「論理学系」カテゴリーアーカイブ

共義語の意味論

久々に、自立的(カテゴレーマ)意味と共義的(シンカテゴレーマ)意味の話。ちょっとややこしいものの、両者の違いは、たとえば「無限」概念で考えるとわかりやすい。実体的な「無限なるもの」を意味するのが前者の場合で、後者は、ある要素nがあったときに、常にn+1がありうることを意味する。ではほかの概念で見たらどうなのだろう、そこにはどんな意味論的な問題が絡んできたりするのだろうか……というわけで、アンナ・マリア・モーラ=マルケス「ダキアのボエティウスおよびラドゥルフス・ブリトによる普遍指示子論」(Ana María Mora-Márquez, Boethius of Dacia (1270s) and Radulphus Brito (1290s) on the Universal Sign ‘Every’, Logica Universalis, 2015)という論考を読んでみた。これは共義語の一つである、「あらゆる」を意味するomnis(英訳でeveryとされている)をめぐり、13世紀の論者たちの扱いにおける違いを二派の間で際立たせてみようという一篇。取り上げられるのは、一方がペトルス・ヒスパヌスとシャーウッドのウィリアム、それらとの対比をなすのが表題にもあるダキアのボエティウスとラドゥルフス・ブリト(ブルトンのラウル:13世紀後半にパリで活躍した文法学者。当時は影響力のあった人物とされる)。同論考によれば、前二者はomnisを普遍性を示す語ととらえ、それが修飾する名辞がなんらかの「本質」(類もしくは共通項)を表す限りにおいて、その名辞が複数化されていることを示す働きをもっていると考えた。で、当時盛んに議論された意味論上の問題となったのが、(1) omnisは共通項を「種」や「個」に分散しているのか、(2) omnisを用いた文が真となるには、共通項に三つないしそれ以上の、現実態として実在する例化が必要か(つまり単一ないし二つのものにはomnisは使えないか)、といった問題。シャーウッドやヒスパヌスの立場は、(1) 厳密には分散は普遍の範囲内なので、種どまりであり、数的な個には至らない、(2) 類が種に、さらに下位の種に、そして個へと分割されることから、例化の具体的な数にかかわらずomnisを用いた文は真でありうる(たとえば月や太陽のような単一のものにも、用いることはできる)というものだった。

両者は論理学的な分析で意味論へとアプローチするのだけれど、これがダキアのボエティウスやラドゥルフス・ブリトになると、分析の仕方はより統辞論的になるという。つまりomnisは名辞を形容する(複数化を表す)というよりも、文において名辞の存在様態を表すという扱いになり、共義的な側面がいっそう強調されるらしい。「あらゆる人間は走る」という文において、「あらゆる」は「人間」を量化するという以上に、「人間」と「走る」の間の関係性(属性)が普遍であることを示すもの、とされる。omnisが普通名詞に添えられることで、(1) 本質があらゆる個へと複数化されているという理解の様態が示唆され、そこですべての個との関係として普遍が示されることになる。すると、(2) 一つの例化があればそれで普遍を表す文が真であることを示すには十分だということになる(これはアヴィセンナの本質についての解釈に呼応する考え方だという)。例化についてはさらに、時制に絡む問題(例化は現在のほか過去や未来のものにも及ぶかなど)や、普遍文から個的な文への推論問題などもあるようで、同論考の末尾はそれらの詳述に当てられている。とくに後者では、文として考えた場合、omnisを用いる普遍文から個に関する文、あるいは単称文を推論として直接導くことはできないという逆接的な議論(!)が、ボエティウスとブリトによって示されている。

ゴッド・マイナス

前々回のエントリで、デカルトによる存在論的議論(神の存在証明)の話が出てきたけれど、そのあたりをめぐっていて、ちょっと面白い議論を見かけた。デカルトの議論のそもそもの原型は、アンセルムスのアプリオリな証明と言われるもの。「それ以上のものが考えられない存在」が神の定義であるとし、単に心の中にある偉大なものよりも、実際に存在するもののほうがより偉大なのであるから、その定義により神は存在することにならざるをえない、という議論なのだけれど、もちろんこれには当時から様々な反論があった。たとえば同時代のベネディクト会士、マルムティエのガウニロは、アンセルムスの議論では、神以外の任意の何であれ、それ以上が考えられない何か(ガウニロが示す例は島だ)として存在しうるはずだが、それが実在しないのは議論に問題があるからだ、と批判してみせたという(ガウニロについては英語版のwikipediaのエントリがまとまっていて便利)。で、まさにこのこの議論の問題点を取り出して、現代的な様相論理バージョンの議論にまで拡大適用してみるというのが、デヴィッド・ファラシ&ダニエル・リンフォード「ゴッド・マイナスの必然的存在について」(David Faraci and Daniel Linford, On the Necessary Existence of God-Munus, http://personal.bgsu.edu/~faracid/ip/god-minus.pdf)という論考。

