「アルシ・エクリチュール論」カテゴリーアーカイブ

「主体の考古学」の底流

L'Invention Du Sujet Moderne: Cours Du College De France 2013-2014 (Bibliotheque D'Histoire de la Philosophie)久々にアラン・ド・リベラを読んでみた。とはいえ、いまなお続いている「主体の考古学」シリーズの最新刊ではなく(そちらもそのうち見たいとは思っているのだけれど、なかなか着手できない……)、今回はコレージュ・ド・フランスでの2013年から14年の講義録『近代的主体の発明』のほう(Alain DE LIBERA, L’Invention du sujet moderne: Cours du Collège de France 2013-2014 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie), Paris, J. Vrin, 2015 )。リベラの思考や参照は、相変わらず中世にとどまらず、近現代などとも盛んに行き来する。さながら、古楽演奏の大御所が必ずしもバロックにとどまらず、いつしか古典派やロマン派などにまで解釈を広めていったりもするかのようだ。ただ今回は講義録ということで、いくぶん読みやすくはなっている。主体についての議論ということでまずはフーコーが引き合いに出されているのだけれど、実は一連の議論の発端には、ニーチェ(魂、自己、主体は三つの「迷信」だとする)があったことをリベラは告白している。

近代的主体概念は一般にカントに始まるとされ、さらにその後のハイデガーなど、その思想圏の中心にはドイツがあったというふうに描かれる。リベラはそれをさらに遡ろうとし、まずは教会制度の仲介を経ないで信者が神と向き合うようになった14世紀初頭の神秘主義(エックハルトなど)に、主体概念成立の萌芽を見る。前々回の記事で取り上げたケーニヒ・プラロンの議論では、そのドイツの神秘主義は、フランスを中心とするスコラの伝統へのアンチとして、ドイツのある種のナショナリズムに絡んで復元されたという経緯があるらしいが、ここでのリベラはむしろ、ドイツに奪取された近代的な主体概念の歴史をいわば脱構築して、ふたたび覇権をフランスやイタリアに取り戻そうとしている感じにも読める(これは多少穿った見方だけれど)。主体概念成立に多少とも寄与した論者たちとしてリベラが参照するのは、ペトルス・ヨハネス・オリヴィ、アクアスパルタのマテウス、さらにはオーベルニュのギヨームだったりする。それぞれの議論が、はるか後世のハイデガーやニーチェの議論のレンズを通して立体的に捉えられる。もちろんそれはある種のアナクロニズムなのだが、その考察を通じて、主体の成立に何が必要だったのか、どのような認識、どのような構造がそうした主体概念を支えてきたのかを考え直そうとする。そんなわけで、これは単なる思想史の枠にはとうてい収まらない(ゆえにリベラのような大御所ではければできないし許されない類の)、まさしく哲学的営為になっている。

時間の空間表象の問題……

Principes De Linguistique Theorique (Lecons De Linguistique De Gustave Guillaume)少し前に言及した、独特な観点をもっていたという言語学者ギュスターヴ・ギヨーム。その未刊行文書集(当時)こと、『理論言語学の諸原理』(Gustave Guillaume, Principes de linguistique théorique (Lecons de linguistique de Gustave Guillaume), (dir.) Roch Valin, Klincksieck, Paris, 1973)が届いていたので、さっそく目を通し始める。基本的には講義録のようで、1938年から60年までソルボンヌの高等研究実習院での講義を集め、それらを体系的に組み替えて並べてみたという一冊。読み進めながら気になるところなどあれば、メモしていきたいが、とりあえず冒頭の1952年から53年度の開講講義を読んでみた。そこでは、ギヨームがみずからの研究を振り返り、ごく簡単なまとめを示している。なるほど、自身の初期の研究が冠詞論で、ラングからスピーチアクトへの「現働化」(これがアリストテレス的と言われるところ)の問題を問うことになったのはその文脈においてだったことが示されている。

