるのか厳密には見えてこない。分岐点が時間軸上にあるとすると、その点(時点)は選択した時間、選択されなかった時間のどちらに位置づけられるのかが曖昧になってしまう。するとむしろ多世界説のように、二つの系列の時間が平行して進んでいるといった話のほうが良いのでは、という考えも出てきる。けれどもその場合、分岐なるものは厳密には存在しないことにもなってしまう。時間軸はもともと二つあったのか、一つが分裂したのか?あるいは、単線的決定論を採るのがよいのか?けれどもその場合、今度は別様の可能性が、元来はあるのに実質としてはなくなってしまう。ならば説明不可能な偶然を承認して、可能性を説明不可能なまま残すのが妥当なのか……(第一章)。

同書の緻密な論理展開を端折ってしまえば、メインストリームは次のような話になっていく。上のような偶然を認めてしまうなら、様々な可能性の一つは無根拠に現実化することになる。けれどもそれは、単線的決定論を採用せずに分岐問題を解消させる唯一の方途ということになる。自由意志すら偶然の一種として見なすことができるのではないか、と著者は言う。自由意志と偶然は通名をもたない何か同じものの、二つの異なった現れなのだ、というのだ(第二章)。さらにまた、その何かは構図として分岐の外部をなすものであって、そこにはもはや無自由という境地(自由を前提とする不自由ではなく、自由も不自由も超越した状態)があるのみだ、とされる。同書は認識論的な観点からの自由の検証などを経て、さしあたりのクライマックスとして、自由と人称に絡む複合的な図式を浮かび上げようとする(第四章)。これまた極北的な記述へと誘うところが、多少寒々しいながらも刺激的ではある。

経験論と心の哲学本筋からはちょっと離れるけれど、個人的には、様相の問題を絡めた第三章がとくに注目だ。ちょうどメルマガのほうでセラーズの心理的唯名論(ウィルフリド・セラーズ『経験論と心の哲学』、浜野研三訳、岩波書店、2006)を部分的に読んだということもあって、タイプとトークンの話が興味深い。青山氏は、タイプに認められる論理可能性(ありうる)とトークンに認められる実現可能性(なりうる)には断絶があり、一方で両者が結びつくには、実現可能性が論理的可能性に「昇格」しなければならない、としている。つまりタイプ化が不可避だというわけだ(その上で、実現可能性が論理的可能性に先行することを、時間の様相に対する先行に重ねている)。セラーズは、両者を繋ぐ鍵として、トークンについての語りの信任と、報告者の正当化が必要だとしていたわけだけれど、論理可能性へのシフトはそうした信任・正当化と表裏一体の関係にありそうだ。このあたりをもっと深めることはできるだろうか?

ハイデガーと革命運動

哲学とナショナリズム―ハイデガー結審これも年越し本から。思うところあって、中田光雄『哲学とナショナリズム―ハイデガー結審』(水声社、2014)を読んでみた。ハイデガーのナチスへの加担について再考した一冊。古き良き哲学書を彷彿とさせる晦渋な文章だが、基本的にはハイデガー哲学の基本図式、ドイツにおけるナチス運動の展開、そして両者の関係性などを取り上げ、ハイデガーが厳密に何に加担し、何に加担していないかを明らかにしようとしている。全体の重要なポイントというか、中心的な枠組みをなしているのが、西欧語においていわゆるbe動詞が含み持つ、「〜である」というコプラの用法と、「〜がある」という存在規定の用法だ。前者が織りなすのは事象が相互に照応する、秩序ある世界であり、後者はそれに対するある特定事象の屹立を示すものとなる。これは一種の上部構造と下部構造でもあって、前者によって後者は取り込まれ、全体の下支えとして閉覆・亡失されてしまう。ハイデガーはまさにそうした「〜である」の織りなす秩序に、その底部をなす「〜がある」の実存・存在を暴き出すことで、そこにある種の哲学的な社会革命運動をもたらそうとしているのだ、と解釈される。それはハイデガーの思想の要所として、繰り返し出てくる図式だとされる。

この図式に、ドイツ哲学がもとより孕んでいた一種のナショナリズム(民族主義)が重ねられる形で、ハイデガーの初期ナチス運動への賛同が理解される。欧州の諸民族がひしめき合う中にあって、ドイツ民族は一つの民族として普遍の相において屹立しなくてはならない……こうして、本来ナショナリズムとは相容れないかに見える哲学的な普遍的思考が、存在論を介してややねじれた形で結びつく。それはナチスの初期の運動の理想に呼応するというわけだ。けれども現実には、「〜である」に結局は呑み込まれてしまうかのようにナチスの運動は変貌していき、ハイデガーの目した企図も頓挫することになる、と。では、同書が示すように、ハイデガーのナチスへの加担は本質的な加担ではなく、ドイツ・ナショナリズムの伝統とドイツ哲学の共通特性の類同性をもっているにしても本質的な同一性ではないとして、ハイデガーを無罪放免すればそれでよいのだろうか。それほどまでに「〜である」の蔓延が猛威をふるうものなのだとしたら、少なくともその固着化を、あるいはそうしたbe動詞に立脚する図式そのものの妥当性を分析するのでなければ、ハイデガーの未完の運動を継承するものとして新たに引き合いに出されているEU運動にしても、再び同じような陥穽に陥ることになるのではないか(現にそうなってきている?)、といったことを思わないわけにはいかない。