アーレントのスコトゥス論

ちょっとついでがあったので、アーレントの『精神の生活』の仏訳版を入手してみた(Hannah Arendt, “La vie de l’esprit”, trad. Lucienne Lotringer, Quadrige-PUF 1981-2007)。で、さっそくトマスとドゥンス・スコトゥスについて触れている第二巻第三章「意志と知性」を読む。その前の章ではアウグスティヌスが意志に重きを置いていた話を取り上げていて、それと対照的な議論としてトマスの知性論(知性が意志に勝る)に言及し、それをもう一度反転させる者として、アウグスティヌスの継承者的にスコトゥスが取り上げられる(スコトゥスは意志を知性よりも重視する)。でも、アウグスティヌスやアリストテレスの文脈とは別に、スコトゥスにあってはその独自性(偶有性や意志、自由の肯定など)がとりわけ重要だというのがアーレントの基本的スタンス。「その著作の最も深い部分にあるアウグスティヌスの遺産はあまりに明白で見過ごせない。アウグスティヌスをそれほどのシンパシーと深い理解で読んだ者はいなかった。けれども、そのアリストテレスへの負債は、おそらくトマスが抱える負債よりも大きいものだった。けれども、単純な事実として、その思想の中核、つまり自由を手にするために喜んで支払う対価となった偶有性に関する限り、スコトゥスには先駆者もいなければ後継者もいない」(p.440)。知性よりも意志に重きを置くというのはアウグスティヌス譲りだといい、一方で「証明不可と予感されるものを、純粋な議論によって証明することに躍起になる」(p.432)点はまさにアリストテレスに学んだがゆえだといい、そうした上で、後にも先にもないオリジナリティこそがスコトゥスの注目点なのだというわけだ。

うーむ、アーレントは「この場でスコトゥス思想の独自性を正当化することは残念ながらできない」としている(p.493)。同書はアーレントの死後に刊行された遺稿なので、結局そうした独自性の読みは完遂されなかったことが悔やまれる。このあたりは後世の人への宿題となったわけだけれど、これはなかなか厄介かも。そういう読み方をするには比較研究みたいな形にするほかなく、当時の思想的伝統やら隆盛だった議論体系などをちゃんと掴んだ上でないと、どこがどうオリジナルなのか、それにどういった価値があるのか、といったことはわからないということに……。いわばスコトゥスは、方々をめぐってきてやっと取りかかれるタイプの思想家ということになるのかしら。でもアーレントはスコトゥスのオリジナリティはかなりぶっきらぼうな形で唐突に出てくるみたいなことも言っているし、案外目に付きやすいとか?このあたり、もう少し検討してみよう。

久々のガジェット話……

ちょっと閑話休題的だけれど……ガジェット話。iPod Touch(とiPhone)の辞書もいろいろと充実してきた昨今。ものは試しというか、かなり値段は張るのだけれど、『ウルトラ総合辞書2009』というのを入れてみた(こちら→ ウルトラ統合辞書2009)。広辞苑第六版のほか、リーダーズ英和、和英中辞典、新漢語林、現代用語の基礎知識、三省堂のデイリーで日独、日仏、日西、日伊などが一挙にインストールできる。市販のベーシックな電子辞書とほぼ同等かそれ以上になるという感じ。そういう意味ではお得か(でもま、もっと安くいろいろ揃える手もあるのだけれど……)。でもちょっと気になるのは、クロス検索とかできないこととか、検索のステップが普通の電子辞書(EX-wordあたり)より1ステップ多くなってしまう点とか(このステップの多さはiPod Touch全体の仕様のせいみたいで、このウルトラ辞書に限ったことではないのだけれど……)。EX-wordで検索語を入れれば、分割画面で候補とその意味が表示されるけれど、ウルトラ辞書の場合、まず候補リストが表示され、そこから目的とする検索語を選んでやっと意味が表示される。うーん、EX-wordとかに馴れていると、この1ステップ余計な点はちょっと気になるなあ……。

ステップ数の話のついでだけれど、そのiPod Touchを出先でネットに接続するために、これまでウィルコムのアドエスでWMWiFiRouterの旧版を使ってきた。けれども、もっとステップ数が少なくてすむ優れものが出ている。WiFiSnapがそれ(アドエスとWilcom03専用だそうだ)。起動前に自分で無線LANをオンにしたりしなくてすむし、接続も若干早い。手軽さが全然違う。このあたりは後発の強みか。

外在化するイメージ

技術哲学という狭い括りなどには到底収まらないジルベール・シモンドン。で、昨年秋に刊行されたその1965年から66年の講義録を読み始めたところ。『イマジネーションとインヴェンション』(Gilbert Simondon, “Imanigation et invention”, Les Editions de la transparence, 2008)。うん、まだ序論から第一部へと進んだばかりのところだけれど、期待通りめっぽう面白い。シモンドン哲学の基本的なパースペクティブは、事物のプロセス性を描き出していくこと。生物の発達などとパラレルに、技術産品(技術対象物)などもまた絶えず変化を繰り返していくものとして描かれる。しかもそれは、内的・潜在的に含まれているものが外在化するプロセスだとされる。で、この講義では「イメージ」を同じくプロセス描写の俎上にのせている。この場合のイメージは人間(あるいは生物)が抱く内的なイメージから、実際に外在化する図像、さらには他の事物に付される「イメージ」まで、およそイメージ(イマージュ)という語がカバーする広範な領域をそっくりそのまま扱おうとしている。そしてそれを、生成・定着・対象化という大まかな三段階の外在化サイクルの観点から詳細に描こうとしている。