けれども個人的にもっと惹かれたのは、その後に取り組むことになったとされている動詞の時制の問題。そこではなんと、時間の空間的表象の問題を取り上げているのだという。これはちょっと見るからに面白そうだ。たしかに時間を図形的(直線も含めて)に扱うというのは古くからあるけれど、なぜそういう表象になっているのかはよく解せない。中世後期の論者たちなどは、これまたアリストテレスに準じて、直線上の点の無限分割を、時間軸における瞬間の無限分割に重ねるのが一般的だが(メルマガで見ているビュリダンなどもやっている)、その一種の図形指向そのものが問われることはなかったように思われる。読んでみないことにはなんとも言えないが、そのあたりに関するギヨームの言語学的議論がどのような広がりを見せているのか、とても気になるところ。

破壊的可塑性

新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考えるカトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(平野徹訳、河出書房新社、2016)を見ているところ。とりあえず、冒頭部分の第一部。マラブーの本は、以前ちょっとだけ読んだことがあるけれど、脳がもつ可塑性という概念を、どこか形態的なもの(神経系の再編など)から機能的なもの(心的機能)へと話をすり替えるような議論で、しかもそれをなにか新たな可能性の発現としてのみ解釈している感じで、正直ちょっと抵抗を覚えたものだった。それからずいぶん経って、その解釈(その書きっぷりも)が大きく変化していることを知る。アルツハイマー症による人格の激変(著者の祖母だという)を間近で見たというのがモチーフの一つになっているようなのだが、そのような「別の誰かになってしまう」という現象の存在を、外傷による人格の変化などの事例と合わせ、内的・外的原因の区別をいったん取り払って、両者を同じ分類で俎上に載せるというのが、同書の特徴的な出発点だ。両者は「破壊的可塑性」と著者が呼ぶ概念で括られる。そこから、脳科学、認知論、精神分析などの諸要素について新たな読み替えを提唱する、という戦略のようだ。

ここでの可塑性はリハビリなどで発現する形態的・機能的な組み替えなどではなく、まさに破壊による急激な、突発的な変容。その状態から「脳の苦痛」の表現が発せられているのではないかという。たとえば認知症患者には、一種の退行現象が見られるとされるのが一般的だけれど、著者によると、それは世間的によく言われるような「子供への回帰」ではない。幼年期に帰ったように見えて、それは患者本来のものではない幼年期、生きられるはずのない幼年期でしかないと著者は言う。なるほど、認知症の患者に対して、発症前との連続的な相を重視して接するというのが現行のケアの基本になっているが、ここではそれにあえて、徹底的に断絶の相を導入し、そこから見ようとしているところがとても共感できる。とくに親族など、過去の患者を知る者がその患者に接する実地体験からすると、この断絶の相を無視することはできない。患者は端的に、過去から切り離されているように見えるからだ。ここでの議論では、むしろその断絶の相を重視することで、新たな解釈(および治療?)の可能性を見いだせないかと問うている。また、脳損傷における脳の自己触発という考え方も興味深い。破壊を触発するものが脳みずからの内部に潜んでいること、なにがしかの内的力学の達成を、損傷後の患者の振るまいが語ってはいないか、という問いかけだ。かつて神経科学的に否定されたフロイトの「死の衝動」議論を、別様に復権できるかもしれない可能性が示唆されている。

オピキヌス・デ・カニストリス

opicinus1寡聞にしてこれまた知らなかったのだけれど、オピキヌス・デ・カニストリス(1296〜1353)というイタリアの聖職者は、かなり異例な著書および線画を残しているのだという。もとより波乱に満ちた人生を送った人物のようだけれど、最も重要なのは40歳前にして病気で生死をさまよい、そのときに神秘体験を得ていること。主要な二つの絵入りの著書(Vaticanus latinus 6435、Palatinus latinus 1993の二手稿)は、その体験の後に描かれ著されているのだとか。一説によるとその絵は精神疾患(統合失調症?)ではないかという話もある。ネットでもいくつか見られるけれど、幾何学的な抽象的図式と人物像とが合わさっていたり、ヨーロッパ一帯の地図が複数の人物像になっていたり(その一例として図を参照。Vat.lat.6435からのもの)、なにやらとても奇異で興味深い(それらのモチーフは様々に反復されている)。

