「近代初期・近世のほうへ」カテゴリーアーカイブ

トマス/オリヴィからリードへ(リベラ本)

Archeologie Du Sujet: La Double Revolution: L'acte de penser (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)アラン・ド・リベラの『主体の考古学III – 二重の革命 – 思考の行為1』(Alain de Libera, Archéologie du Sujet III : La double révolution: L’acte de penser 1 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie), Paris, Vrin, 2014)を、時間的に飛び飛びに読んでいるところ。第三巻めの前半ということなのだが、相変わらず、ある意味自由闊達に時空を飛び越え、中世と近代とを往還しつつ議論が進んでいく。仮定として出される理論やテーゼを独自のシーグル(略号)で表したりもするため、ちょっと油断していると前に出てきたシーグルの意味を忘れてしまって、そこまで戻らなくてはならなくなったりもする(苦笑)。その意味で、多少とも読みにくさはあるのだけれど、前の巻に比べてわずかながら図式的な整理が進んでいる気もする。すごく大まかな見取り図で言うなら、この巻の主要なテーマは、主体概念と客体(対象)概念のそれぞれが、ある種の「交差配列」を経て成立していく過程ということになりそうだ。

主体の側で言うと、アヴェロエスの知性の二重化(能動知性・質料的知性)によって導入された、思考する離在的「主体=エージェント」とでもいう概念が、アヴェロエス派に対するトマスの反論によって、いわば各人の内面に一元的に取り込まれることとなり、いわば分裂した主体(操作としての思考と対象としての思考)としての人間という考え方が広く定着していく(トマスの学説が標準として確定されることによる)。対象の側で言うと、トマスのその教説においては対象も二重化し、外的対象と、思考対象としての像(スペキエス)が確立される。やがて今度はペトルス・ヨハネス・オリヴィがそれを批判するようになる。そこでの眼目は、スペキエスなどの仲介物を介さない、対象と思考との直接的なやりとりを目することにあるのだが、オリヴィの説も、それに追随するフランシスコ会派の考え方も大勢を得るにはいたらない。それははるか後代にまで持ち越される。やがて出てくるのが、18世紀のスコットランドの哲学者トマス・リードだ。

リードは表象主義(観念説)を否定し、ある意味オリヴィ的な直接主義(直接的現実主義)を主張する。そこで否定される観念説というのは、外界の対象物の像(対象物そのものではなく)を認識の対象に据えるという立場で、いわばトマス的な像(スペキエス)の正統な末裔とでも言えそうなものだ。リードによれば、プラトンからヒュームまで、そうした観念(イデア)を認識対象に据えてきた点は共通だったとされる。デカルトなどもアリストテレスなどのくびきを揺さぶっただけで、そうした共通の教えを打破するところまでは行っていない、とも主張する。ここに一つの結節点を見て取るリベラは、一方でリードの継承者でも批判者でもあったウィリアム・ハミルトンなども取り上げていく。このあたりの詳細は第三巻の後半(現時点では未刊)を待たなくてはならないようだけれど、いずれにしてもこのように、リードとその周辺においてこそ、主体と対象のそれぞれの二重化は確立され、それらの交差配列が近代的主体の基礎となっていくというのだ。

偽ロンギノス

崇高の修辞学 (シリーズ・古典転生12)名前は聞いてもまだ実際のテキストは未読のディオニュシオス・ロンギノス(伝)『崇高論(περὶ ὕψους)』(1世紀ごろの修辞学のテキスト)。これについての研究書が出たと聞き、さっそく読んでみる。星野太『崇高の修辞学 (シリーズ・古典転生12)』(月曜社、2017)。修辞学的に「崇高」概念を扱った最古の書とされる偽ロンギノスの『崇高論』は、長い忘却の後に16世紀に再発見され、17世紀にニコラ・ボワローの仏訳などで広く知られるようになったというが、その後再び忘却へと転じ、その間崇高概念自体はバークやカントを通じて「美学」の領域で練り上げ直され、やがて20世紀の終わりごろになって、ミシェル・ドゥギー、ラクー=ラバルト、ポール・ド・マンなどが取り上げるようになる……。この大筋の流れに沿って、大元の『崇高論』がどのように「発見」され、また「換骨奪胎」されていくのかを追う、とうのが同書。三部立てで、いわば三段ロケットのような構成。

個人的に興味深い点を二つほど。まず、偽ロンギノスのそもそもの崇高概念が、「いわく言いがたいもの」として、テクネーとピュシス、パンタシアー(ファンタシア)とパトス、カイロスとアイオーンのそれぞれの交差・狭間に位置づけられるとする第一部の説。これら対概念は、ロンギノスにいたる思想的伝統の中で、ときに一方が他方を産出する触媒のように扱われていたりするようだが、それがロンギノスにおいて、ある種別様の明確な区別、あるいは産出関係の逆転のような事態に至っている、ということらしい。伝統の継承とその変形という観点から、このあたりの変遷はもっと深掘りしてほしい気もする。

