アンソロジー『数学の哲学ーー存在論、真理、基礎』(Philosophie des mathématiques: Ontologie, vérité, fondements (Textes clès de philosophie des mathématiques))の第三部は、論理主義と直観主義それぞれの陣営から、リチャード・ヘックJr「フレーゲの定理への導入」と、ミカエル・デトレフセン「ブラウワーの直観主義」の仏訳を採録している。でもまずはそれらの前に置かれた、編者らによる解説から見ていく。これは両テキストの位置付けを解説したもの。まずヘックの論考は、フレーゲの論理主義そのものというよりも、その後の「新論理主義」からフレーゲを見直したものと位置付けられるのだという。論理主義の肝は、入れ子状の量化を扱える論理学の構築と、ペアノの公理(とくにその数学的帰納法の原理)の論理性の担保にあるとされるのだけれど、フレーゲは前者を満たすことには成功したものの、後者は満たしていないとされる。それぞれの概念に外延がある、というフレーゲの仮定には矛盾があるとするラッセルのパラドクスがその点を突いている、というわけだ。で、「新論理主義」は、フレーゲが準拠するヒュームの原理(一対一対応)が論証されれば、フレーゲが持ち出す「外延」(extensioin)は不要になるとの考え方から、たとえばクリスピン・ライトは60年代に、フレーゲの二階論理とヒュームの原理から、外延や集合を参照せずに算術を導けることを論証しようとした。ここが起点となって、新論理主義は多方向に分岐していくのだという。
またまた読みかけだけれども、ロバート・ブランダム『推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)』(斎藤浩文訳、春秋社、2016)を見ているところ。原著は2002年刊。文章が少し固い印象で、読み進むのがときおり難儀に感じられるような箇所もあり、できればもう少しこなれていてほしい気もするが、それはともかく、プラグマティズムの一分派だというこの「推論主義」、文の概念的内容を、その文の要素である名辞や述語などからボトムアップ的に考える従来の「表象主義」でなく、それを逆転させるかたちで、文が担う機能的・使用的な面から、この場合なら推論という表現の関係性からトップダウン的に意味を考えるという立場のことを言うらしい。ここでの「推論」も、従来のような論理的能力をベースに、合理的・形式的な推論の規則を記述していくというものではなく、より実質的・実践的な、よりしなやか・細やかで暗黙的な表現の繋がりのようなものを考えているように思われる。
分析美学も聞き慣れないものだったけれど、さらには分析神学、分析宗教哲学なんてものまであるようだ。マックス・ベイカー=ヒッチ「分析神学と分析宗教哲学:違いは何か」(Max Baker-Hytch, Analytic Theology and Analytic Philosophy of Religion: What’s the difference ? in Journal of Analytic Theology 4, 2016)という論文が公開されている。具体的な学問領域の定義はともかく、少なくとも両者がかなり微妙な境界線をもっていることだけは同論考から窺える。もちろん両者は分析哲学系のアプローチ(とくに可能世界論など)を踏襲したものらしく、同著者によれば、とくに分析宗教哲学は「神、死後の生、宗教的信仰、信条、宗教体験など、宗教的に意味のあるトピック」を扱う分析哲学の支流ということらしい。また、有神論全般を扱うのが分析宗教哲学だとすれば、とくにキリスト教の宗教的伝統に見られる神についての主張にまつわる諸問題を検討するのが分析神学だという。で、同論考は、両者の違いをまさしく分析哲学的な観点から掬い上げようとしているかのようだ。その大きな部分を占めるのが方法論的な違いなのだけれど、問題となっているのは聖書や伝承の扱われ方。聖書の命題を基本前提と見なすかどうかや、聖書の命題が特定の主張のみについての真理論になっているか、聖書が一般的に信頼しうる出典として認められるかどうか、認める場合に、それが認識論的循環論法として認められているのか、それとも非循環論法か(聖書以外の史料などを用いるか)などの分岐でもってケース分けを行い、分析神学と分析宗教哲学の境界線を確定しようとしている……わけなのだけれど、うーむ、やはりこれだけでは今一つピンと来ないか……(当たり前か)。やはりそれぞれの具体的な論考などを見てみないと。というわけで、これもまた個人的に、探求領域の拡大として少し面白そうな予感がする(?)。
久々に、自立的(カテゴレーマ)意味と共義的(シンカテゴレーマ)意味の話。ちょっとややこしいものの、両者の違いは、たとえば「無限」概念で考えるとわかりやすい。実体的な「無限なるもの」を意味するのが前者の場合で、後者は、ある要素nがあったときに、常にn+1がありうることを意味する。ではほかの概念で見たらどうなのだろう、そこにはどんな意味論的な問題が絡んできたりするのだろうか……というわけで、アンナ・マリア・モーラ=マルケス「ダキアのボエティウスおよびラドゥルフス・ブリトによる普遍指示子論」(Ana María Mora-Márquez, Boethius of Dacia (1270s) and Radulphus Brito (1290s) on the Universal Sign ‘Every’, Logica Universalis, 2015)という論考を読んでみた。これは共義語の一つである、「あらゆる」を意味するomnis(英訳でeveryとされている)をめぐり、13世紀の論者たちの扱いにおける違いを二派の間で際立たせてみようという一篇。取り上げられるのは、一方がペトルス・ヒスパヌスとシャーウッドのウィリアム、それらとの対比をなすのが表題にもあるダキアのボエティウスとラドゥルフス・ブリト(ブルトンのラウル:13世紀後半にパリで活躍した文法学者。当時は影響力のあった人物とされる)。同論考によれば、前二者はomnisを普遍性を示す語ととらえ、それが修飾する名辞がなんらかの「本質」(類もしくは共通項)を表す限りにおいて、その名辞が複数化されていることを示す働きをもっていると考えた。で、当時盛んに議論された意味論上の問題となったのが、(1) omnisは共通項を「種」や「個」に分散しているのか、(2) omnisを用いた文が真となるには、共通項に三つないしそれ以上の、現実態として実在する例化が必要か(つまり単一ないし二つのものにはomnisは使えないか)、といった問題。シャーウッドやヒスパヌスの立場は、(1) 厳密には分散は普遍の範囲内なので、種どまりであり、数的な個には至らない、(2) 類が種に、さらに下位の種に、そして個へと分割されることから、例化の具体的な数にかかわらずomnisを用いた文は真でありうる(たとえば月や太陽のような単一のものにも、用いることはできる)というものだった。