リュートtube 2

このところ季節の変わり目のせいか、いまひとつ体調が……(苦笑)。そういうとき、やはり個人的にはリュートものを見聞きするのが活力剤になる。というわけで、またもYouTubeをずらずらと。で、今回のお裾分けは再びロバート・バルトのリュート演奏から。今度はヴァイスのソナタ36番ニ短調からアルマンド。バルトが毎年ナクソスから出しているソナタ集の第8集に収録されているもの。うーん、渋いぜ。

中世ギリシア語

メルマガのほうで取り上げた本だけれど、こちらでも紹介しておこう。ロバート・ブラウンニング『中世・近代ギリシア語』(Robert Browning, “Medieval & Modern Greek”, Cambridge University Press, 1969 – 1999))。古代末期から近代までのギリシア語通史を見渡せる一冊。コイネーがその後どのように各国後の干渉を受けて変化していくかを、代表的な具体例を交えつつまとめている。それにしても興味深いのは、近代語へと繋がっていく話し言葉のギリシア語(あえてそう呼ぶならばだが)の大枠が、中世初期、遅くとも10世紀ごろまでには成立していたのではないか、という議論。書き言葉はというと、プセロスの時代にはすでにして一種の擬古調になっていて、年代記その他の端々に話し言葉の影響らしいものが見えてくるのだという。うーん、となると実際の年代記の具体例が見たいところ。同書はあくまで概説書なので、語形変化などの例は載っているものの、テキストの抜粋などはないので、その点がちょっと残念……なんて思っていたら、Medieval Greek Texts: Being a Collection of the Earliest Compositions in Vulgar Greekなんてのが昨年秋に出ているのでないの。これはちょっと覗いてみたい。

装飾の形態学

速攻で買って速攻で読んだバルトルシャイテス『異形のロマネスク』(馬杉宗夫訳、講談社)。これはもう期待以上の内容。ロマネクス建築を飾る柱頭やティンパヌムの装飾芸術を形態学的に分析していくという一冊。各地のロマネスク建築を調査して膨大なスケッチを作り、それを比較検討しながらモチーフが変化する様子を見つけ出すという、さながら言語学でいう形態素分析のような、ある意味とてもオーソドックスな手法なのだけれど、バルトルシャイテス本人の筆によるスケッチは実に多岐にわたっていて(おそらくは使われていないものも含めればむちゃくちゃ膨大な数になるのだろう)、この過剰がとんでもない迫力でもって迫ってくる。それら再録されたスケッチを見るだけでも、ロマネスク装飾がまるで一種の生命をもっているかのように思えてくる。もとは1931年に刊行された博士論文だそうで、それを一般向きに書き改めたものというけれど、いずれにしても結構圧倒されるのは、これを見ると、装飾はあくまで装飾固有の内的なモチベーションで採択され変化していくのであって、たとえばグリーンマンなどにも異教的な意味などなかったのかも、とマジで思えてしまうこと。バルトルシャイテスの出発点が中世美術史だという話はどこかで聞いたことがあったのだけれど、これほどのスゴいものだとは思っていなかった……。

断章13

Ἀσώματα τὰ μὲν κατὰ στέρησιν σώματος λέγεται καὶ ἐπινοεῖται κυρίως, ὡς ἡ ὕλη κατὰ τοὺς ἀρχαίους καὶ τὸ εἶδος τὸ ἐπὶ ὕλης, ὅταν ἐπινοῆται ἀποληφθὲν ἀπὸ τῆς ὕλης, καὶ αἱ φύσεις καὶ αἱ δυνάμεις· οὕτως δὲ καὶ ὁ τόπος καὶ ὁ χρόνος καὶ τὰ πέρατα. τὰ γὰρ τοιαῦτα πάντα κατὰ στέρησιν σώματος λέγεται. ἤδη δὲ ἦν ἄλλα καταχρηστικῶς λεγόμενα ἀσώματα, οὐ κατὰ στέρησιν σώματος, κατὰ δὲ τὸ ὅλως μὴ πεφυκέναι γεννᾶν σῶμα. διὸ τὰ μὲν κατὰ τὸ πρῶτον σημαινόμενον πρὸς τὰ σώματα ὑφίσταται, τὰ δὲ κατὰ τὸ δεύτερον χωριστὰ τέλεον σωμάτων καὶ τῶν περὶ τὰ σώματα ἀσωμάτων· σώματα μὲν γὰρ ἐν τόπῳ καὶ πέρατα ἐν σώματι, νοῦς δὲ καὶ νοερὸς λόγος οὔτε ἐν τόπῳ οὔτε ἐν τῳ σώματι ὑφισταται οὔτε προσεχῶς ὑφιστησι σώματα οὔτε παρυφισταται σώμασιν ἢ τοῖς κατὰ στέρησιν σώματος λεγομένοις ἀσωμάτοις. οὐδ᾿ εἰ κενὸν οὖν τι ἐπινοηθείη ἀσώματον, ἐν κενῷ οἷόν τε εἶναι νοῦν· σώματος μὲν γὰρ δεκτικὸν ἂν εἴη τὸ κενόν, νοῦ δὲ ἐνέργειαν χωρῆσαι ἀμηχάνον καὶ τόπον δοῦναι ἐνεργείᾳ. διττοῦ δὲ φανέντος τοῦ γένους, τοῦ μὲν οὐδ᾿ ὅλως οἱ ἀπὸ Ζήνωνος ἀντελάβοντο, τὸ δ᾿ ἕτερον παραδεξάμενοι καὶ τὸ ἕτερον μὴ τοιοῦτον εἶναι καθορῶντες ἀναιροῦσιν αὐτό, δέον ὡς ἄλλο γένος ἦν ὑποπτεῦσαι καὶ μὴ ὅτι οὐκ ἔστι τὸ ἕτερον μηδὲ τοῦτο μὴ εἶναι δοξάσαι.

