「数の学」カテゴリーアーカイブ

数学的対象の存在論 – 2

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles De Philosophie Des Mathematiques)ガンドン&スマジャ編のアンソロジー『数学の哲学』(ヴラン社、2013)から、ポール・ベナセラフの「数学的真理」(抄仏訳)を見てみた。これもまた大変興味深い一篇。「ニューヨークよりも古い都市が少なくとも三つある」という命題1と、「17よりも大きな完全数が少なくとも三つある」(この場合の完全数は、自身を除く約数の和が自身と一致する数、ということだろう)という命題2は、文法的・論理的には同形(「aに対してRの関係にあるFGが少なくとも3つある」命題3)なのだが、命題1と2はどういう条件のもとに真理値を取るかという点で異なっているか、とベナセラフは考える。とりわけこの命題2は、通常の経験論的な意味論として命題1を解釈するようには解釈できない。経験論的に導き出すことができない以上、その命題を導きうるような、すでに知られたなんらかの定理が必要とされるからだ。そうしたなんらかの定理をpとするならば、pには、真理の定義にもとづいて真であるという「条件」がなければならないし、また、pが知られていると言いうる「根拠」が与えられなくてはならず、その「条件」と「根拠」が結びついていなければならない。しかしながらpそれ自体と、原理にもとづくpへの信頼との間の関係は、確立されなくてはならないにもかかわらず、そのままでは確立されえない……。こうして命題2が真である根拠はすでにして宙に浮いてしまう。標準的な(意味論的な)理解と数学的真理の理解とを結びつけようとしたところで、数学的知識がいかに得られるのかがかえって見えにくくなってしまう。第二部冒頭の編者解説によれば、通常の言語活動と数学的言語活動の乖離というこの立場は、さらにヒラリー・パトナムにも共有されて、折衷案的な「実在論」(純粋に唯名論的ではないという意味での)の流れを形作っていくらしい。というわけで、同アンソロジーはこの後にパトナムの議論が続く。

数学的対象の存在論 – 1

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles De Philosophie Des Mathematiques)大幅に間が空いてしまったが、ヴラン社刊行のアンソロジー本『数学の哲学ーー存在論・真理・基礎』(Philosophie des mathématiques: ontologie, vérité et fondements (textes clès de Philosophie des mathématiques), éd. S. Gandon et I. Smadja, Vrin, 2013)から、冒頭のポール・ベナセラフの少し変わった論考を読む……ということでアウトライン的なメモを。最初に二人の子供が、算術そのものではなく集合概念から入るかたちで数学の基礎を学んだと仮定する。次に今度は、彼らが一通りの演算などを学んだあとで、数そのものを問う問題(「17に3が含まれるかどうか」)を突きつけてみると、両者の見解が分かれたと仮定する。これ自体は虚構というか思考実験なのだけれど、両者の見解(一方は、3というのは17が表す集合の部分集合をなすので、17に含まれると言い、もう一方は、数というのは一つの要素から成る集合であって、隣接するもの以外には含有の概念はありえず、ゆえに3は17には含まれないとする)は、確かにどちらもありゆるような感じではある。どちらもそれまでの前提(集合論)から派生しているからだが、厄介なのは、そのままではどちらが正しいとか決定づけることができないこと。というか、決定づける基準がない。両立はそもそもありえない……。ここでベナセラフは、数を個別要素から成る集合とする考え方を斥けなくてはならないのでは、とアプローチする。

XとYがイコールであるという場合、XとYは同じタイプとして同一のカテゴリーに属するとされる。個別化している事物が同一と見なされるのはそのような場合のみだ。では、数はそのような事物であると考えてよいのだろうか。これにイエスと答えるのがフレーゲ的な立場(「数とは対象である」)だとベナセラフは言う。そしてそれを批判していく。同一性という概念は、繰り返しになるが、それが適用される事物同士が同一カテゴリーに帰属することを前提とする。カテゴリーへの帰属は、理論によって支えられなくてはならない。しかしながらそうした「事物」(あるいは対象、実体でもよい)は、いわば穴埋めの仮概念にすぎず、厳密さを欠いている。もちろん同一性の議論は、狭い定義の範囲でなら論理学的な関係性として、あらゆる学問に適用可能なものではある。ただしその場合、対象、あるいは個物として挙げられるものを決定づけるのは、その当の学問、当の理論にほかならない。ここがミソだ。

