ガンダムも30周年(笑)

閑話休題という感じだけれど、今年はMacintosh誕生から25周年なのだそうで、CNET Japanのページでも特集が。昔はMacは高かったので、何度か購入を見送り、PC-98からDellのAT互換機に乗り換えたあたりに勢いでPowerBook 160(だったかな?白黒のやつ)を購入したのが初Macとなった(そんなわけで、根っからのMacユーザではないのだが)。その後のLC630とかは、ほんの2年くらい前までいじっていた(笑)。今はiBook G3がUbuntuマシンになっているほか、メインはiMac G5で、これもちょっとくたびれてきたかな(まだまだ使えるけどね)。

○○周年といえば、アニメの『機動戦士ガンダム』も、ファースト(1年戦争のやつ)からちょうど30周年なんだそうで。サイトもあるみたい。どおりで元日に、TV神奈川でファーストの劇場版3部作を一挙放映していたわけだ(どこぞのアニメチャンネルでは、TV版43話をすべて放映したそうで)。録画して久々に見たが、とても懐かしかった(オリジナルのTV版をリアルタイムで見た世代なので)。これ、今見ても鑑賞に耐える(というか実によく出来ている)のは、メカ描写などに惑溺せず、ちゃんと人間ドラマになっていたからかしらん、と改めて思う。で、その勢いで、続編にあたる『Zガンダム』の再編集劇場版3部作もDVDで借りてみたけれど(こちらは通しで見るのは初めて)、これはちょっとついていけなかった(爆笑)。「ニュータイプを戦争の道具にしてはいけない」みたいなことを言っていたシャアが、しっかり自ら戦争の道具になっているってのも、ちょっとなあ(笑)。話もなにやら薄い感じで、どこか行き当たりばったりに戦闘が開始されるような印象。作戦もクソもないでないの。キャラクターたちの情緒不安定さ(というか、何を考えているかいまひとつわからん感じ)って、放映当時(86年くらいだっけね)のいわゆる「新人類」を上の世代が見たらこういうイメージだったかもね、とか、随所に当時の世相の反映を強く感じたり。

断章9

Πᾶν γενητὸν ἀπ᾿ ἄλλου τὴν αἰτίαν τῆς γενέσεως ἔχει, εἴ γε μηδὲν ἀναιτίως γίνεται. ἀλλὰ τῶν γε γενητῶν ὅσα μὲν διὰ συνθέσεως κέκτηται τὸ εἶναι, λυτὰ ἄν εἴη καὶ διὰ τοῦτο φθαρτά. ὅσα δὲ ἁπλᾶ καὶ ἀσύνθετα ὄντα ἐν τῷ ἁπλῷ τῆς ὑποστάσεως κέκτηται τὸ εἶναι, ἄλυτα ὄντα ἐστὶ μὲν ἄφθαρτα, γενητὰ δὲ λέγεται οὐ τῷ σύνθετα εἶναι, ἀλλὰ τῷ ἀπ᾿ αἰτίου τινὸς ἀνηρτῆσθαι. τὰ μὲν οὖν σώματα διχῶς γενητὰ καὶ ὡς ἁπ᾿ αἱτίας ἠρτημένα τῆς παραγούσης καὶ ὡς σύνθετα, ψυχὴ δὲ καὶ νοῦς γενητὰ ὡς ἀπ᾿ αἰτὶας ἠρτημένα μόνον, οὐ μὴν καὶ ὡς σύνθετα· τὰ μὲν ἄρα σώματα γενητὰ καὶ λυτὰ καὶ φθαρτά, τὰ δὲ ἀγένητα μὲν ὡς ἀσὺνθετα καὶ ταύτῃ καὶ ἄλυτα καὶ ἄφθαρτα γενητὰ δὲ ὡς αἰτίου ἠρτημένα.

生まれるものはすべて、なにものも原因なくして生まれるのでない以上、他に生まれる原因がある。しかしながら生まれるもののうち、複合によって存在を得るものは、解かれうるのであり、それゆえに滅しうる。単一で複合によらずに存在し、基体の単一性において存在を得るものは、解かれることもなく滅することもなく、それが生まれたものと言われるのは複合によるのではなく、なんらかの原因に従属しているからである。物体は二様に生まれる。つまり、それを生み出す原因に従属して生まれるとともに、複合体として生まれる。一方の魂と知性は、原因に従属して生まれるのみであり、複合体としては生まれることはない。物体は生まれ、解かれ、滅するが、その一方で、複合によるのではなく、それゆえに解かれず滅しないものとして、生まれたのではないと言えながら、原因に従属しているものとしては生まれたと言えるものもある。

命題の理論?

