アラン・ド・リベラの『主体の考古学III – 二重の革命 – 思考の行為1』(Alain de Libera, Archéologie du Sujet III : La double révolution: L’acte de penser 1 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie), Paris, Vrin, 2014)を、時間的に飛び飛びに読んでいるところ。第三巻めの前半ということなのだが、相変わらず、ある意味自由闊達に時空を飛び越え、中世と近代とを往還しつつ議論が進んでいく。仮定として出される理論やテーゼを独自のシーグル(略号)で表したりもするため、ちょっと油断していると前に出てきたシーグルの意味を忘れてしまって、そこまで戻らなくてはならなくなったりもする(苦笑)。その意味で、多少とも読みにくさはあるのだけれど、前の巻に比べてわずかながら図式的な整理が進んでいる気もする。すごく大まかな見取り図で言うなら、この巻の主要なテーマは、主体概念と客体(対象)概念のそれぞれが、ある種の「交差配列」を経て成立していく過程ということになりそうだ。
宗教改革以降の神学についても概略を押さえておきたいと思い、ちょうど出ていたW. J. ファン・アッセルト編『改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開』(青木義紀訳、教文館、2016)にざっと目を通した。本格的論文集かと思いきや、なんとプロテスタント神学(という言い方を同書はあえてしていないのだけれど)の歴史にまつわる入門書。こちらとしては願ったり叶ったりという感じだ。全体的な流れが掴めるようにとの配慮から、先行するカトリックのスコラ学の概要や、それを支えたアリストテレス思想の概要までちゃんとまとめてある。そして本題となる「改革派」の神学。そちらも年代区分を設定し(1560年から1620年の初期正統主義時代、1700年ごろまでの盛期正統主義時代、1790年ごろまでの後期正統主義時代)、それぞれの概要や代表的論者のサンプルを紹介している。
さてさて本筋に戻って、中世哲学関連の話を。このところ、中世哲学の研究史についていろいろと興味深いトピックが出てきている気がするが、これなどはまさにその王道というか、正面切っての精力的な取り組みになっている。カトリーヌ・ケーニヒ・プラロン『哲学的中世研究と近代的理性–ピエール・ベールからエルネスト・ルナンまで』(Catherine König-Pralong, Médiévisme philosophique et raison moderne: de Pierre Bayle à Ernest Renan (Conférences Pierre Abélard), Paris, J. Vrin, 2016)。18世紀から19世紀にかけての、中世研究の成立史を追った一冊。全体は四章構成になっていて、最初が概論的な中世研究史、次がアラビア哲学の認識問題、第三章は神秘主義vsスコラ哲学、第四章はアベラールの受容の変遷史を扱っている。著者本人も序文で記しているように、全体を俯瞰した後、徐々に問題圏を絞り込んでいくという構成になっている。
個人的に注目したいと思ったのは、とくにこの第四章のピエール・アベラールの受容の変遷。18世紀の啓蒙主義時代のアベラール評価は、基本的にその自伝や同時代の証言などにもとづき異端的とされ、さらにエロイーズとの手紙などの関連で、物語的な(ロマネスクな)人物像で彩られていた。さらにその異端的な部分(スピノザ主義の先駆として、あるいは無神論者として)がドイツの哲学史研究者によって強調され、19世紀初頭までそうしたネガティブな評価が優勢だったという。普遍論争の絡みでも、アベラールはプラトン主義者と見なされ、実在論の人という形で評価されたりもしている(まあ確かに、そのように読める箇所がアベラールのテキストには随所に見られるのだけれど)。これに異を唱える先鋒となったのが、ヴィクトール・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)で、主に校注版の編纂を通じて、アベラールの評価を180度変えていくことになる。聖書の注解書に見られる正統教義の理解(スピノザ主義や無神論ではない)、『sic et non』に見られるスコラ哲学の嚆矢的なスタンス、師のロスリンを発展させた形での概念論的なスタンス(プラトン主義ではなく、むしろ唯名論に近い)などなど。