数学史へのプレリュード……

すでに先月号だけれど、久々に『現代思想』誌を購入。特集は「<数>の思考」。とりわけ数学史がらみの論考が、期待に違わず面白い。斎藤憲「エウクレイデス『原論』の整数論」は、同書が比例論を整数論に持ち込む試みだったのではないか、という着眼点で論を進める。三浦伸夫「中世西欧における数概念の拡張」は、14世紀イタリアの算法教師たちによる三次方程式の解法をめぐりつつ、すでに当時、分数や負の数、ゼロ数、さらには無理数などへと数が拡張されて、普通に使われていた様子をまとめている。但馬亨「数・量概念の変遷と近代数学の発展」は、さらに後の16世紀以降の、高次方程式ほかの展開を追うというもの。とりあえずこのあたりに目を通す。普段接することのない数学史だけに、なにやらとても新鮮かつ刺激的。エウクレイデス(ユークリッドですね)のテキストや、その西欧での普及史なども押さえておきたいところだなあ、と。

『チェーザレ』6巻

惣領冬実の傑作コミック『チェーザレ–破壊の創造者』はいつのまにか第6巻が出ていた。前巻の最後でいよいよ学生時代は終了で、政争のただ中へ……かと思いきや、ちょっとその後日談的。でも話としての起伏はあり、いろいろ大変な事件が起きている。後半はちょっとチェーザレとミゲルの幼少期の話。それにしても今回も精緻な絵づくりが凄すぎ。いつも楽しみな巻末のおまけは、作者によるピサの町並みの復元(早い話メイキングですね)と、ルネサンス期についての背景知識の解説(今回はクリスマスが近いからか、ミサの話)で、とりわけ前者の緻密な復元作業の過程が素晴らしい。そうしてできあがった復元図が惜しげもなくコミックの舞台に投入されていると思うと、なんとも贅沢。

ハッピーバースデイ、レヴィ=ストロース!

“Bonne anniversaire”、”Buon compleanno”、”Alles Gute zum Geburtstag”。どれでもいいのだけれど(笑)、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは28日でなんと100歳。まるまる一世紀を見つめてきたというわけだ。Le Mondeはsupplémentでこれを讃えているし、Herodote.netでも取り上げている(Lévi-Straussのプロフィールがこちらに)。これに合わせる形か、国内でもいろいろと邦訳が新刊で出ているが、最近は読んでいないなあ。個人的にレヴィ=ストロースは、学知に迷った時に読む著者。その知的構築力を見ると、なぜか元気が出る(笑)。これはもう、個々の論文に齟齬があるだとか、一部恣意的だとか言うどこぞの小さい批判などをはるかに超えて元気になれる。それはつまり、人の営みがやはり人工物・人為的所産を生み出すことにあり、私たちが自然のものと見ているものすら人為的所産でしかなく、その上に立って人為的所作をなすことが人の辿る道なのだという、ある意味感動的でもあるビジョンが語り出されるからかしら。というわけで老師(と勝手に呼ばせてもらおう)の100年目の歩みに乾杯しよう。

そういえばそのHerodote.netのニューズレターでは、1284年の11月28日の出来事として、北仏ボーヴェのサン=ピエール大聖堂の穹窿が崩れた事件を取り上げている。1225年に火災にあった大聖堂の再建工事の途中だったという。ニューズレターではこれに、ベドフォードの時祷書(15世紀)の細密画から「バベルの塔」を描いたものを添えている。人が作るものは美しいがはかない……でもだからこそ愛おしいという、人為的所作の基本への暗示がまたなんだかタイムリーかも。

「先祖返り」?

いまだに出先ではsigmarion IIIを愛用しているのだけれど、専用ソフトウエアのダウンロードサービスなども少し前に閉鎖され、世間的にはなんだかすっかり過去の遺物扱いなのがちょっと悔しいというか……。でも、蓋を開けると同時に起動(というかレジューム)し、小さい文章をちょこちょこと書いて、あとは携帯とかをモデムにしてちょっとだけ通信するといった用途には、いまだ絶大な力を発揮する道具。こういうツールの後継機をぜひまた作ってほしい。……なんて思っていたら最近、ほとんど昔のワープロ専用機の先祖返りかという感じで、ポメラDM-10(写真)なんてのが登場したのだそうで。ATOK搭載で入力は快適らしいとはいえ、通信機能がないといった点はやはり少し見劣りする。次期バージョンとかがもし出るなら、そのあたりを期待したいところ。

とはいえ、案外こうした過去の遺産の見直しに、革新の芽があるのかもしれない、なんてことを思ったりもする。たとえばアップルのiPod Touch(iPhoneでもいいが)のアプリケーションの枠組みなどは、もしかするとかつてのDOSが捨てた方向性の「復権」ではないか、という気もしたり。Windowsがもし、当時のMacをまねてマルチウィンドウにせず、MS-DOSを蹈襲しながらグラフィック画面化だけは果たし、一方で実際にDR-DOSがやっていたような(キャラクタベースのUnixっぽい)画面切り替え方式で複数のアプリケーションを起動させ切り替えながら使う、みたいな方向に行っていたら、おそらくこのiPod Touchが実現しているような環境をもっと洗練させたようなものになったんじゃないかなあ、なんて。ま、妄想でしかないわけだけれど。いろいろと途上で捨ててきたものの再考は、案外とても重要なんではないかしらん、と。

で、これはなにもIT関係だけに限らない。過去の諸説などの再考は、歴史の研究ならば普通になされていることだし。先に触れたグーゲンハイム本なんかも、いろいろな意味で問題はあるものの(イスラムの極端な過小評価、意図的っぽい極論や事実誤認など)、古代ギリシアやローマと西欧中世との間に文化的にあったとされる歴史的な断絶は本当に断絶と言ってよいのか、事実はどのあたりにあったのか、といった問題の再考を促す刺激にはなっているかも(個人的にも、メルマガでそのうち同書の検証企画みたいなのをやってもいいなあ、と思っているところ)。

「聖アレッシオ」

ウィリアム・クリスティ率いるレ・ザール・フロリサン。久々にその演奏をDVDで堪能する。ステファノ・ランディ(1587-1639)の音楽悲劇『聖アレッシオ』(Virgin Classics)。これはなんとも素晴らしい舞台だ。1631年の初演という初期のバロックオペラを、2007年にカーン(Caen)で上演したもの。まずもってヴィジュアル的に圧倒される。照明をロウソクの灯りで取るという手法のせいか、画面全体が赤みを帯びて、まるで生きた宗教画を見ているかのよう。少年合唱団が羽根を背に天使の役などで登場するが、それも全体の絵の中にとけ込んで違和感がない。うーん、お見事。演出のバンジャマン・ラザールという人はバロック劇の権威なのだそうで、なるほどと納得。また演奏も実に渋く、またバロックダンスなども随所に取り入れて見所もたくさん。クローズアップを多用したカメラワークは、時に人物の登場場面などを逃してはいるけれど、それでも主要な人物たちの微細な表情や仕草(これがまた実に絵画的)を細やかに追っていて上質。中身は、ヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』に出てくる聖アレッシオ(アレクシス)の最後の方の物語を三幕で構成したもので、すでに決定的な時(アレッシオの婚礼からの逃避、放浪など)は終わり、失われてしまっていて、いわば「残りの時」を抒情的に描き、歌い上げている。決定的な事件はすでに起きてしまっているという点で、ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」なんかを彷彿とさせるかもね(笑)。