「近代初期・近世のほうへ」カテゴリーアーカイブ

復習:ルネサンス期のアリストテレス主義

ちょっと古い論文(73年)だけれど、ルネサンス期のアリストテレス主義の全体的な流れを俯瞰しつつ、これから先どういう研究が必要かということを説いたマニフェストのような一本にざっと目を通してみた。シャールズ・シュミット「ルネサンス期アリストテレス主義の再評価に向けて」(Charles B. Schmitt, Towards a Reassessment of Renaissance Aristotelianism, History of Science, vol.11, 1973)。扱うのは1350年から1650年ごろまでの西欧のアリストテレス主義の流れ。これを見ると当時は、コペルニクスやガリレオの登場とともにアリストテレス主義は終わる、というような教科書的な記述に始終するのが多く、アリストテレス思想そのものはそれほど重視されていなかったらしいことがわかる。けれども実際のところその思想圏は実に多様だった、と著者はまず指摘する。たとえば同じ「パドヴァ学派」のように括られることもある15世紀初頭のヴェネチアのパウロ(パウルス・ヴェネトゥス)と16世紀半ばのヤコポ・ザバレッラとでは思想内容はまるで違う。また時代的にも、16世紀にいったん隆盛するアリストテレス主義は、後半に再びプラトン主義に押され、17世紀末になってようやくデカルト主義に席巻される。そんなわけでアリストテレス主義は簡単には消えていかないし、とはいえ常に堅牢であるわけでもない。

また、ガリレオ、ベーコン、デカルトなどの傑出した思想の先駆として、14世紀ごろの中世末期・初期近代の重要性を強調してもいる(もちろん、ただその関連づけを示すだけでは後世からのバイアスで歴史を見ることにもなる、との注意も喚起しているが)。14世紀は13世紀のアリストテレス主義の退廃期ではないし、そもそもルネサンス期のアリストテレス主義は端からニグレクトされてきた、と。そうした認識を改める時期に来ている、と著者は説く。アリストテレス主義は、文献に即した保守主義的な面と、新たな要素をたくみに取り込んでいく柔軟性とを併せ持っており、15世紀からの人文学による文献学的なアプローチやギリシア語原典の重視がその両面を物語っているという。中世の翻訳をベースにする議論が続いていた一方で、たとえばザバレッラなどに代表されるように、方法論的な議論や、あるいはシンプリキオス、フィロポノスなどの注解の取り込みなども行われるようになる。16世紀には、それまでちゃんと知られていなかった『詩学』や『修辞学』が、重視されるようになったりもする。柔軟性という点ではさらに、実験の多用や数学の自然学への応用など、アリストテレスへの批判を導くことにもなる新しい潮流すら取り込んでいく。一方で従来からのアリストテレス思想の用語や考え方は、反アリストテレスの立場を取る人々のうちにあっても、無意識的に受容されていたともいわれる。著者によれば、この保守主義と柔軟性の両面こそが、アリストテレス主義がかくも長く命脈を保った大きな要因ではないかという。著者は論考の中で、アリストテレス主義再評価の課題をいくつか示唆しているけれど、40年を経た今、そうした方向の研究は確かに進んできているだろうし、このあたりでもう一度俯瞰的な再点検を、著者のシュミット(1986年没)を継ぐ誰かにやっていただきたいと願う次第だ。

ザバレッラの肖像
ザバレッラの肖像

デカルト時代の思想的布置とか

引き続きアリュー『スコラ学者たちの中のデカルト』。同書の基本姿勢は、デカルトの斬新さはそのままに受け入れつつも、それが準備された様々な流れを丁寧に見ていこうとする点にあるようだ。いきおい、デカルトそのものは時にむしろ後景に退き、その周辺の人々がクローズアップされ、生き生きとした筆致で記述される。そのあたりが、著者の筆が最もノッっている、あるいは冴えているところに思える。たとえば第四章では、トマス派・スコトゥス派の対立軸の一つとなっている質料形相論の扱いと、それらに対立する形でのデカルトとその後継者たち、さらには反対者たちの立場がまとめられているのだけれど、デカルトはほんのダシという感じで、論考の主軸は質料形相論とデカルト的粒子論、あるいはデカルト的立場への批判といった、各論者たちが織りなす全体的な布置を描き出すことにあるという印象だ。メインストーリーとしては、個体化理論などを通じ、スコラ周辺で形相の意味合いが薄れ(スコトゥス派では形相は個体化の原理とされながらも、複合物を構成する際の形相の比重は弱まっていく)、一方で質料の重要性が高まり(フランコ・ビュルヘルスダイクのように、形相にも質料にも個体化の原理があるとする人物も!)、やがてデカルトへと通じるような「粒子論的・機械論的」立場が現れてくる、といった話になる。

