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動因と動体 – アフロディシアスのアレクサンドロス

Le Principe Du Tout Selon La Doctrine D'aristote (Sic Et Non)最近、今度はゲームなどの開発環境Unityで遊び始め、初級のチュートリアルなどをやってみたりしているのだが、仮想空間内でのゲームオブジェクトの動かし方などはとても興味深い。Ridigybodyというコンポーネントを加えるだけで、物理的な動きが再現されてしまう。さながら中世の議論での「魂」、あるいはそこまでいかなくとも、ある種の「インペトゥス」を注入する、という感じだ(笑)。

そんなことを思うのは、昨秋からちびちびと進めているアフロディシアスのアレクサンドロスによる『アリストテレスの教義による万物の原理』(مقالة الأسكندرالافروديسي في القول في مبادئ الكل بحمب رأي أرسطاطاس الفيلسوف)のアラビア語版テキスト読みが、ちょうど終盤に差し掛かっているからかもしれない。読んでいるのは亜仏対訳本( Alexandre d’Aphrodise, Le Principe du Tout selon la doctrine d’Aristote (Sic et Non), trad. Charles. Genequand, J. Vrin, 2017)。ギリシア語テキストは失われ、アラビア語テキストだけで残っているらしいこれ、全体は運動論、天体の話、そして知性の話となっていて、校注・訳者のジュヌカンが冒頭の解説で記しているように、アリストテレス『形而上学』ラムダ巻の有名な一節、つまり「第一動者が天空や世界をἐρώμενονとして動かす」というくだりの、長い注解という体裁を取ってもいる。アレクサンドロスはこれにある種の刷新を加え、衝動・欲動をもととする運動の原理を打ち立てようとしている、というのが、少なくとも前半部分についての校注者の見立てだ。

同書のテーマのいくつかはすでにテオフラストスに見られるというが、アレクサンドロスはそれらを体系化しようとしている点が特徴的なのだとか。けれどもその途上で、アリストテレス自然学の抱える矛盾が露呈することにもなる。つまり、みずからのうちに運動原理を所有するという自然の定義と、動くものはすべて別のものに動かされているという第一動者の論証のもとになった運動観との矛盾だ。この「動かされる」はギリシア語のκινεῖσθαιで、受動態か中動態(再帰的な意味での「みずからを動かす」)かが曖昧だとされる。アラビア語では再帰的な意味、もしくは「運動状態にある」と取るのが普通だというが、文脈によっては受動態の意味になることもありうるという。いずれにしてもその意味は流動的で、とくに動因が動体の内部にあるのか外部にあるのかがはっきりしないことが問題となっている。このような状況にあってアレクサンドロスは、多少遠慮がちにせよ『天空論』からの「傾き」(ῥοπή)の概念を援用し、生物における魂(欲動の原理)と同じように、無機物においても傾き(もとを正せば、火が上昇を志向したり、水が下方を志向したりする、元素の方向性に帰される)を内在的原理にしようと試みる。一方で魂の志向性は純粋に知性であるとされる天球にも適用され、ここにおいて知性と魂とは完全に同一視されるようにもなる(中世イスラム世界の一部の哲学者とは逆に)。アレクサンドロスのこうした一連の刷新の努力は、当然ながら後世にも大きな影響を及ぼすことになる……。