非物体がそう呼ばれ、そう考えられるのは、物体が欠如する限りにおいてである。先人たちが言う質料、また質料のもとに置かれた形相が、質料から離れて考えられたときのように、あるいは自然(本性)や潜在態のように。場所、時、境界も同様である。というのも、こうした(非物体の)すべては、物体が欠如する限りにおいてそう言われるからである。しかし一方で、あくまで便宜的に非物体と言われるものもすでにしてある。物体の欠如によるのではなく、物体を生じせしめることがまったくないためにそう言われるものだ。ゆえに、第一の意味では、非物体は物体に関係して存するのであり、第二の意味では、物体からも、物体に関係する非物体からもすっかり離れているのである。物体は場所にあり、境界もまた物体にあるが、知性や知的理性は場所にも物体にも存せず、直接的に物体をあらしめることも、物体に生じることもなく、あるいはまた、物体の欠如ゆえに非物体と呼ばれるものに生じることもない。仮に空虚をなんらかの非物体と考えたとしても、空虚に知性が存することはありえない。というのも、空虚は物体を受け入れるものであり、知性の活動を受け止めることも、その活動を生じさせることもできないからだ。(このように)類は二重に現れるのだが、その一つめをゼノンの学派の人々はまったくわかっていなかった。彼らはもう一つのほうは認めたものの、最初のものは同じではないと見、削除してしまった。(本来は)別の類として考えなくてはならなかったのであり、もう一方の類が存在しないものであるからといって、そちらの類も存在しないと考えるべきではなかった。

「三位一体」の問題圏

しばらく前から読んでいるアラン・ド・リベラ『主体の考古学』は、終盤にさしかかったところで別の仕事で慌ただしくなり一時中断、ようやく最近になって読了した。うーん、様々なテーゼを簡略な公式にまとめながら論を引っ張っていくという著書なので、一度読むペースが狂うと式の意味内容がおぼろげになってしまい、議論の流れに復帰するのに時間がかかる(苦笑)。ま、それはともかく、終盤はもうすっかりアウグスティヌスの問題圏という感じ。その魂論の核心部分では「愛や認識は知(記憶)のうちに、知がみずからのうちに存在するように存在する」とされ(つまり実体的に、しかも相互陥入的に存在するというわけか)、つまりは三位一体論の「相互内在性(περιχώρησις、circumincessio)」がベースになっているらしい。ちなみにペリコーレーシスという用語を最初に使ったのはダマスクスのヨアンネスで、ピサのブルグンデイオによるその翻訳に訳語としてcircumincessioが当てられ、中世においてはよく知られていたのだとか(ボナヴェントゥラなど、フランシスコ会がこの用語を駆使するようになるらしい)。もちろんその相互内在論にも長い歴史があるわけだけれど(エイレナイオス、ポワティエのヒラリウス、アジアンゾスのグレゴリオスなど)、それが中世にいたると、とりわけトマスなどを通じてアリストテレス的な主体概念と結びつき、思考の「主体=代理者」という図式ができていく(「魂はそれがみずからの作用をなすときにのみ主体となる」)のだという。

まだこれは1巻目で、主体成立の長い道筋の端緒についたところまでなのだけれど、改めて三位一体論というのは難しい問題を孕んでいるのだなあと思わせる。相互内在性の議論というのも今ひとつすっきりとは見えてこないのだけれど……同書で言及されている著者たちの議論をちょっと調べてみるのもいいかもしれない。いずれにしても少しド・リベラ節に目が眩んだ感じもするので(笑)、迂回路に入って少し気分を休めてから、昨年刊行された2巻目を読むことにしよう。