数についてはどうか。数が集合と同じカテゴリーに入るということ自体が未決定である限り、上の「17に3は含まれるか」という問いの答えは、意味をなさないか誤りかのいずれかでしかなくなる。数についてのある体系が適合的であることが分かったからといって、数そのものが何であるかということが分かるわけではない。数学者の関心はそうした体系・構造の段階でとどまってしまい、個々の数には向かわない。かくして数は対象には据えられない(フレーゲ的立場に反して)。個別の数を特定の(あれではなくこれというふうに)個別の事物に対応させる理由はどこにもない、とベナセラフは考える。数の属性をいくら言いつのったところで、それは単に抽象的な構造を特徴づけるだけなのだ、と。なるほどこれは面白い論点だ。このような周到に回り込んで結論にもっていく方途そのものに、数学の哲学がもつ面妖さが窺えるという点でも、興味深いかもしれない(笑)。さしあたり、もう一つ採録されているベナセラフの議論も見てから改めて全体を考えることにしよう。

数学的対象の存在論 – 0

現存する最古の「ゼロ記号」の用例が見られるとされるバクシャリ写本(Bakhshali manuscript)は、1881年にパキスタンで発見された文献。当然ながら数学史的に重要なものとされ、従来は8世紀から12世紀ごろにかけて成立したとされてきたようだが、炭素年代測定法の結果、実は3世紀から4世紀のものだったことが判明したと先週、オックスフォード大学ボドリアン図書館が発表したそうだ(こちらの記事を参照)。バクシャリ写本というのは、算術の問題と解答が記されている文献で、そこでのゼロ記号(ドット記号)は、桁を表す記号と自立した数字との両義的な記号として扱われているようだ。ドット記号がそれ自体一つの数字として確立されるにはもう少し時間がかかったようなのだけれど(ゼロ概念について論じた最古の論考は628年の『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(Brahmasphutasiddhanta))、それにしてもこの記号的両義性はなかなか悩ましいもののようにも思える。

Philosophie Des Mathematiques: Ontologie, Verite, Fondements (Textes Cles De Philosophie Des Mathematiques)これがやたらと気になったのは、数学的対象の存在論についてのアンソロジーを読み始めているところだったからか。仏ヴラン社の「テクスト・クレ」シリーズから出た『数学の哲学−−存在論・真理・基礎』(Philosophie des mathématiques: ontologie, vérité, et fondements (Textes clès de philosophie des mathématiques), éds. S. Ganidon et I. Smadia, Librairie philosophique J. Vrin, 2013)というもの。サブタイトルのテーマで三部構成とし、それぞれ2〜3本の重要な論文ないし文献の抄録をまとめたもの。さらにテーマごとに解説も付いている。というわけで、同書も精読していきたいところ。まず第一部はポール・ベナセラフという米国の哲学者の二つの論考の抄録。「数は何でありえないか」(65年)と『数学の真理』(部分:73年)。冒頭の解説によれば、ベナセラフの論考は数学の哲学においては重要で、後の世代に与えた影響が大きいという。たとえば都市というものが都市名で参照される対象であるように、整数(entiers)もまた参照の対象であると考えるべきだとしつつ、一方で、それは通常の対象物と必ずしも同じ意味での対象なのではないとも述べているという。実在論的ながら、奇妙な捻れを含んだ存在論というところか。この捻れは、後に大きな分裂をもたらすことにもなるらしい。さしあたり本人の論考においては、後者の考え方に重きを置くのが65年の論考、むしろ前者の側面を強調するのが73年の論考なのだとか。これはある意味、意味論と認識論との間の逆説でもある。数学記号を意味として一義的なものと捉えることは計算の基本になるけれども、認識論的に考えるなら、理論的な組み合わせによって必ずしも同一記号が同じ内容を表すとは限らない、といった事態が生じる。これが捻れの正体でもあるわけだけれど、ベナセラフ本人はこの捻れ・齟齬については問題を開いただけでよしとしているという……。そういった概要を踏まえつつ、実際のテキストに当たってみることにする。