もう一つは、近代初期においてまさに「いわく言いがたいもの」として崇高概念を訳出した、ボワローの翻訳の問題(第二部)。一般に忠実ではないとされているというその翻訳だが、同書の著者はそこにある種の意図的な操作を見ようとしている。同書に引用されている箇所からすると、確かにその意図的操作という捉え方には賛同できそうに思える。原文にない語の挿入という点は、いわば訳注が字の文に入り込んでいる感じだ。「崇高」そのものと「崇高な文体」という原文にない区別を用いているという点も、読み手への配慮という感じだったりはしないのだろうか。また、原文が「詩人みずから復讐の女神たちを見ている。そして、彼はみずからの心のなかにあるパンタシアーを、聴衆にも否応なく喚起するのだ」となっている部分を、ボワローが「詩人は復習の女神たちを見てはいなかった。しかし、彼はそれを生々しいイメージに変えることで、それをほとんど聴衆に見せるまでにいたったのである」と、字面的には正反対に訳しているという箇所も、ボワローがおのれのファンタシアの理解・解釈(つまりは復讐の女神はそのまま見られうるものではなく、ファンタシアとして見る以外にない、ということか。これは知覚論・似像論という哲学的な問題でもありうる)にもとづいて、ある種の修辞的にな誇張の技法をあえて適用しているというふうに考えることもできる(それが許容範囲かどうかはさておき)。ボワローは、字面こそ忠実ではないとはいえ、解釈をともなった意味を伝えるという「翻訳者的な」姿勢においては、ある種の一貫性を有しているような印象だ(要検証ではあるけれど)。

プロテスタントとスコラ主義

改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開宗教改革以降の神学についても概略を押さえておきたいと思い、ちょうど出ていたW. J. ファン・アッセルト編『改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開』(青木義紀訳、教文館、2016)にざっと目を通した。本格的論文集かと思いきや、なんとプロテスタント神学(という言い方を同書はあえてしていないのだけれど)の歴史にまつわる入門書。こちらとしては願ったり叶ったりという感じだ。全体的な流れが掴めるようにとの配慮から、先行するカトリックのスコラ学の概要や、それを支えたアリストテレス思想の概要までちゃんとまとめてある。そして本題となる「改革派」の神学。そちらも年代区分を設定し(1560年から1620年の初期正統主義時代、1700年ごろまでの盛期正統主義時代、1790年ごろまでの後期正統主義時代)、それぞれの概要や代表的論者のサンプルを紹介している。

原書が2011年刊ということで、迅速な邦訳刊行。近年の研究動向が様々に指摘されていることなどもあって、重要視されているのかもしれない。全体を貫くのは、歴史的な連続の相で(断絶ではなく)宗教改革の動きを見ようとする視点。たとえばルターの有名な提題は、スコラ的な方法論の最たるものである神学討論を申し込むという形を取り、その行動そのものはきわめて中世的だったと見ることもできるという(p.87)。人文主義全般もまた、方法論的には中世のスコラとの連続性の中に立っていたとされる。1500年前後の大学の歴史からは、スコラ主義と人文主義の深刻な対立などなかったことがわかってきているという(p.116)。カルヴァンにしても、その批判対象はスコラ的伝統そのものではなく、あくまでソルボンヌの後期唯名論神学だといい、『キリスト教綱要』においては古いスコラ的分類を採用したり、その有用性を認めたりしているのだという(p.119)。歴史的な像は少しずつ塗り替えられているという次第だ。

また、もう一つの全体的な視点として、改革派神学の多様な系統という論点がある。改革派スコラ主義の評価はもはや、たとえばカルヴァン一人だけで代表させるわけにはいかない、とされる(p.268)。いきおい、歴史記述は群像劇的になってこざるを得ないというわけだ。○○主義と言及してよしとするわけにはもういかない、と(p.271)。それはどんなモノグラフについても言えることで、歴史研究の醍醐味はまさに、微細な部分にいかに入り込み、様々な水脈をいかにすくい上げるかというところにあり、研究全般がますますそうなってきている印象だ。