シモンドンはマクロ的なプロセス指向だけれど、イメージの外在化という話はミクロ的・現象学的な文脈で見ることもでき、その場合、ファルクがやっていたように中世の神学・哲学的議論をそこに読み込むこともできる。これも前に挙げたスアレス=ナニの『天使の認識と言語』がらみだけれど、トマスが持ち出す知的形象(スペキエス)というのも、そうした現象学的な「イメージの外在化」の取っかかりになりそうな話。トマスによる天使の認識論においては、天使は自己認識に関しては神と同様に即一的に理解するものの、天使相互の認識では、神によってもたらされる知的形象(スペキエス)を介在させざるをえないとされる(スペキエスは人間の認識でこそ大活躍するものだけれど)。スアレス=ナニはここで、スペキエスもまた天使から人間にいたる被造物の階級秩序の中で階層化されていて、上位のものが下位のものを包摂する関係にあることを指摘している。これ、上位にいくほど形象の外在性の度合いが低くなっていくというか、内・外のそもそもの区別が撤廃されていくというか。すると上位方向へのアプローチは、外在化プロセスを逆に辿るということに……。逆に下位方向への発出論的な話も(トマスは一部アヴィセンナ的な発出論を継承しているわけで)、形象の外在化プロセスとして読み返せるということに……(?)。

ヒンターライトナー

リュート奏者ルッツ・キルヒホフの新譜はフェルディナンド・イグナス・ヒンターライトナーという17世紀の作曲家のリュートのための協奏曲『音楽の奇跡』(Musical Miracles -F.I.Hinterleitner / Lutz Kirchhof(lute)icon)。協奏曲というわけで、ヴィオラ・ダ・ガンバとパルドゥシュ・ド・ヴィオールが参加している。でも、リュートのための協奏曲というだけあって、主役はリュート。だから通奏低音に回るのではなく、ちゃんとメロディにも絡む絡む……。とても珍しい(笑)。また、全体的に舞曲っぽさが前面に出ているのも個人的に好ましい(なんだか本当に踊れそうな感じ)。このヒンターライトナーという人物、詳細は不明。ライナーには、リュート協奏曲を1699年にウィーンで出版したとあり、フランスのリュート曲のリズミカルな様式と(ジャズっぽいとか書いている)イタリア式の旋律の動きとを結合させている、みたいに書いている(キルヒホフが)。でも全体的にはとても好印象でノレる。ぜひタブラチュアを見てみたい……。


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断章17

(Lamberz 28; Creuzer & Moser 29)

Τὸ ἀσώματον ἂν ἐν σώματι κατασχεθῇ, οὐ συγκλεισθῆναι δέει ὡς ἐν ζωγρείῳ θηρίον· συγκλεῖσαι γὰρ αὐτὸ οὐδὲν οὕτω δύναται καὶ περιλαβεῖν σῶμα οὐδ᾿ ὡς ἀσκὸς ὑγρὸν τι ἕλκειν ἢ πνεῦμα, ἀλλ᾿ αὐτὸ δεῖ ὑποστῆσαι δυνάμεις ῥεπούσας ἀπὸ τῆς πρὸς αὐτὸ ἑνώσεως εἰς τὸ ἔξω, αἷς δὴ κατιὸν συμπλέκεται τῷ σώματι· δι᾿ ἐκτάσεως οὖν ἀρρήτου τῆς ἑαυτοῦ ἡ εἰς σῶμα σύνερξις. διὸ οὐδ᾿ ἄλλο αὐτὸ καταδεῖ, ἀλλ᾿ αὐτὸ ἑαυτό, οὐδὲ λύει τοίνυν θραυσθὲν τὸ σῶμα καὶ φθαρέν, ἀλλ᾿ αὐτὸ ἑαυτὸ στραφὲν ἐκ τῆς προσπαθείας.

非物体的なものが物体的なものに含まれている場合でも、檻の中の動物のように閉じこめられなくてはならないわけではない。というのも、それを閉じこめたり取り巻いたりすることは物体にはできないし、革袋がなんらかの液体や空気を入れるようにもできないからだ。そうではなく、非物体的なものは、それ(非物体的なもの)との結合によって外在化へと向かう力を実体化しなくてはならないのである。かくしてそれは下り、物体と一体になる。名状しがたい自身の拡張によって、物体に結合するのである。ゆえに、それは自身以外になにものも必要とせず、離れるときも、物体の破損や消滅によってではなく、非物体それ自身の熱意が逸れるがためなのである。