デカルト自然学の輪郭

デカルトの自然哲学 (岩波オンデマンドブックス)以前から読みたいと思いつつ、なぜかすれ違っていた(苦笑)小林道夫『デカルトの自然哲学』(岩波書店、1996 – 2015)をようやく読了。仏Vrin社から著者自身が出した仏語版をベースに、日本語版として一部加筆などしたものらしい。自然哲学の面からのデカルトへのアプローチは、今なお国内ではあまり類を見ないので、すでにしてとても貴重な一冊。個人的には四章以降の具体的な自然学を扱った各章がとりわけ興味深い。まずもって、等速直線運動としての慣性の法則を、デカルトがいち早く設定し、それによって無限宇宙の概念(ジョルダーノ・ブルーノ)に物理学的根拠が与えられたといった指摘がなされている(p.92)。円運動も、直線慣性運動と直線加速度運動に分解され、それらの合成によるものとされて(p.100)、もはやアリストテレス的な伝統の、円運動を完全なる運動と考える視点はなくなる。運動は時間と空間の関係で、「関数的あるいは解析的に」(p.101)解明しようとされる。物体の運動は「宇宙の秩序や物体の目的原因ないし形相原因というものに関わらせることなく、その現実態において探求することが可能になった」(p.116)というわけだ。静力学、流体力学において、それは大きな成果を残すことにもなる、と。

しかしながら、と著者は言う。デカルトの自然学においては、宇宙論が地上の物理学に先行していなければならないとされ(p.103)、この根本的な見地がやがてその自然哲学の発展を阻むことにもなる。かくしてデカルトは質料概念を捉え損なってしまい、物質量だけでなく表面積なども関係すると考えてしまう(物質即延長説と空間を満たす微細物質の考え方による逸脱)。そうした一種のホーリズムによって、たとえば自由落下の探求は妨げられてしまう(p.156)。また複振子の振動中心も見いだせないと考えてしまう(p.161)。『書簡』に見られる進んだ数学的発想と、『哲学の原理』の第三部、第四部で展開される宇宙論との落差が、このように鮮明に示されている。

ソフトな大上段本?

数学する身体いろいろと作業が山積していたせいで、ブログは三週間ほど放っておいてしまったけれど、やっと少しばかり肩の荷が降りたので、ぼちぼちと復帰しよう。このところマクロな視点で語る基本書のようなものが各分野で出ていて、この二週間ほど少し気分転換的に読んでみた。どれも多少大味というか、チャートっぽい感じではあるのだけれど(そうなってしまうのは概説的であるからだが)、また大上段から構えているわりには語り口がやたらにソフトな点も少々気になるのだけれど(著者がおしなべて若い人たちだからか)、どれも話題作として売れ行きは悪くないようで、ある種の現象として興味深い。たとえば音楽なら、浦久俊彦『138億年の音楽史 (講談社現代新書)』(講談社、2016)、哲学がらみなら三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』(ピー・エヌ・エヌ新社、2016)。さらに数学もある。森田昌生『数学する身体』(新潮社、2015)

この『数学する身体』、とくにいいなと思うのは、論理性の塊というように一般に思われている数学が、実は直観や感性といった非論理的な面と通じていることを、数学史的な逸話(古代ギリシアからルネサンス期、さらに現代数学、チューリング、岡潔などと、一気に駆け抜けている)でもってさりげなく示している点。高校時代あたりのことを振り返ると、個人的に受験数学などは解法パターンでしかないと思っていた。けれども周りにいた、より数学ができる人というのは、そういうパターン思考というよりもむしろ柔軟に、瑞々しい感性でもって、あるいは直観的な洞察でもって問題に立ち向かっていたような印象が強い。個人的にも数学がその意味で発見の喜びに満ちあふれていることをわずかながらでも知ったのはずいぶん後になってからだけれど、同書はもしかすると、そんなふうにパターン思考などで凝り固まっている向き、あるいは文系志向にばかり染まりきっている向きにはなかなかタイムリーな啓蒙の書となるかもしれない(?)。