哲学研究と中世主義:アベラールの例

Medievisme Philosophique Et Raison Moderne: De Pierre Bayle a Ernest Renan (Conferences Pierre Abelard)さてさて本筋に戻って、中世哲学関連の話を。このところ、中世哲学の研究史についていろいろと興味深いトピックが出てきている気がするが、これなどはまさにその王道というか、正面切っての精力的な取り組みになっている。カトリーヌ・ケーニヒ・プラロン『哲学的中世研究と近代的理性–ピエール・ベールからエルネスト・ルナンまで』(Catherine König-Pralong, Médiévisme philosophique et raison moderne: de Pierre Bayle à Ernest Renan (Conférences Pierre Abélard), Paris, J. Vrin, 2016)。18世紀から19世紀にかけての、中世研究の成立史を追った一冊。全体は四章構成になっていて、最初が概論的な中世研究史、次がアラビア哲学の認識問題、第三章は神秘主義vsスコラ哲学、第四章はアベラールの受容の変遷史を扱っている。著者本人も序文で記しているように、全体を俯瞰した後、徐々に問題圏を絞り込んでいくという構成になっている。

個人的に注目したいと思ったのは、とくにこの第四章のピエール・アベラールの受容の変遷。18世紀の啓蒙主義時代のアベラール評価は、基本的にその自伝や同時代の証言などにもとづき異端的とされ、さらにエロイーズとの手紙などの関連で、物語的な(ロマネスクな)人物像で彩られていた。さらにその異端的な部分(スピノザ主義の先駆として、あるいは無神論者として)がドイツの哲学史研究者によって強調され、19世紀初頭までそうしたネガティブな評価が優勢だったという。普遍論争の絡みでも、アベラールはプラトン主義者と見なされ、実在論の人という形で評価されたりもしている(まあ確かに、そのように読める箇所がアベラールのテキストには随所に見られるのだけれど)。これに異を唱える先鋒となったのが、ヴィクトール・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)で、主に校注版の編纂を通じて、アベラールの評価を180度変えていくことになる。聖書の注解書に見られる正統教義の理解(スピノザ主義や無神論ではない)、『sic et non』に見られるスコラ哲学の嚆矢的なスタンス、師のロスリンを発展させた形での概念論的なスタンス(プラトン主義ではなく、むしろ唯名論に近い)などなど。

こうした新たな像をひっさげて、いわば殴り込みをかけた(と言っては言い過ぎかな)クザンは、それを通じて、古代とルネサンスの間をとりもつ中世の評価を変え(断絶から連続性へ)、中世思想におけるフランスの地位を高め(スコラ哲学の伝統の嚆矢として)、さらにそのフランスのスコラ学を近代ヨーロッパの黎明の中心に据えるという、一大変革をもたらそうとした、と著者は捉えている。そこには、きわめて政治的な目的と手腕とが見いだされるのだ、と。このあたり、学問にまつわる微妙な政治的きな臭さも含めて、リアルポリティクス的に大変興味深い議論ではある。

デカルト自然学の輪郭

デカルトの自然哲学 (岩波オンデマンドブックス)以前から読みたいと思いつつ、なぜかすれ違っていた(苦笑)小林道夫『デカルトの自然哲学』(岩波書店、1996 – 2015)をようやく読了。仏Vrin社から著者自身が出した仏語版をベースに、日本語版として一部加筆などしたものらしい。自然哲学の面からのデカルトへのアプローチは、今なお国内ではあまり類を見ないので、すでにしてとても貴重な一冊。個人的には四章以降の具体的な自然学を扱った各章がとりわけ興味深い。まずもって、等速直線運動としての慣性の法則を、デカルトがいち早く設定し、それによって無限宇宙の概念(ジョルダーノ・ブルーノ)に物理学的根拠が与えられたといった指摘がなされている(p.92)。円運動も、直線慣性運動と直線加速度運動に分解され、それらの合成によるものとされて(p.100)、もはやアリストテレス的な伝統の、円運動を完全なる運動と考える視点はなくなる。運動は時間と空間の関係で、「関数的あるいは解析的に」(p.101)解明しようとされる。物体の運動は「宇宙の秩序や物体の目的原因ないし形相原因というものに関わらせることなく、その現実態において探求することが可能になった」(p.116)というわけだ。静力学、流体力学において、それは大きな成果を残すことにもなる、と。

しかしながら、と著者は言う。デカルトの自然学においては、宇宙論が地上の物理学に先行していなければならないとされ(p.103)、この根本的な見地がやがてその自然哲学の発展を阻むことにもなる。かくしてデカルトは質料概念を捉え損なってしまい、物質量だけでなく表面積なども関係すると考えてしまう(物質即延長説と空間を満たす微細物質の考え方による逸脱)。そうした一種のホーリズムによって、たとえば自由落下の探求は妨げられてしまう(p.156)。また複振子の振動中心も見いだせないと考えてしまう(p.161)。『書簡』に見られる進んだ数学的発想と、『哲学の原理』の第三部、第四部で展開される宇宙論との落差が、このように鮮明に示されている。