「言葉の学」カテゴリーアーカイブ

インヘンのマルシリウス

14世紀後半に活躍した唯名論者、インヘンのマルシリウスについての論考を読む。マールテン・フネン「<言葉の力>と三位一体:インヘンのマルシリウスと14世紀後半の神学の意味論」というもの(Maarten J.F.M. Hoenen, ‘Virtus sermonis and the Trinity: Marsilius of Inghen and the Semantics of Late Fourteenth-Century Theology’ in “Medieval Philosophy and Theology 10”, 2001)(PDFはこちら。14世紀後半の神学思想の特徴は、なんといっても伝統への回帰にあるのだそうだが、その一方で論理学、数学、自然学といった諸学の方法論の影響から、神学にも新しい方法が持ち込まれるという動きもあり、そのあたりの摺り合わせが問題になっていたと著者は言う。パリ大学で活躍したインヘンのマルシリウスなどはまさにその「渦中」にあったらしい。というわけで、著者は三位一体をめぐる思惟についてマルシリウスの方法を追いかける。そこに見られるのは、論理学と伝統との対立で、その鍵となるのが「virtus sermonis(語法の効力?)」という概念だ。

神の三位一体を「本質は同一ながら、そこに加わる属性によって位格が異なる」とするのが伝統的な立場。属性と本質が違うとなれば、たとえば父とその属性である父性は別物といった議論が成り立つ。「父は子をもうけるが、父性は子をもうけない」と言うことができるからだ。これに対しマルシリウスは、父と父性(つまりこの場合は具象と抽象)との違いはそれぞれの項が指し示すものの違いではなく、むしろ項が意味するところの様態が違うことに起因する、とする。抽象は形相そのものを意味し、具象は全体としての個体を意味するという違いがあるだけで、内実は同じなのだとし、ゆえに父(という本質)と父性(という属性)は同一であると論じる。

著者によれば、これは普通の語法にもとづく分析だという。これに対立するものとして、マルシリウスは「語法の効力」をもとにした分析をも展開するという。上の例の「父は子をもうける」と「父性は子をもうける」は、主語の「代示」としては同一であり、父も父性も同じ事態を指示しているがゆえに、同一の述語を取ることができるはずだ、というもの。要するにそれは、言葉を普通の語法で考えるのではなく、命題として、別様の語法で考えるという、論理学寄りの方法論ということらしい。14世紀後半の伝統への回帰というのは、つまりはこの「語法の効力」ではない、普通の語法の分析に戻るという動きにも重なるようで、そこにはパリ大学が権威として果たすようになった正統教義の守護者としての役割などが絡んでくるようだ。マルシリウスはまさにそうした動きを体現していたといい、通常語法の方に重きを置いていくのだという。

↓アンドレイ・ルブリョフによる三位一体のイコン

天使の意思疎通論

久々に天使の意思疎通論を読む。ハーム・ゴリス「天使的博士と天使的発話」という論考(Harm Goris, ‘The Angelic Doctor and Angelic Speech: The Development of Thomas Aquinas’s Thought on How Angels Communicate’, Medieval Philosophy and Theology 11 (2003))(→PDFはこちら。13世紀半ばにもてはやされた「天使はどんな言葉を交わすか」という問題をトマス・アクィナスはどう考えていたかについて、その経年別の思想的変遷を中心に手堅くまとめたもので、とても参考になった。ここで考えられている天使のコミュニケーションとは天使同士の意思疎通の場合。コリント書13.1の「もし私が人間や天使の言葉で話しても……」というのが、聖書での「天使の言語」に関する唯一の出典なのだそうだけれど、これをめぐって、すでにヘイルズのアレクサンダーの『神学大全』、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥス・マグヌスなどが議論していたという。彼らはいずれも、天使の言語を人間の言語とパラレルなものと見なしていて、知的スペキエス(像、形象)のあり方として、理解(概念化)、獲得(定着)、伝える意志および表出といった段階があると考えていた(これはアレクサンダー、ボナヴェントゥラ、アルベルトゥスでそれぞれ用語が異なる)。トマスも初期には、アウグスティヌスを踏まえて心的概念、内的言語、知解可能な徴という区別(もしくは段階)を考えていた。アウグスティヌスを踏まえてとはつまり、思惟というのは内的言語だという考え方を前面に出すということ。しかしトマスはやがて、今度はアリストテレス的な可能的・常態的(獲得された)・現勢的知識という区別を適用して、天使における知性内の知解対象のあり方を、常態(獲得)、当人にとって現実態(理解)、他者にとって現実態(表出)という三区分とするようになる。理解(概念化)と内的言語を切り離し、三つめの外的な表出においてのみ言語が関与するという立場に転じたらしい。