そこでは、神が最も大いなるものだとして、その偉大さにわずかばかりかけるゴッド・マイナスなるものを仮構し、それにラヴジョイの言う「存在の連鎖」(非存在から神まで、存在が直線上に連なるという古代から中世・近世までを貫く考え方)を援用すると、最も大いなる思考対象としての神が実在するなら、「神-(ゴッド・マイナス)」も同様に実在しなくてはならないことになり、神以外にも必然的な存在が導かれてしまう。しかもその存在の連鎖が不連続なものであるとするなら(同論文では、天使がそれぞれ一つの類をなしているというトマスの議論から、それが不連続であることが窺えるとしている)、存在のスケールにおいて神と神-の次には、神–(ゴッド・マイナス・マイナス)が続き、それもまた必然的な存在、さらに次には神—(ゴッド・マイナス・マイナス・マイナス)が続き、それも必然的だということになって、連鎖のあらゆる構成要素が必然であることが導かれてしまう……。かくしてアンセルムスの議論は改めて難ありとされるわけなのだけれど、そうした議論に拡張することによって、たとえば分析哲学のアルバン・プランティンガの、様相論理にもとづく存在論(アンセルムスの議論のいわば現代版で、可能世界を含めて考えるもの)についても、大きさのスケールが不連続であるならばとの条件付きで、応用可能であることが示されている(同論考は、このプランティンガの議論の条件を示すことが主眼だったかのような感じでもある)。うーん、でも個人的にはやはり、上のマルムティエのガウニロによる議論をちゃんと読んでみたいところだ。

関連書というか……:ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』 (内藤健二訳、ちくま学芸文庫)
存在の大いなる連鎖 (ちくま学芸文庫)

中世の「ディベート」:オブリガティオのゲーム性?

以前にも取り上げたことがあるけれど(http://www.medieviste.org/?p=4472)、14世紀ごろに確立されたらしい議論形式として、「オブリガティオ」(義務的論争、とでも言うのだろうか)があるという。どうやらこれは二人で行ういわば「ディベート」のようなもので、一方が質問者、もう一方が応答者の役を担い、質問者は応答者を矛盾に追い込もうとし、応答者は矛盾を払拭しようとするという競い合いのゲームだったようだ。教育的な目的があったのかもしれない(?)が、実際にその形式で議論がなされていたのかどうかも含めて、そのあたりは定かではないらしい。ただ、その形式についてのルールなどを解説した書物はあって、代表的なものがウォルター・バーリー(14世紀)の『オブリガティオ論』だという。

その内容の一端について取り上げた論考を眺めてみた。トマス・エッケンバーグ「オブリガティオ論争での順序」(Thomas Ekenberg, Order in Obligational Disputations, Medieval Forms of Argument: Disputation & Debate, Wipf & Stock Publishers, 2003)というもの。バーリーの著書が挙げているというオブリガティオのルールのうち、とくに質問者がまず発する基本的スタンス(positum)の順番に潜む問題を取り上げ、同時代のリチャード・キルヴィントンがそのルールについて寄せた異論を紹介している。オブリガティオはまず、質問者が掲げるpositumについて応答者が肯定・否定・疑念のいずれかを発しなくてはならない。もしpositumを認めるなら、続いてそこから帰結・派生する事象(質問者が提示する)も認めなくてはならない。また、帰結・派生するのがpositumと相容れない事象であるならば、応答者はそれを否定しなくてはならない。positumと無関係の事象が提示された場合には、応答者の裁量で肯定・否定ができ、また疑わしい事象である場合には疑念ありと述べることもできる。ここで、どういった順番でpositumとそれに関連する事象が質問として掲げられるかが問題になる場合がある。たとえば、バーリーが挙げる例らしいのだが、こんな事態が生じうる。ローマにおらず、枢機卿でもない応答者が、「あなたはローマにいない、あるいは枢機卿である」というpositumを認めさせられると(少なくとも前半は正しいので)、「あなたは枢機卿である」という派生的な帰結をも認めなくてはならなくなる。逆に「あなたは枢機卿である」が先に発せられれば、応答者はこれを否定し、「あなたはローマにいない、または枢機卿である」も否定することができる。

前者の場合、positumをなす二つの命題がorでつながっているところがミソで、この一方(後半部分)が偽であるのに、positumとして認めさせられるところに問題があるわけだ。バーリーの挙げるルールの一つに、positumが偽であった場合、そのpositumと両立しうる任意の偽の命題が証明できる、というものがある。そのため、応答者は命題が偽であると知りながら妥当であると認めたり、真であると知りながら両立できないとして否定したりしなければならなくなる、というのだ。これを論文著者は「議論間の不整合性」(interdisputational inconsistencies)と称している。で、まさにこの点について、キルヴィントンは自著『ソフィスマタ』で反論を加えているらしい。つまり、応答者がローマにいたとしたら(枢機卿ではないのだから)このpositumを肯定しようとはしないだろうという意味で、最初の命題を認めることは、positumの義務に十分真摯に対応していないことを意味する、とキルヴィントンは喝破する。論文著者によればキルヴィントンは、最初の文が命題をなしているのに対して後半の文は事態(事物の状態)を言うものであるとし、命題について真であったとしても、それが事態について表明することを含意しないと断じているのだという。なるほどこれは至極まっとうな議論に見える。キルヴィントンは議論間の不整合性を認めないが、一方のバーリーは一定の許容範囲を与えているということらしい。バーリーのテキストそのものを読んでみたわけではないのでナンだが、この論文から受ける印象として、もしかするとバーリーの場合は、そういうことをも含めてのオブリガティオのゲーム性を称揚していたりしないのかしら、なんて思ったりもする……。