第五章ではそうした布置がいっそう鮮明に取り上げられる。デカルトとスコラ学、原子論などを対照することで、デカルトがスコラ学とは地続きであり、むしろ当時の原子論との間に断絶があるということを浮かび上がらせようとしている。著者によると16世紀ごろのスコラ学では主に三つの変化があるといい(インペトゥス理論の採用、元素などにも内在的限度があるとするミニマ・ナトゥラリアの思想、そして真空内での運動概念にもとづく、スコラ内部でのアリストテレス批判)、結果的に粒子論的な考え方と外見的に近接するようになっていたという。とくにミニマ・ナトゥラリアの考え方は、最小のものを想定し、その希薄化や凝縮が消滅と生成であるとする考え方を導く。原子論の代表格とされるのはセバスティアン・バッソなのだけれど、希薄化や凝縮の考え方などデカルトとの共通点がありながらも、その徹底した「原子」の考え方はデカルトのものと決定的に異なり(そもそもデカルトは物質が無限に分割されうると考えている)、さらにまた、エーテルなどの扱いや運動の原因としての神の捉え方にも違いがあり、両者の間には見かけ以上に大きな溝があるとされている。

逸名作者によるビュルヘルスダイク(Burgersdijk)の肖像
逸名作者によるビュルヘルスダイク(Burgersdijk)の肖像

16、17世紀のスコトゥス主義

ロジャー・アリュー『スコラ学者たちの中のデカルト』(Roger Ariew, Descartes among the Scholastics, Brill, 2011)を読み始めている。著者の個人論集で、デカルトとスコラ学の関係を多面的に扱った論考が居並んでいる。これはなかなか興味深い。そのうちの第二章が、スコトゥス派の話に当てられている。エティエンヌ・ジルソンの功罪の一つは、デカルトの時代についてトマス派を持ち上げ、スコトゥス派を顧みなかったことだとされる。著者によると、その理由の一つは、当時のローマでトマス派が支配的だったことを受けて、他の地域もそれに従ったに違いないとジルソンが推測したことにあるという。さらに、ちょうどジルソンが生きた一九世紀末から二〇世紀初めにかけてトマス主義が隆盛を極めたことで、結果的にその影響によってジルソンにおいてもトマス主義偏重が強められたのではないか、ともいう。実際には、16、17世紀のパリ大学などにおいてはむしろスコトゥス思想が一般的になっていて、トマス主義を重んじる傾向にあったイエズス会とは様々な点で(文化的、政治的に)対立していたという。イエズス会のコレージュ開設をパリ大学側が阻止しようとしたりしていたのだとか(1595年、1604年、そして1616年以降)。ちなみに、デカルトは当初イエズス会での教育を受けていたわけだけれども、その思想はむしろスコトゥス主義と親和的な要素を多々もっているとされる。

この論考では、当時のトマス派とスコトゥス派との対立的論点を、その主要な論者たちを通じて整理してみせている。まずイエズス会内部でも、たとえば事物と形式的概念との間に第三の現実を認める(14世紀のサン=プルサンのドゥランドゥスの議論)かどうかといった問題において、反対派のスアレスと擁護派のガブリエル・バスケスの対立があったという。同様の議論はパリ大学でも、アブラ・ド・ラコニスやエウスタキウスがドゥランドゥス説を支持していた。ほかにも存在の類比か一義性か、人間の形相は単一か複数か、第一形相は純粋に可能態か形相から独立しうるかなどなど、お馴染みのトマスvsスコトゥスの構図で出てくる諸問題が取り上げられているけれど、どうやらトマス派ではアントワーヌ・グーダン、スコトゥス派ではアブラ・ド・ラコニスやエウスタキウス、スキピオン・デュプレクスあたりがとりわけ重要な人物のように描き出されている。ふむふむ、いずれも要チェックだ(笑)。