けれどもこれで終わらず、トマスはアウグスティヌスとアリストテレスの摺り合わせへと進んでいき、やがて二つめの「当人にとって現実態」という段階が、アウグスティヌス的な内的言語で説明されることになる。現実態としての理解が内的言語とイコールだと見なされるというのだ。で、さらにその思想の「成熟期」においては、いつしか再びアウグスティヌスへと舞い戻っていくという。外的な表出すら区分として薄らいでいき、天使においては、伝える意志が向かえばそれで他の天使に概念が伝わるという考え方になり、ここへきて、人間と天使のコミュニケーションはパラレルなものとは捉えられなくなる。もとより言葉の徴とは感覚的・物体的なものである(だから非物体的な天使には必要ない)というアウグスティヌス主義の伝統へと、すっかり回帰していくというのだ(もっとも、多少の留保はとどめているらしいのだが)。なるほど、このあたり、タンピエの糾弾などが絡んでいそうで、なにやら反動的保守化という感じも……。うーむ、ま、性急にそういう括りにしてしまうのはよしておこう。とはいえ、とても興味深い変遷の過程だ。

↓フラ・アンジェリコの「受胎告知」

否定神学の「教科書」

13世紀のパリ大学で講義に使われたという、ディオニュシオス・アレオパギタの『神秘神学』ラテン語訳(エリウゲナ訳)ほかの編纂版(“A Thirteenth-Century Textbook of Mystical Theology at the University of Paris”, trans. Michael Harrington, Peeters, 2004)をゲット。訳者マイケル・ハリントンによる序文に早速目を通す。この序文、論文として実にうまい構成になっていて、『神秘神学』の翻訳史から始め(エリウゲナの前にヒルドゥインというサン・ドニの修道院長による訳があるという)、神秘神学に見られるプロティノスの引用箇所を検討した後、ギリシアでの注解の伝統を取り上げ(プロティノスからポルピュリオスへと至る、新プラトン主義の転換が反映され、世界霊魂は神に同一視されているのだとか←(これは要確認だな))、そこからエリウゲナ訳がディオニュシオスの原典をどう扱っているかへと進み、アナスタシウス訳のギリシアの注解やエリウゲナの著作に触れ、校注版本文の解説へと入っていく。特に指摘されているのは、「思考」と「一者との合一(神秘的上昇)」との関係の話。ディオニュシオスでは両者は明確に区別されているのに対して、エリウゲナ訳では全体にその区別が曖昧になっているという。選択された訳語など翻訳上の微妙な差異が入っているのだとか。ギリシアの注解の伝統にもそういう部分があるようで、そのあたり、エリウゲナがそちらの影響を多少とも受けた可能性もありそうだ。なかなか興味深い話になっているでないの。いずれにしてもエリウゲナ訳のテキストは、アナスタシウスの後も様々な修正や注解を経て、13世紀にまで受け継がれていく。かくして本書の本文をなす「教科書」も出来上がるというわけなのだが、さて、その出来はいかに?

