プロクロスの『プラトン「パルメニデス」註解』は、引き続き第4巻(Proclus, Commentaire sur Le Parmenide de Platon, Tome IV 1re partie. Livre IV / Tome IV, 2e Partie. Notes Complementaires Et Indices (Collection Des Universites De France Serie Grecque), C. Luna et A. Segonds (éd.), Les Belles Lettres, 2013)を読んでいる(個人的に入手した同書は、ちょっと売り方が変で、格安のものを購入したところ2分冊セットのうち本文を収めた第1分冊のみが送られてきた。校注をまとめた第2分冊は未着……というか、もともと含まれていなかった模様。ま、さしあたり本文があるのでよいけれど。上のリンクのamazonでの販売のものがちゃんと2分冊セットになっているかどうか不明なので、購入しようという奇特な方は注意されたし)。とりあえずほぼ前半部分を通読したところ。
ストラボンは一端中断して、少し前からプロクロス『「パルメニデス」注解』の第3巻をレ・ベル・レットル版(Proclus, Commentaire sur le Parménide de Platon: 1re et 2e partie, Livre III (Collection des Universités de France), C. Luna et A.-P. Segonds, Paris, Les Belles Lettres, 2011)で読んでいた。第3巻は原文+詳細な注をまとめた分冊と、その文献学的な序論を収めた分冊との2冊に分かれているのだけれど、とりあえずこの原文部分だけを一通り読了。同じこの校注版で第2巻まで読んでからずいぶん時間が経ってしまったが、実はこの第3巻と続く第4巻が全体のメイン部分をなしている。そこでは形相(εἴδη)の問題が多面的に語られているからだ。第3巻の冒頭に、同書が以下に扱う問いとして次の4つが挙げられている。「形相は存在するか」「形相は何であって、何でないか」「形相の性質とは何か、どのような固有の属性があるか」「現実の個物は何故に形相に参与するか、またどのような形で参与するか」。最初の2つが第3巻で、残る2つが第4巻で扱われる(らしい)。
前にも出たけれども、原論の注解書でプロクロスは、数学が扱う対象(より正確には幾何学が扱う対象)を感覚的与件でも純粋な知的対象でもないとして、両者の中間物、つまり想像力の対象として規定している。注解書でこれに触れている部分は、序論第一部の末尾あたりから序論第二部。現在鋭意読み進め中。で、これに関してとても参考になる論考があった。ディミトリ・ニクーリン「プロクロスにおける想像力と数学」(Dimitri Nikulin, Imagination et mathématiques ches Proclus)。所収はアラン・レルノー編『エウクレイデス「原論」第一巻へのプロクロス注解書の研究』(Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d’Euclide, éd. Alain Lernould, Presses universitaires du Septentrion, 2010)。プロクロス注解書に関する2004年と2006年の国際会議にもとづく論集で、先の普遍数学史本の著者ラブーアンをはじめ、様々な論者が多面的にアプローチしているなかなか興味深い一冊。で、ニクーリンの論考は、なにやらわかったようなわからないような感じの「感覚的与件と知的対象の中間物」について、その諸相をプロクロスの本文に即してうまく整理してくれている。
再びプロクロス『パルメニデス注解』第二巻(Commentaire Sur Le Parménide De Platon: Livre II (Collection Des Universités De France Serie Grecque))から、短くメモ。類似と相違の話が長々と続くのは、要するにそれが、すべての存在するものがしかるべき範型に「与る」という、「参与」の問題を論じるための前段階をなしているからのようだ。類似と相違は中間的な形相としてあり、他のあらゆる形相がおのれの像を産出するために、類似と相違を必要とするという。まず、形相に与るもの(存在するもの)とは、形相に対する像であるとされ、一方の形相は範型(モデル)に位置づけられる。ではそこで像となるのはどんなものだろうか。まず知的なもの(知解対象)は像にはなりえない。なぜなら知解対象はもとより(範型から)分割できないものだから。知的なものについては原因と結果、単一と一組などとは言えても、範型と像のアナロジーで語ることはできないとされる。感覚的なもの(身体)についてなら、これは像にほかならないと言うことができる。プロクロスはここでもう一つ、知的なものと感覚的なものとの間をなすとされるものを持ち出してくる。思考的なもの(魂)だ。これもまた像であると言える。なぜかというと、魂は知性に対して、時間が永遠に対するのと同じような関係にあるからだ(プラトンによれば、時間は永遠の像をなしているのだという)。一方でそれは、永遠なるものと創造された世界との両方の一部をなす中間的な存在でもある。かくして、像ではない知解対象、像でしかない身体(感覚的なもの)、像と範型とにまたがる魂という三分割の構造が示される。類似と相違が中間的な形相だという話もそうだけれど、プロクロスはこの中間部分の議論がとても特徴的な感じだ。この後、話は本題の「参与」へと進む。要は、範型と像の間には様々な強度の違いがあり、範型に与る度合いの大小に応じて、各々が類似と相違を体現するのだ、とされる(以上、742-16から747-38)。
レ・ベル・レットル版で、プロクロスによる『「パルメニデス」注解』第二巻(Commentaire Sur Le Parménide De Platon: Livre II, éd. C. Luna et A.P.Segonds, Les Belles Lettres, 2010)を読んでいるところ。『パルメニデス』でソクラテスがゼノンに詰め寄る箇所についての注解が延々と続いている。けれどもこの冒頭部分では、類似と相違についての議論が展開しており、メレオロジー的な議論なども出てきてなにやら興味深いので、少しまとめていこうかと思う。基本的な流れはこうだ。パルメニデスの擁護者ゼノンによれば、(パルメニデスのように)多と隔絶した「一者」を考えるのとはまったく逆に、多だけが存在し一者はないとする巷の議論では、いろいろな矛盾が生じる。まずは一がないとなれば、多は共通するものをもたず「相違」するものとなる。しかしながら一に与らないという意味では共通性をもつがゆえに、「類似」するとも言える。こうして「相違」するものが「類似」することになってしまう。また、これはこうも言い換えられる。多は一に与らないので「類似ではない(非・類似)」が、一方で一に与らないという共通点をもつので「相違でもない(非・相違)」。結局、類似と相違、非・類似と非・相違という相反するもの同士が同時に成立することになる。