デカルトと化学

ベルナール・ジョリ『デカルトと化学』(Bernard Joly, Descartes et la chimie, Vrin, 2011)を一通り読んでみた。デカルトが化学をあまり正面切って扱っていないことはよく知られている。17世紀当時、化学は錬金術とかなりオーバーラップしているわけだけれど、それらをデカルトは世迷い事の類として片づけていたことは比較的よく知られている。ところが一方で、デカルトは化学の実験がもたらす結果について少なからぬ関心を示していたという。書簡などからそのことがわかるのだそうだ。挫折こそしたもののみずから実験に手を染めようともしていたという。そんなわけで同書は、デカルトの化学に対する両義的な姿勢について、主に主著の『哲学原理』を丹念に読みつつ検証していく。丁寧な著作ではあると思うのだけれど、なんというか、そこから導かれる結論はそれほど意外なものではない。粒子論を考え、それら粒子の運動として諸現象を考えていたデカルトは、たとえば火をそれ自体元素とは認めず、物質のある状態だとするなど、確かにそれまでのアリストテレス的なものの見方からの大きな乖離を体現してはいた。当時「流行っていた」化学に対しては、説明としての学知の体をなしていない、虚構にすぎないなどとして一蹴し、化学が扱う対象(塩酸とアルカリ酸の反応など)をも粒子論・機械論的還元を通してみずからの体系に位置づけようとしていた。化学はデカルトにとって、自説の事例を汲み取るための「実験の貯蔵場所」でしかなかったという。

面白いのは、そうした化学への批判がデカルト自身の体系にもブーメランのように舞い戻ってくるというあたりの話。デカルトは自然学的な諸現象の説明(『哲学原理』の三巻以降)に際して、様々な仮説を積み重ねていくわけだけれど、その根底が虚構であることを自覚しているといい、化学を虚構扱いするその批判は本人の体系にも向けられうるという危うさを孕んでいる、というわけだ。ライプニッツや少し遅れた時代のヴォルテールなどがそのあたりを突いているという。著者が指摘しているように、ヤン・バプティスト・ウェーニクスによるデカルトの肖像画で、デカルトが持っている書に「mundus est fabula(世界は寓話だ)」と書かれているのは示唆的だ。

ウェーニックスによる<デカルトの肖像>
ウェーニックスによる<デカルトの肖像>

デカルトからの反照

スアレス研の一環という意味合いも含めて、今年は少しデカルトの周辺、デカルト前史というあたりも眺めてみたいと思う。そんなわけで、まずはデカルトの同時代的なアリストテレス主義の話から。 『デカルト必携』という書籍(未入手だけれど)から、デニス・デ・シェーヌ(ワシントン大学、デカルトのほかスアレスなどの研究も多数あるようだ)担当の一章「アリストテレスの自然哲学:物体、原因、自然」(Dennis Des Chene, Aristotelian natural philosophy: body, cause, nature, A Companion to Descartes, Wiley-Blackwell, 2010)がPDFで公開されている。。同時代のアリストテレス主義の自然学がどのような問題を扱っていて、デカルトが対照的にどういう立場をとっていたかを手際よくまとめている。デカルトの参考書のためのものだけあって、アリストテレス主義側の具体的な事例は必要以上には詳述されていないけれど、大枠の理解としては参考になりそうだ。13世紀半ばから大学のカリキュラムに入っていたアリストテレスだけれど、16世紀後半には、それまでのアリストテレスの著作への註解ならびに問題の検証という形式が、主題別により体系的に内容を扱う講義もしくは教科書の体裁が確立する。スアレスの『形而上学討論』、ロドリゴ・デ・アリアガ『哲学教程』など。アリストテレスのような古典としての権威はなかなか崩れはしないものの、神はともかく人の権威者たちは、信仰の面でも経験上からも、少しずつ重みを失いつつあったという。デカルトの登場はまさにそれを体現している、と。

スアレスなどは、実体と様態を区別するとともに、いくつかの属性(量や色など)には「レス」(事物)という独立した地位を与えて、存在論的に独立したものと見なしているというが、デカルトからすれば実体と様態の区別以下は必要ない(神学の側がそうした区別にごだわるのは、実体変化の教義を説明づけなくてはならないから)。また、アリストテレス主義が(というかトマス主義だけれど)すべての事物に一つの実体的形相と偶発的な属性の変化を認めるところで、デカルトはその粒子論的な立場から、実体的と偶発的の区別は不要だと考える。「量」については、スアレス(とペドロ・ダ・フォンセカ)はそれが質料に拡がり(extension)をもたらすものであるとして、拡がりに現勢態と潜在態を区別するが、対するデカルトは拡がりは一様でしかないとし、そこに実体と量との区別を認めない。そもそもの質料についても、スアレスは質料が量を受容できることが形相と結びつく前提条件としているのに対して、デカルトはそもそも物体それ自体が実体であり「形相」に相当するものは拡がりにほかならないとする……。ほかに原因論についてもこうした立場の違いが明確に整理されているわけなのだけれど、こうして見ると、やはりそれぞれの議論に、ここで整理されている以上の細かい記述を具体的な著書なり思想家なりに沿って見ていきたい気分になる。デカルトの周辺・前史への取り組みは、おそらくそういう形を取っていくのが望ましいかな、という感じ。