「命題論」受容の温度差

このところMedievalists.netで紹介されている論文をダウンロードしてぼちぼちと読んでいるのだけれど、これがまた結構すぐに溜まっていく(苦笑)。ま、積ん読はいつものことか……。これまたそうしたうちの一つだけれど、デボラ・ブラック「ラテンおよびアラビア哲学におけるアリストテレス『命題論』」(Deborah L. Black, ‘Aristotle’s Hermeneias in Medieval Latin and Arabic Philosophy’ “Canadian Journal of Philosophy” suppl. vol. 17 (1992))pdfファイルはこちら)という論考を読む。ラテン中世とアラビア世界との影響関係ではなく(というのも『命題論』の浸透はまったくの別ルートになっていて、直接的な影響関係がまったくないからだけれど)、むしろ両文化圏において『命題論』がどう受容されていたかを見ることで、それぞれの受容のフィルタリングがどのようなものだったかを考えるという、ちょっと興味深い視点に立っていて、とても興味深い。しかもそれを、「命題」そのものの定義や、名辞の扱われ方、非限定名辞(否定辞つきの名辞など)といったテーマごとに、両文化圏の解釈の違いをまとめあげている。ラテン中世の識者(ダキアのマルティヌス、ロバート・キルウォードビー、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス)、アラビア世界の識者(主にファラービーとアヴィセンナ)それぞれの内部的な違いなども絡んで、なかなか読み応えのある議論になっている(と思う)。

特に問題になるのが、彼らが論理学と言語の関係をどう捉えていたかという点だが、ネタバレ的に言うなら、全体としてラテン中世では、プリスキアヌス(6世紀)の文法学やボエティウスの議論などがあるため、論理学と言語の間に断絶の相を見ようとするのに対し、そうしたフィルタリングのないアラビア世界においては、両者の学の違いは連続の相で捉えられ、溝はあってもどこか相対的なものにすぎないということらしい(もちろん、連続の相を強く打ち出すファラービーに対してアヴィセンナが断絶の相を見、ラテン中世寄りの立場に立つなどの違いはあるというが……)。名辞、非限定名辞の受け取り方にも大きな違いがあり、とにかくそうした違いの根底には「論理学」がどういうものであるか、言語(文法学)がどういうものであるかという認識の違いが横たわっている……と。ラテン中世では文法学は論理学の外にある別の領域とされるのに対して、アラビア世界では文法学は論理学の一部として位置づけられる、みたいな。取り上げられている論者が若干少ないので、一概に敷衍はできないような感じもするけれど、これはこれで重要な示唆であることは間違いない(きっと)。

(↓先日の都内某所の公園にて)

「六原理の書」

テキストだけならオンラインでも手に入る『六原理の書』(Liber sex principiorum)だけれど、解説その他を期待して、羅伊翻訳本(“Libro dei sei principi”, trad. Francesco Paparella, Bompiani)を入手する。さっそく序文を読み始める。これ、中世の論理学の入門書として、実際に学校で使われていたらしいテキストブックの一つ。長らく12世紀のギルベルトゥス・ポレタヌス(ポワチエのジルベール)の書とされてきたものの、最近ではそのアトリビューションは否定されていて、逸名著者の作ということになっているらしい。基本的にはアリストテレス『範疇論』の10の範疇のうちの六つ(「能動」「受動」「時」「場所」「姿勢」「所有」)を簡便に解説している書。それに、一章目の「形」と最終章の「多い・少ない」(これも『範疇論』から)についての話が加わっている。全体として、より長い著作の一部だった可能性もあるという。

このほか序文の冒頭部分では、中世初期の論理学の受容史についても簡単に触れている。ボエティウスやマルティアヌス・カペラ、カッシオドルス、セビリアのイシドルスなどお馴染みの名前が連なるなか、ちょっと気になったのが偽アウグスティヌス『一〇の範疇』という書名。これ、アリストテレスの『範疇論」に対してきわめて独自色の強いものになっているのだという。Wikipediaによれば、別名『テミスティオスによるパラフレーズ』となっているそうな。おお、これはぜひ読んでみたいぞ。で、これもどうやらオンラインのテキストが!(笑)