アラン・ド・リベラの『空虚な参照–命題の理論』Alain de Libera, “La référence vide – Théories de la proposition”, PUF, 2002)を読み始めているところ。例の分析哲学系のトロープス理論(個物として諸属性のみの実在を認めるというもの)との絡みでアベラールを論じている箇所を先に見ていたら(なるほど分析哲学系の人たちがアベラールをトロープス理論の先駆として読み直しているという動きがあるわけね……ド・リベラはそれに違和感を表明している)、いろいろ略語とか同書内部でのお約束ごとがあるため、結局頭に戻って読み進めるしかないということになり、そんなわけでまだ全体像が今ひとつ見えないのだけれど、最初の方の章を導いているのはフレーゲの「第三の王国」の話(意味というものが、叡智界に独立して存在するという立場)で、その源流を中世の論理学・存在論に考古学的に探ろうということらしい。12世紀の逸名著者による「アルス・メリドゥーナ(Ars Meliduna)」などが取り上げられている。6回の講演をもとにしたものということだけれど、普遍論争の源流を探っていく前の『一般性の技法』に続く感じだ。さらに最近の『主体の考古学』(2巻目が昨年出た)にもつながる話のようだし、ちょっとしばらく読み進める予定。

変人奇人譚

就寝前本としてちびちび読んでいたクリストファー・ミラー『ピアニストは二度死ぬ』(石原未奈子訳、ブルース・インターアクションズ)を読了。サイモン・シルバーという架空の音楽家の作品集CDのライナーという体裁を取って、作品解説といいつつ、その音楽家の変人・奇人ぶりを、これでもかというふうに執拗に語っていくという小説。ライナーの体裁というのは結構早い段階で破綻するのだけれど(こんなライナーがあったらボツになること間違いない(笑))、そこから先は、そのシルバーなる人物がいかに常軌を逸しているかを追うことになり、結果的にそのライナーを記している「伝記作家」の複雑な思い(狂気?)が執拗に描かれるという、なかなかに手の込んだ作品だ。よく、暴露ものというか、実在の人物の細かいエピソードなどは、なにやらのぞき見興味みたいな下世話なモチベーションで読まれる、みたいに言われると思うけれど、こういうまったくのフィクションでついそういう奇態さに引き込まれる経験をすると、どうも変人・奇人の生涯についての誘因というのが、どこか別のところにあるようにも思えてくる。うーん、何なんですかね、この感覚。予測可能性を裏切られること自体の快楽か、はたまたそれに翻弄されてあたふたする側の滑稽さが面白いのか……。読後感として大きいのは、結局その「伝記作家」の狂気もまた絶大だということ。うーん、執拗さと狂気で貫かれた作品世界……。

復元と実演 〜古楽への雑感

昨日は毎年恒例のリュート発表会。なんだかリュート習いの一年の締めくくりと、新しい一年の幕開けという感じで、これがないと年が越せない、みたいな(そういえばちょうど旧暦の正月だっていうし)(笑)。今年はバロックリュートで、教本からタウセアナ(?)のプレリュード2曲と講習会でやったド・ヴィゼーのラ・モンフェルメイユ。ちゃんと弾ければ美しい曲。が、相変わらずコケまくり(いつものことか……)。ま、さらっと忘れて次に行こう(笑)。

打ち上げの宴会で出た話の一つに、復元か実演かという話題があった(前にも出たっけね)。古楽演奏ということで、ガット弦を張るなどのオーセンティシー追求という動きもあるわけだけれど、それと音楽的に意味のあるパフォーマンスとは、やはりどこか次元が違うことなのではないか、というわけだ。ま、両方のアプローチがあるわけで、本来は両者の往還が理想的なのだろうけれど、なんだか個人的には、先に取り上げた加藤信朗『アウグスティヌス「告白録」講義』に出てきた、哲学的アプローチ(分析的・分解的)とアウグスティヌスの全体的アプローチ(全体知)との違いや、「教説としての神学」と「探求としての神学」の差などにも通じるものがあるなあ、などと思ってしまった。そう、同書の興味深い点の一つは、アウグスティヌスのアプローチを東方的伝統の枠から理解を試みた点にあった……。

というわけで、この後者のホーリズム的アプローチはときに東洋的(東方的?)なものとして、空間的・水平的に位置づけられたりもするわけだけれど、当然、こういう(習い事のような)身体感覚が絡む領域に通底するという意味では、累積的・垂直的にも位置づけられる。西欧の学知のアプローチが、そうした身体感覚的なものの上に分析的なものを積み重ねているのは誰もが知るところだけれど(日本の伝統芸能などは、身体感覚的なものの上に、それを身体感覚の内発的な合理性みたいなものをさしずめ非分析的に積み上げる、という感じかしら)、古楽の復興なんて言い方がなされるのも、それが分析的・分割的アプローチから成り立っているという意味では、とても西欧的なものだという気がする。実際、日本の和楽器とか伝統音楽とか、「古楽の復興」みたいなアプローチで捉えようとはしないわけで(笑)。そんなことを考えると古楽系のいうオーセンティシー概念がなんとも狭苦しいものにも思えてきたり……。

写真は発表会出陣前の愛器(笑)。

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