というわけで、こうした絵についての論考を、とりあえず一つ読んでみた。ダニエラ・ズティック「再び見ること:オピキヌス・デ・カニストリスの作品における幾何学、地図製作法、ビジョン」(Danijela Zutic, Seeing again: Geometry, Cartography and Visions in the Work of Opicinus de Canistris, Univ. of British Columbia, 2012)(PDFはこちら)というもの。ちょっと荒削りな感じもする(?)学位論文なのだけれど、個人的な取っ掛かりとしては悪くなさそう(かな?)。基本的には、精神疾患の側面から扱われることの多かったオピキヌスの線画について、より対話的な鑑賞を提唱し、オピキヌスの念頭にあったであろう神学的な理論の視覚化という意図ないし知的運動を取りだそうという試み。ただ、絵そのものの綿密な解読というよりも、ほかの著名な論者などの主張ないし解釈(メアリー・カラザースからドゥルーズまで、いろいろ引用されている)の適用の比重が高い感じがする。そのあたりが荒削りと評した理由だ。けれども、たとえば研究史のまとめなどは有益だと思えるし(オピキヌスが再発見されたのは1930年代で、リチャード・サロモンによる伝記研究が嚆矢。精神疾患の文脈で捉えられるようになったのは、1950年代のエルンスト・クリスの解釈によるのだとか。90年代になってようやく、肯定的な意味合いを見出そうとする研究が出てくるという)、上の地図と人物の重ね合わせについてもよくわかるコメントが添えられていたりもする。それらの絵の一つでは、欧州大陸が男性、北アフリカが女性、地中海が悪魔に重ね合わせられ、さらにそこに「罪の原因」といった言葉が添えられていたりし、これがアダムとエヴァであることが示されているのだという。この論考はPalatinus Latinus 1993を主な考察対象としているけれど、より総合的な図像解釈が期待されるところ。さしあたり同論文が参照している文献なども、いくつか読んでみたい。

絵画表現:重なり合い問題

Giotto_-_Scrovegni_-_-06-_-_Meeting_at_the_Golden_Gateちょっと着眼点の面白い絵画論を読んでみた。バーバラ・ジラム「初期ルネサンス芸術における重ね合わせ問題」(Barbara Gillam, Occlusion issues in early Renaissance art, i-Perception, vol.2, 2011)というもの。この論考で問われているのは、絵画において人物やモノが重なりあっていること(occlusion)、つまり隣接する表面が実は別々の深度にあって、一方が他方の後ろに回っていることをどう表現しているかという問題。中世末期からルネサンス初期(一四世紀のシエナとフィレンツェ)の絵画でこれが問題になるのは、ときにそれが微妙に「変な」表現になっている場合があるからだ。たとえば一四世紀のジョットの一枚≪ヨアキムとアンナの黄金門での出会い≫の左下で、顔がくっついているように見える部分(画像参照)。これは反例の一つなのだけれど、こういうところから、もっと自然な深度が得られる条件とは何かを探っていこうとする。ま、条件そのものはそれほど意外なものではなく、T字交差(T-junction)とかエントロピー・コントラスト(entropy contrast)とか、なにやら物々しい専門用語が使われているけれど、要は重なる手前側と向こう側のそれぞれの要素の独立性(の印象)が強まればよいということだ。手前側が凸状であるほうがよいとか、地面の描き込み、俯瞰的な視点を取る、グループ化するなど、そうした区別をはっきりさせるテクニックはいろいろあり、実際にそれらの実例がジョットやドゥッチョなどの絵画に散見される。論考はそれらの実例を列挙している。ドゥッチョの場合には顔の重なりを避けていて(ジョットとは対照的に)、聖人を示すのに用いられる光輪を、そうした直接の重なり回避のために用いていたりもするようだ。

で、ふと思ったのだけれど、この重ね合わせという絵画的現象は、ある意味で「ライン」の生成の一事例という感じもしなくない。先日読んでここでも取り上げたインゴルド『ラインズ 線の文化史ではないけれど、こうした重ね合わせは知覚に生じるごく原初的な「エクリチュール」であるというふうにも言えるかもしれないなあ、と。さらには、カオスの中からまとまったゲシュタルトを切り出してくる作用という意味で、それはアルシ・エクリチュールと呼んでもよいのかもしれない、と(デリダのもとの用語とは意味合いがずれるだろうけれど)。そうした知覚や認識の深い部分に関わる研究というのも、集めてみたら面白そうだと思う。というわけで、このブログでも新カテゴリーとして「アルシ・エクリチュール論」というのを設けてみることにしよう。